私にとっての若月先生 小海診療所所長 長純一
(長文、その冒頭部分のみ)

「季刊/佐久病院 No 06」 2010年7月31日発行
(発行所 JA長野厚生連佐久総合病院、発行者 伊澤敏)


・・・医療を良くしたい・・・

私は日本の医療が住民・国民のものになっていないと感じ医師を志望した。
医学生時代は、患者中心の医療、最も困難を抱える領域の医療を行いたい、
さらにその実践を通じて社会に貢献したいと考えていた。
さまざまな医療関係の本を500冊ほど読み漁り、いろいろな医療の集会などに
足を運び、さらに優れた医療実践を行う先生方の元を訪ねた。
特に、僻地医療・国際保健医療・精神医療・緩和ケアなどに興味を持っていた。

一方で、医学教育・生命倫理・患者の権利・医療史・医療人類学などにも
関心が生まれた。
これらの領域の第一人者であった故中川米造先生にいろいろかわいがっていただいた
(昨年13回忌記念シンポジウムでは、弟子として発表させていただいた)
こともあり、医学教育を良くすることで医療を良くするという選択も考えたが、
やはり実践者であることを基本にしながら、医療を良くしたい、
医療を通じて社会に発信するようになりたいと考え、臨床医を目指した。

医療史や患者の権利・医の倫理などを学ぶ中で、
和田心臓移植が極めて問題が多かったことを知った。
当時の医療界の中では極めて少数派であったが、若月先生が中川米造・川上武・
松田道雄氏(いずれも医療民主化の大先達)らとともに異議を唱えていたこと、
そしてその経過なども中川先生に教わっていたので、
志を同じくする存在である若月・佐久病院は自分にとっては魅力だった。

佐久病院に研修医として来るときの目標は、臨床医としての基本的な力をつける
ということよりも、若月先生の下で、若月先生を学ぶということが
第一の目標であった。
在野精神を維持しながら地域実践を積み重ね、常に日本の医療全体、
ときには社会に対し、地域医療・農村医療という立場から発信してきたその存在の
大きさは、著作集ほか当時手に入れられるほとんどの著作を読んだ影響だけでは
なく、訪ね歩いたさまざまな領域の優れたパイオニアワークを行った人々
(たとえば日本最初の精神科開放病棟を創った医師)に大きな影響を与え続けて
きたことを知る中で、さらに膨らんで行った。

つまり日本の近代医療史上画期的なさまざまな活動を知ることと、そのことに
刺激を受けた多くの在野の先達に与えた影響から、患者中心の医療、
言い換えれば医療の民主化運動の源流としての佐久・若月先生の歴史の重みを
実感していたからである。
一方で、出入りさせていただいていた県内国保系の医師などから、
批判も多く聞かされていた。
が、それらの点も含め人間若月俊一を学びたいと思って佐久に来て18年がたった。

医療の民主化ともいえるパイオニアワークを行なった尊敬すべき諸先輩方を訪れる
中で、しばしたお互いに仲が悪い、批判的であることが特に気になった。
パイオニアワークをなした方々は、信仰を持つ人も一部いたが、多くが従来の医療の
在り方に批判的であること、大学医局に反発したという経験から多かれ少なかれ
学生運動・左翼運動を経験している方が多かった。
そのようなことから、学生運動・左翼運動の歴史などを少し勉強した上で見学に
行くと、いろいろな先達にかわいがってもらうようになり、「卒業したら来い」
と言われることもしばしばであった。

一方で、地域医療や社会的僻地で本当に困っている方々のために医療を行なっている
尊敬すべき先達の多くが、左翼・新左翼と言われる運動が終焉している今でも、
認め合っていないように思えてきた。
そのような人たちにとって、目指すべき目標・憧れであったり、同志としての意識
を持つ人々や、あるいは乗り越えるべき象徴であるかの違いはあるが、
どこかに若月俊一・佐久病院は何らかの影響を与えている存在で
あることがわかった。
そして、国保の医師に多いが、現在の佐久病院批判をしている方でさえ、
少なくとも大きくなる前の、昭和40年ころまでの佐久病院は
だれもが評価していた。


・・・対立、批判し合う存在を超越する思想・・・

このような状況を知るにつれ、私の中では、このような方々がもう少し分かり
合えないのだろうか、和解し、できれば協力できないのだろうか?
闘うべき相手が違うのではないかと思うと共に、若月・佐久が大きな可能性を
秘めているのではと思うようになった。

なぜ、若月・佐久はセクショナリズムに陥らないのか?
その理由はいくつもあるのだろうが、従来の医療者中心の医療から患者中心の医療
を唱え、在野から最初に一点突破した存在であること、戦争という巨悪に
(基本的に)立ち向かったこと、左翼運動が分裂する前に広く認められるまでに
なっていたこと、そして若月先生個人の魅力(懐の深さ、優しさ、
見方を変えればずるさとも言えるか)にあるのではと考えた。

つまり、実践に基づいた思想と戦争に対する態度、このことは対立・批判し合う
存在を超越する思想としてとらえられるのではないか。
そしてそのような特異な位置を占める若月・佐久はさまざまな可能性を秘めるのでは
ないかと思うようになった。

特に1971年に出版された『農村医学』は先生の著作の中でも極めて重要なもの
だが、川上武先生が天明佳臣先生(港町診療所・外国人医療の第一人者・
元労住医連議長)の協力でまとめている。

