時代の証言者から、時代をつくる者へ

盛岡 正博 (もりおか・まさひろ)
長野県厚生農業協同組合連合会代表理事理事長

巨星たちと出会い
地域医療の歴史の証言者と自称する

「地域医療の歴史の証言者かな」と盛岡正博氏は自称する。昼下がり、長野県厚生農業
協同組合連合会(以下、長野厚生連)代表理事理事長室でのインタビューは、戦後日本
の医療界に多大な影響力を及ぼした人々の人物像にまで及ぶ内容。彼の言葉の意味がよ
くわかった。つまり盛岡氏は、決して多いとは言えない戦後医療界の巨星の数人とかか
わるといった稀な経験の持ち主なのである。かかわった人物の中で彼自身にとってもか
なり縁が深く、医療界では知らぬ人のない2人がいる。徳田虎雄氏と若月俊一氏だ。


盛岡 正博 (もりおか・まさひろ)
長野県厚生農業協同組合連合会代表理事理事長
1968年   京都大学医学部卒業
1970年   医療法人稲門会岩倉病院(精神科)
1979年   米国ボストン小児病院(客員研究員)
1981年   特定医療法人徳洲会京都宇治徳洲会病院、
埼玉医療生活協同組合羽生総合病院、
徳之島徳洲会病院等
1988年   湘南鎌倉病院開設者・院長
1995年   長野県厚生農業協同組合連合会佐久総合病院
1997年   長野県厚生農業協同組合連合会佐久総合病院人間ドック科部長
2002年   長野県厚生農業協同組合連合会佐久総合病院副院長
2007年   長野県厚生農業協同組合連合会代表理事専務理事
2009年   長野県厚生農業協同組合連合会代表理事理事長



精神科医療における挫折渡米、
そして意外な出会いで帰国

 盛岡氏は徳之島出身。徳田氏と同郷ゆえ、彼が徳洲会グループの病院で働いたのだと
考えても不思議はない。徳田氏と旧知の仲なのだと冗談を口走っても、誰も疑わないだ
ろう。しかし事実は、1981年までお互い存在さえ知らなかった。2人を引き合わせたの
は映画プロデューサーとして高名な山本又一朗氏。盛岡氏の叔父にあたる。

「叔父は、撮影でロスにたびたび来ていたので、アメリカ留学中にはずい分世話になり
ました。あるとき彼から本当に気軽に、『徳田という友人の始めた京都の病院がうまく
いっていないようだ。もし良かったら、手伝ってはどうか』と持ちかけられました」

 京都大学卒業後1970年から約9年間、民間病院で精神科医として精神科病棟開放化運
動に加わっていた盛岡氏は、一定の成果をあげたものの患者の処遇問題や疾病論などを
巡って内部混乱する精神科医療に見切りをつけ、医師を辞めようかとさえ考えていた。

 そんなころ、突然、家庭の事情で留学できなくなった先輩の精神科医/森下一氏のす
すめで渡米が決まる。かといって、もう一度、精神科医として再出発しようとの意思が
あったわけではない。

「渡米前に僕の中で、精神科に区切りはついていた。ひょんな理由でアメリカに行った
のは、もしかするとジェネラルフィジシャンとして、強い差別を受ける有色人種や移民
の医療にたずさわれるかもしれないと考えたから。ただ、学生運動で反米を叫んでいた
僕にとって、決してアメリカは好意の持てる国ではなく、気は進んではいませんでした
(笑)」

「しばらくアメリカにいるうち、この地でマイノリティのために働く医師になろうかと
思わないでもなかった」と告白するが、すでに渡米時に36歳、機会があれば日本でジェ
ネラリストになりたい気持ちがあって当然。叔父からのすすめは、多分に魅力的に響い
ただろう。

 いずれにしろ、精神科医療における挫折、渡米、そして意外な出会いと、彼の人生の
駒が進んだことだけは確かなようだ。最後には帰国を選び、特定医療法人徳洲会京都宇
治徳洲会病院に赴任。38歳の研修医として内科を学び直す覚悟を決めた。



