人として生きているか  WHO医務官 スマナ・バルアさん

世界保健機関(WHO)医務官 スマナ・バルアさん 

山ろく清談  信濃毎日新聞  2010年8月18日 一面インタビュー

人として生きているか


私が医師になったフィリピン大学レイテ校は、「社会的契約」を基本にしており、
入学には出身の村の75%の世帯からの推薦の署名が必要でした。
英語で学ぶフィリピンの医学校は、卒業すれば海外で就職できるため、
以前は卒業生の7割近くが国外に流出していました。
そのため、地元から信頼ある者を入学させ、地域医療を担う医師を育てるために
始まった制度でした。
入学後はまず助産師と看護師の資格を取って地域の村で働き、
医師になるまで約10年かけて基礎をつくります。
私は助産師として215人の赤ちゃんをとりあげました。

日本はいま、フィリピンなどから介護福祉士や看護師を招こうとしていますね。
しかし看護師などの人材はフィリピンでも不足気味です。
それに、給料が高いとはいえ、あらためて日本語を勉強するよりは、
英語で働ける国の方が彼らには楽です。

日本と相手国の両方にとって良い方法があります。
日本がお金を出してフィリピンの看護学校の授業に日本語講座を組み入れ、
少しずつ学んでもらう。
フィリピンの国家試験に合格した生徒は、母国で一定期間働いた後、
一定期間は日本で働けることにする。
これを続ければ学ぶ人、母国で働く人、日本で働く人が自動的に循環します。



故郷のバングラデシュの村にいた12歳のとき、近所の女性がお産で死に、
医者になると決めました。
進学目的で1976年に来日しましたが、日本の医療は非常に専門化しており、
きれいな水も電気もない地域には向かなかった。
発展途上国では自分の手と目に覚えさせた医療しか使えません。
どこに進学するかアジア各国の医学部を見て、フィリピンに決めたのです。

アジアには、母国同様に医療状況が悪い国がたくさんあります。
汚い水を飲み、ごみの山で暮らす人たち。
一人ではどうしようもない。
仲間が必要です。
世界保健機関(WHO)の仕事に就いて、アジアの地域医療に関心がある人材を
育てることにしました。
各国を飛び回る合間に医師や学生と会います。
長野へも毎年、私にとって地域医療のメンター(師、助言者)だった若月俊一先生
(佐久総合病院名誉総長、2006年8月死去)のお墓へ近況報告と、
若い人たちとの意見交換に来ます。


豊かな日本にいれば、アジアの現実に目をつぶって「私には関係ない」
と考えることもできます。
しかしそういう人は自分に対し「人間として生きているか」と聞いてみた方がいい。

ロンドンで医学を学ぶ長女は、私が勧めたわけではないのに、
カンボジアでボランティア活動をしています。
私も人生の道は自分で決めました。
苦しいこともありましたが、時間がたてばみんな自慢話です。
日本では子どものころから進学・就職へと人生のコースが決まっているかの
ようですが、子どもは広い視野で、多くのことに関心をもって育ってほしいですね。

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写真キャプション

WHO東南アジア地域事務所でハンセン病対策を担当。
佐久総合病院の故若月俊一名誉総長に共鳴し、同病院の医師らと交流を続ける。
バングラデシュ出身。55歳。佐久市の医王寺で。

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