長命社会を生きる

長命社会を生きる:第4部  介護のときに/1 多様な人生どう「認定」 

毎日新聞 97年5月19日

長野県南牧村は八ケ岳山ろくにある。村の最高齢者、井出沢つる代さん(99)が脳こ
うそくで倒れたのは昨年暮れのことだ。村の診療所に勤める色平哲郎(いろひら)医師
(37)がつる代さんを診た。無表情で言葉に反応せず、病室の壁を見つめていた。

3カ月たった。色平医師は病後の経過を聞くため、退院したつる代さんを訪ねた。長男
夫婦の隣家に一人住む。ベッドで初めて笑顔を見せた。

一枚の写真が飾られていた。赤い着物のつる代さんを中央に一族が取り囲み、ほほ笑ん
でいる。米寿の祝いだ。色平医師は写真に並ぶ顔に驚いた。見覚えがある。自分の患者
だ。皆つる代さんの娘や孫だった。

つる代さんは、12人の子供を産み、孫、ひ孫、やしゃごは計71人。村とその周辺に
住む一族は100人を超す。つる代さんはその長(おさ)になる。

色平医師の目に突然つる代さんの顔が神々しく映った。彼女のことを少し知っただけで
これほど印象が変わる。彼女も病院から自宅に戻っただけでこんなに豊かな表情になる
。そのことがまた心を揺り動かした。

横浜に生まれ、京大医学部を出て「地域医療」の世界に望んで飛び込んだ。村でただ一
人の医者。介護保険が導入されると、介護の必要性の度合いを認定する「認定審査会」
に入らざるを得ない。高齢者の「要介護」度をランクづけするのだ。それで介護サービ
スの内容が決まる。

色平医師は自問し、悩む。自分はつる代さんを「診た。状態は分かっている」なんて言
えるのだろうか。「認定」するって、どういうことなんだろう。

=======

古い住家が密集する東京の下町・千住。

地元病院が中心になり、先駆的な「24時間在宅ケア」をしている。深夜、看護婦、ヘ
ルパーを乗せた黄色い軽自動車が路地を縫って走る。夜と朝、延べ18軒に私も同行し
た。

戸を開けると彼(84)はベッドに起き上がっていた。「久しぶりじゃねえか」。看護
婦の龍良子さん(34)を見て表情が輝く。「しっかり仕事やってんのか?」。照れ隠
しの憎まれ口だ。新米には体も触らせないが、龍さんには心を開く。ぬか漬け用のタル
に湯を張り、足を洗う。家にある物を使うのが持論だ。

「もっと薬をくれ」「だめ、胃が痛くなるでしょ」「おまえの腹じゃねえだろ」「だめ
!」「仕方ねえな」。そう言う彼の表情は晴れている。

掛け合いのような言葉を交わしながら、龍さんの手は休まない。「また来るね、おやす
み」。電灯を消す。「忘れ物すんなよ」と声が返ってきた。

龍さんも、最初は体に触れることさえできなかった。尿のにおいの充満する部屋に座り
込み、何時間も昔話を聞いた。3カ月後、ようやく世話ができた。

翌朝。「おはようございまーす」。龍さんは引き窓を開けて、彼女(61)の部屋に入
った。家が狭く、玄関を通ると眠る家族をまたがねばならない。

10年前、故郷の鹿児島で龍さんは入院中の祖母を世話した。脳卒中後のリハビリ。す
ぐ手助けを求める祖母をしかった。祖母は龍さんの目前で1000円札を取り出し、他
人に介助を頼んだ。頭に血が上った。

「家族だから私は傷ついた。他人なら優しくできたのに」。介護から家族関係が崩れる
悲劇は多い。

「家族は思いっきり愛情を注ぐだけでいい。介護はプロの仕事なんです」

龍さんはそう考える。

======= 

農繁期を前につる代さんの長男が倒れた。つる代さんは一時的に特養施設に預けられた
。高原が雨に煙る日、私はつる代さんを訪ねた。畑仕事を休んだ娘2人と孫2人がそば
にいた。

まひの残る右手にウサギの人形。左手には娘が摘んだサクラソウ。「来られたのは雨の
お陰。『おばあちゃんの雨』だね」と娘が言うと、写真と同じ穏やかな表情になった。
そして親指で私の手の甲をさかんになで始めた。明治時代8歳で子守奉公に出、畑で働
き、何人もの子や孫らを育て慈しんできた手だ。

この温かい手は今何を求めているのだろう。何が必要なのか。

======= 

長命の時代に人が人を支えるとはどういうことなのだろう。つる代さんの包み込むよう
な人生の重み、龍さんらが織り成す人間同士の触れ合い。「介護」の形と意味は一様で
はない。

介護保険をめぐる国会審議も大詰めを迎えた。介護が家族を超え、社会の一人一人が担
う時代に入ろうとしている。
やすらぎは約束されるのか。現場に「あすの光景」を思い重ねながら歩いた。


写真キャプション:井出沢つる代さん(前列左から5人目)
の米寿の祝いに集まった一族=1986年

【小国綾子・31歳】
inserted by FC2 system