8万5000人の支援で
湘南鎌倉総合病院の前身の個人病院を創設

 徳洲会グループにおける盛岡氏の足跡は、「湘南鎌倉総合病院を立ち上げた人物」と
記すだけで十分すぎるほどの重みを得る。おそらく、彼が開設者であった事実を知り、
驚きの声をあげる人は少なくないだろうがーー。

「徳洲会では茅ヶ崎徳洲会総合病院が軌道に乗っており、鎌倉にも病院をと工業用地を
入手していました。ところが地域医療整備計画が出て、病院不要論も浮上してきた。結
局、国の決定で病院建設は白紙状態になってしまったのです。徳洲会も困り果てまして
ね。

 当時、徳洲会の幹部メンバーのひとりであった僕は、鎌倉市議会議員を個別訪問し、
確か33名のうち4名の保留者を除いた方々が、病院は必要だと発言するのを聞き、真実
を明らかにする必要を感じました。

 そこで、鎌倉周辺の方々を対象に建設賛成の署名集めを開始してみると、なんと2週
間で8万5000人の署名をいただけたのです」

 当然、盛岡氏は病院建設に向けて行政相手に猛然と交渉を進めた。そして行政から出
された着地案は、「開設者が法人格でなければ可能」。彼は躊躇なく、自ら鎌倉に個人
病院をつくる決心をする。しかし、気概はあっても資金はなかった。

「でも、時代が良かった、バブル時代でね。蓄えもない、持ち家もない。銀行さんが僕
の名前で定期預金を組んでくれて、それを元手にお金を貸してくれました。地域の熱意
が金融機関まで動かしたのですね。個人病院ですから納税額が鎌倉市の長者番付で4位
になったこともありましたが、実情は勤務医基準の給料しかもらっておらず、個人的に
は資金繰りにも苦労しました」

 その後、約7年を経過して医療法人の申請が認められ、現在の湘南鎌倉総合病院とな
る。数ある徳洲会グループ病院の中でも五指に入る代表病院だ。

「スタッフが、非常にがんばってくれた。茅ヶ崎徳洲会病院を模範に医療の質を担保し
高めようと尽力してくれました。それと、やはり8万5000人のサポーターの皆さんの思
いが病院を立派に育ててくれたのだと思います」

 ところで、「なぜ、徳洲会から去ったのか?」。今の盛岡氏の立場を考えれば、愚問
。彼が真剣に答えれば、一冊の本が書き上げられるだろう。案の定、「ここへ来てホッ
としている。この言葉の中に答えがあると思ってください」と盛岡氏は微笑んだ。

 湘南鎌倉総合病院で院長を務める最後の1年、盛岡氏は徳之島での医療活動を兼務し
ていたそうだ。心の整理をしていたのかもしれない。

 ちなみに、彼には東大を卒業して医師になった弟がいる。故郷であり医療過疎の徳之
島で住民のために不眠不休で働いていた、その弟の突然の過労死は、盛岡氏が帰郷して
いた間におきた出来事だった。しばらくの後、盛岡氏は徳之島をそっと離れ、同時に徳
洲会からも離れて、目的地の見えない一歩を踏み出す。何があったのか、どんな思いだ
ったのか、聞けなかった。聞いても、答えはなかったと思う。



自分をずるい人間と言う
若月俊一氏に感じた“同類の臭い”

 若月俊一氏との最初の出会いを、盛岡氏は懐かしそうに、こう語る。

「お会いすると先生は、すぐに『少し手伝ってくれるか』とおっしゃいました。ありが
たく、1〜2年間滞在するつもりでお受けしました。51歳になっていた自分にとって、あ
との10年をどう生きるかの試金石になる予感がありました」

 立場は、湘南鎌倉総合病院を辞してほぼ浪人に近い状態。ようやくできた時間を使っ
て、大学同窓の清水茂文氏(後の佐久総合病院院長)、高橋勝貞氏と旧交をあたためる
目的での佐久病院訪問だった。