この尊敬する医療の民主化運動の先達2人は、
私の浅い理解では、対立してもおかしくないはずである。
しかし、ともに若月先生を尊敬し、協力しあっている。
1971年という左翼運動が盛んで対立も大きかったはずの時代背景を推察するに、
本物が見える人たちは、若月の実践に基づく思想を高く評価していたことに
救われた。

そのためにも、とにかく若月先生に、いや若月先生を学び解読しなければ
ならないと考えて、佐久病院に来た。
そしておそらく今後佐久が目指すところは、医療の民主化運動という想いをもつ者
を、セクショナリズムを超えて広く結び付けうる存在になること。
そしてその拠点であり続けるためには、存在そのものがモデルであった時代から
のように、さまざまな発信を行うことはもちろんとして、声をまとめていくこと。
さらに最大の可能性は、人材を教育し輩出していくことであると考えていた。

そのことにより、若月・佐久に学んだ有為な人材が、全国各地の志を同じくする
人たちとともに日本の医療を良くしていく活動を展開することにつながり、
そのことが、若月先生の目指したものにつながっていくのではないかと考えた。


・・・セクショナリズムを超えた連携を・・・

こんな想いで、佐久病院に就職する前に、以前からいろいろお世話になっていた、
臨床医の姿としてあこがれていた鳥取の徳永進先生と、地域医療における大きな勢力
である地域医療研究会の当時の代表で、若月先生の次の世代の地域医療のリーダーと
評価のある黒岩卓夫先生のところに泊まりがけでお邪魔した。

そのときに、いずれ若月先生に対するつながりや想いをきっかけに在野勢力の連携
をめざしたいこと(二人はいずれも若月賞受賞者である)。
特に佐久病院がまもなく自らの医師確保という観点での医師養成が一段落した後には
(この予想が近年の医師の流動化で不安定になったが)、佐久から若い有為な医師
を、若月につながる医療者に(私が健和会に行ったように)派遣し、
そこでその精神と実践を学び、佐久と行き来することで佐久を一つの拠点とした
在野、特に地域医療の後継者養成の全国のネットワークをつくりたい。
この活動が在野の医療機関の連携強化につながるとともに、農村医科大学すなわち
佐久地域の実践のみならず日本中(あるいは世界中)の、医療に恵まれない地域
の医療を担う人材をつくることを目指しているはずの佐久病院の使命のはずであり、
そのためにいずれ協力をしていただきたいという(研修医にもなっていない者の
妄想と、今思えば恥ずかしい限りだが)提案を行なった記憶がある。

その後、黒岩先生とはお会いするたびにその構想が何度か話題になり、佐久が
そのように動けるなら、先生の方で教育の整備の資金を集めるという話もあったが、
地方の医師不足が近年深刻化する中で、立ち消えになってしまっている。

人材の育成と交流のネットワーク化ともいえる構想は立ち消えとなった。
しかし、地域医療研究会でも県国保でもコアメンバーであり、従来あまり
よい関係が築けていなかった諏訪中央病院との関係は、故今井澄先生や鎌田実先生
などとの昔からのつながりを秘かに生かしているうちに、今では定期的な
交流ができるようになり、地域医療研究会は、昨年佐久病院で主管された。

その前の07年の地域医療研究会では、北澤先生のご努力で、「若月俊一を語る」
として、いずれも若月賞の受賞者でもあり、私もいろいろ教わってきた
健和会増子忠道先生と黒岩卓夫先生の二人が初めて同じ壇上に上がった。
この二人は医療界において、特に在宅医療や介護保険がらみでは、厚生労働省に
一緒に呼ばれることもあるオピニオンリーダーであるが、この二人を
同じ壇上にあげることが、私なりに先生の精神を伝えることだと思った。

佐久病院を乗り越えようとした集まりともいえる地域医療研究会の主管が佐久に
まわってくると言うこと自体が、セクショナリズムを超えた連携という目標に
近づいているともいえるし、それだけ地域医療が危機に瀕しているともいえる
のかもしれない。
個人的にはその中で夜間セッションなどを担当させていただき、
感慨深いものがあった。

若月先生に招かれ2人で食事をさせていただく機会が何度かあった。
私は、学生時代から長野県国保など佐久・若月批判をしていたところに
出入りしいろいろお世話になっていたこと。
その若月・佐久批判を聞きながら、それでもそれらの人との連携・協力も
必要な時代ではないかと考え先生のもとに来たという話をした。
先生からは、「自分は国保関係者からは批判され対立しているが、
批判している人らの実践を評価しているので、是非うまくやっていきたいと思う。
その架け橋になってほしい」と、熱く語られたことがあったからである。

さまざまな人・医療機関との連携・関係改善は若月先生に与えられた宿題と考え、
中でも国保関係との関係改善は重要と考えた。
川上村診療所時代は国保の集まりの中で、検診の有効性での批判や
”佐久病院帝国主義”などという非難を受けながらも、
「佐久から派遣されて国保診療所で頑張っている。
佐久と国保がもっといろいろな面で(特に後述するいわゆる長野モデルに
関しての再検証を念頭に)協力していく必要があると訴え続けた。

国保診療所の大会を主管させてもらったり、シンポジストとして
しゃべらせてもらうときも、佐久病院と国保が反目するのではなく、
地域医療を守る、若い人をどう育てるべきかで協力すべきではと一貫して
発言してきた。
一定の理解を得られるようになってきたように思われるが、
若月先生から与えられた役目は何とか果たしたと考えている。
(つづく)

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