「失礼を顧みずに申せば、先生には、僕と同類の臭いを感じました。大学卒業以来ずっ
と民間病院を歩んだ点、医療過疎地域に病院をつくろうと奔走した点、次元が違いすぎ
ると指摘されればそのとおりですが、当時の僕には先生が同じ種族と思えたのです。

 初対面にもかかわらず、『手伝ってくれるか』の一言がこぼれた理由は、先生にも似
たような感覚があったからではないか。せんもない推測ですが、当時すでに先生の跡を
継ぐ人材は多く育っていました。ですから、僕の力量を評価したり、あるいは希有な可
能性を期待したなどは、たまたま立ち寄った男を呼び止めるような奇特な行為を納得さ
せる理由にはなりえない(笑)。となれば、推理は“同類の臭い”に傾くわけです」

 出会って知遇を深めた盛岡氏の若月氏との思い出は、農村医療の伝説的ヒーローの、
もうひとつの人間臭い横顔を教えてくれる。

「若月先生から感じたのは、『トップに立つ人物の孤独』でした。先生のご活躍は僕も
知っていましたから、お会いする直前まで強いエネルギーの塊のイメージがあった。孤
独感をたずさえた姿は、まったく想像していなかったので、今でも強烈な印象として残
っています。

 近しくさせていただくようになると図々しくも、かなり意地悪な質問をするようにな
りました。『先生は、自分の理想をどれくらいやり遂げたのですか?』、『3割くらいは
できたと思うよ』。『跡継ぎは、どうするの?』、『そりゃ、誰かがやってくれるだろ
う』。結局のところ、楽観的で、底抜けに人を信用する人物像に、圧倒されただけでし
た」

 若月氏が盛岡氏に、繰り返し発したフレーズがあるという。

「話のおわりに、『モリちゃん、結局、僕はずるいんだよ』と、よく言われていました
。とても響く一言です。戦前戦後を生き抜いた若月先生の個人史を感じさせる言葉です
。

 僕は、『妥協はするけど、隷属はしない』という言いまわしをよく使います。しかし
、つまりは妥協しているのです(笑)。先生が、『僕はずるいんだよ』と発するとき、
どんな感覚に身を置いているかーー理念に純粋に殉じるべき。のたれ死んでも、信念を
貫くべきであるーー稚拙とはわかっていても心のどこかに、どうしても滅しきれない気
持ちがあって、いつまでも、どこかでそれを引きずっている。僕が先生に感じた“同類
の臭い”は、そんなところにもあったわけです」



歴史ある長野厚生連が
前例のない代表理事の理事長人事を敢行

 民間病院の院長まで務めた人が、いち医師となって佐久総合病院(以下、佐久病院)
に着任。1、2年のつもりが、2002年、副院長、2007年には長野厚生連代表理事専務理事
となり、昨年、長野厚生連代表理事理事長となった。

 歴史ある長野厚生連が、医師免許所持者を代表理事理事長に戴いたのは史上初。全国
の厚生連を見渡しても前例皆無な、まさに快挙である。

「医療環境は、厳しくなるばかり。どういう方法で切り抜けるかまったく解決策が見え
ていない状況と、今回の人事は無関係ではないでしょう。また、佐久病院の再構築問題
をめぐってこの7、8年、特に土地を取得した4年前から、大きな課題が多数勃発し、解
決には医療現場を知っている者をリーダーに据えたほうがいいといった暗黙の了解で、
僕に白羽の矢が立ったのだと思っています」

 代表理事理事長に就任したばかりの盛岡氏は、つづけて簡潔に抱負と思われるコメン
トを添えてくれた。

「医学部を卒業して以降、僕は民間病院一筋に歩いてきました。歩みの中で知ったのは
、『医療環境は患者さんにとってだけでなく、医療に従事する側にとってもハッピーで
なければならない』。こうした僕の考えも考慮され今の役割を要請されたのだと思うの
で、医療従事者の労働環境の改善には力を入れるつもりです」

 長野厚生連は組織下の全10医療施設で、長野県内総数の20%を超えるベッド数を占め
ている。また、あまりにも有名な佐久病院が屋台骨を支えて歴史を紡いだ組織でもある
。長寿県でありながら県民医療費が低い水準で維持される医療優等県/長野県の現在に
大きな貢献を果たした事実も、多くの医療関係者が認めるところだ。そんな団体が、前
例のない代表理事理事長人事を敢行したのだから、衆目を集めないはずがない。

 しかも、本人は次のように明かす。

「長野厚生連の果たした長野県医療への貢献を、一人称で語るのは、代表理事理事長と
いっても少々はばかられます。何しろ僕は、長野県にお世話になって、まだ15年の新参
者ですから」

 目を凝らせば、この事実こそがセンセーションの本質とも見える。長野厚生連が盛岡
氏にかける期待は並ではないのだ。



50歳をすぎて、ようやく
「選んで良かった」と思える心境に

 盛岡正博とは、どんな人物なのか。ここからしばらくは、彼の足跡を幼少期から追っ
てみたい。

 1943年鹿児島県徳之島生まれ。沖縄県が1945年の敗戦から1972年の返還まで事実上ア
メリカの占領統治下にあったのは誰もが知るところだが、実は、徳之島のある奄美群島
も敗戦直後はアメリカの占領下にあり、1953年に沖縄から切り離され、本土復帰してい
る。

「教員であった父は、祖国復帰運動に参加し、盛んに活動していました。僕も子どもな
がらにハンガーストライキの集団に加わった記憶があります」

 しかし、盛岡氏の両親は子どもの進学と将来を考え、復帰前に本土/鹿児島県に渡る
決意をする。渡った後、特段の後ろ盾も身寄りもない盛岡家には覚悟していたものの厳
しい貧しさが待っていた。

「親子6人で4畳半一間と2畳の板の間暮らし。僕は大学入学まで一度も、まともな机で
勉強していません。ずっと素麺箱が勉強机でした(笑)」

 医師をめざしたのは、当然の成り行きだったと言えよう。

「父方の祖父が苦学し医師になり、徳之島で開業して過労により38歳で早世した。その
せいで、父方の親族は、僕に医師になってほしいと強く望みました。僕としては、『医
師になると、早死にするんだろうか』との心配のほうが強かったのですが(笑)、反抗
する理由もありませんでした」

 1962年、京都大学医学部入学。学生運動の時代である。盛岡氏も、時代の洗礼を受け
ているようだ。聞く者の心を揺さぶる言葉をつぶやく。

「結局のところ、大学で勉強し、卒業して医師になり、社会を経験し、その途上でずっ
と自分探しをしていたように思います。『貧乏なわりに、ようもくだらんことを考えて
生きたもんだ』と我ながら呆れます(笑)。ただ、医師なる職業については、50歳をす
ぎてようやくですが、『選んで良かった』と思える心境にいたりました。それはつくづ
く幸福だと感じます」

「50歳をすぎて、ようやく」。これまでの歩みを披露されたあとだったからだろう、自
然と「流転」なる言葉が想起された。それほど起伏に満ちた20数年の半生である。



どんなところからでも、いつでも、
人の営みは起死回生で生き返れる

 前述したように、盛岡氏の目前には佐久病院の再構築が大きく立ちはだかっている。
2次、3次の救急救命や、がん治療などを含めた先進医療の部門を分割して別の地に移転
させ、現病院では総合的な地域の要望する医療を提供する。再構築の全貌は、おおよそ
このように表現していいだろう。

「佐久病院の良さは、すべて包含した医療体系をつくっていた点にあると思っています
。訪問診療、訪問介護から24時間救急、そして一般医療、高度医療、専門医療、リハビ
リなど、あらゆる医療を一ヵ所で行っていた。けれども、手がける分野が激増し、何も
かもが中途半端になってきてしまっているのです。断腸の思いですが、今回の病院再構
築は避けられるものではありません。

 院内でもいまだに100%の理解を得られていないのですから、地域の方におわかりいた
だくには、今後もまだ時間がかかるでしょう。理解していただけるよう、尽くすだけで
す」

 佐久病院の再構築は、ここで繰り広げられてきた地域医療を守るためだと盛岡氏は考
えている。

「住民の方には、都会に出て行かなくても、自分たちの近くで同等の医療を受けられる
ようになるのだと説明しています。患者が行くのではなく、医師が来る。ですから、ト
ップレベルの医師の養成や招聘に努め、地域住民に納得いく医療を提供すると同時に、
地域で完結する医療ができる医療機関をつくりたい。地域医療とはそういうものではな
いでしょうか。

 今後も高齢社会が進み、交通弱者が増えます。彼らがまともな医療を受けられなくな
ってはいけない。若月先生は訪問診療を始めた当初、『医者が出前するんじゃない。う
どん屋でもあるまいし』と批判を受けたようですが、この姿勢は守られるべき伝統。そ
の意味で、今度新設する病院を僕は、高度な技術を持った医師が、極論を言えばアメリ
カからであろうとヨーロッパからであろうと、来院して診療する場所にしていくつもり
です」

 佐久病院の再構築は、若月俊一氏の築き上げた、ある意味、地域医療の模範を崩壊さ
せるきっかけになるのではないかと懸念する者も多いが、盛岡氏は、失ってはならない
若月イズムを根底でしっかり受け継ぎ、事業を進めようとしている。たずさわる厚生連
職員には、こう檄を飛ばしているそうだ。

「いつまでも若月俊一を枕言葉にするな。君ら自身の中に若月俊一を見つけろ。君ら自
身の中にある若月俊一を育てろ。そして、病院再構築に取り組んでほしい」

 多くの医師が悩める時代。彼らにメッセージがあるとしたらーー。

「人の営みはどんなところからでも、いつでも、起死回生で生き返れる。僕からメッセ
ージがあるとしたら、そんなところでしょうか(笑)。

 思えば、生き場所を探しつづけた人生です。が、それは同時に死に場所探しでもあっ
たのだと、最近気づきました。自分らしく生きられる場所を探すとは、自分らしく死ね
る場所を探す作業なのですね」

 時代の証言者は、いつまでも証言者のままではいられなかった。盛岡氏は巨星の偉業
を時代に即したかたちでつくり変える使命を負った。佐久が地域医療のメッカでありつ
づけられるか否か、地域医療のあるべき姿をいち早く示せるかどうかは、ひとえに盛岡
氏の双肩にかかっている。

 時代の証言者から、時代をつくる者へ。生きる場所は、死ぬ場所。気づいたのは、歴
史をつくる者になった証にほかならない。

取材:中村敬彦
文:及川佐知枝
撮影:木内博

記事提供:株式会社メディカル・プリンシプル社
『DOCTOR‘S MAGAZINE』2010年3月号より

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盛岡氏10歳、弟さん7歳のときに徳之島(当時はアメリカの信託統治下)よりパスポー
トを取得して鹿児島にわたる(1953年)

市来中学校時代にはバスケット部で活躍。右端の15番が盛岡氏(1956年)

大学時代は演劇部に入る。写真は、京大劇団での炎座公演の様子。中央が盛岡氏(1963
年)

医療法人稲門会岩倉病院時代に精神科病棟開放化の視察でイギリスに(1975年)

アメリカのボストンに留学中、ニューヨークで遊ぶ(1980年)

湘南鎌倉病院の落成式で開設者として挨拶(1988年)

糸川英夫博士とイスラエルを視察(1988年)

佐久総合病院歓迎医局会。左から盛岡氏、若月総長、松島院長(1995年)

アジア農村医学会(タイ・アユタヤ)にて(2003年)

晩年の若月総長と 

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