シリーズ「平成不況を歩く」第4弾 ノンフィクション作家 佐野眞一

「医療崩壊」時代の名医たち  週刊ポスト 2010年7月16日

「心臓バイパス手術」を受けて感じた格差社会の中の最後の光明


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”俗物”こそ求められる

村上は昨年、年越し派遣村”村長”の湯浅誠と一緒に若月俊一賞を受賞した。
若月俊一賞は草の根の保健医療の実践者を顕彰する在野の賞である。

4年前に96歳で死去した若月は、長野県の佐久総合病院を拠点に、
農村医療、地域医療を確立した医師として高名である。

佐久総合病院は一度は訪ねてみたいと思っていたところなので、
この機会に取材を兼ねて訪ねることにした。
長野新幹線の佐久平駅から千曲川沿いに車を20分ほど走らせると、
旧臼田町(現/佐久市)のひなびた市街地風景のなかに、巨大な建物が突然現れる。

佐久総合病院は農村医療の”メッカ”というイメージが強く刷り込まれていたので、
ちっぽけな診療所を想像していたが、聞くと見るとでは大違いだった。

佐久総合病院が設立された1944(昭和19)年当時は、2人の医師しかいない
診療所クラスの病院だったが、いまやこの本院だけでベッド数821床、
医師数は200名を超える。
屋上にはドクターヘリが常時待機し、年間350件前後の出動があるという。

佐久総合病院の館内を見学して、この病院をここまで育てた若月俊一
という男の医療にかける執念の深さを感じた。

築40年以上の老朽化した病棟があるかと思えば、
最新の医療機器を備えたICUセンターがある。
改築の度に建物が巨大化していったことが歴然とわかる。

それはそのまま、若月の野望の軌跡のように思えてならなかった。
若月を”地の塩”の医師扱いするのは間違いである。

若月は小成に安んずることなく、成長路線をひたすら突っ走った。
拡大主義を医師の倫理にもとる行為と言うなら、
若月は”聖医”とは正反対の俗物だった。

断っておくが、私は別に若月を貶めているわけではない。
「医療崩壊」が叫ばれるいまだからこそ、若月のようにとんでもなく能力のある
”俗物”こそ、これからの医師に求められる資質だと言っているのである。

佐久総合病院は、若月の卓越した手腕で1度も赤字経営に陥ったことはない。

「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞した南木(なぎ)佳士や、開成高校、
東大工学部、京大医学部というエリートコースを歩きながら、途中シベリア鉄道の旅や
キャバレーのボーイといった道草を食った”学習障害”を自認する色平哲郎などの毛色

変わった医師が揃っているのも、一筋縄ではいかない若月の怪物的魅力の反映だろう。

館内を案内してくれた広報担当の高杉進によると、若月の理念にひかれ
今でも年間10人以上の研修医が全国から集まってくるという。

「勤務医の9割が県外の出身です。
でも理想的な訪問医療をするには医師が足りないし、
設備の老朽化や医師の過労問題もある。
うちにも医療崩壊が迫っているんです」

滋賀県立医大出身の北澤彰浩(地域ケア科医長)は、東京での研修医時代、
厄介な緊急患者はなるべく扱うなと教えられた。

「ところがここは全部受けている。
涙がでるほど感動しました」

その北澤が指揮する佐久総合病院の地域ケア科では現在、在宅医療を患者の希望に
沿う形で進めており、人数にして年間130名あまりの「看取り」を行っている。

北澤はこうした経験を踏まえて次のように言う。

「医療は別に医者や看護師の専売特許じゃないと思うんです。
医療で最も大切な”寄り添い”や”支え”は誰にでもできる。
そのことを国民みんなが考えていくことが、
医療崩壊を未然に防ぐことにもつながるんじゃないでしょうか」

北澤の言葉を私なりに解釈すれば、「希望」ということになる。

入院した病院の窓から見えた、建設中の東京スカイツリーの景色が忘れられない。
子ども瞞(だま)しだと思っていた建造物が、入院患者には、
せつない「希望」を託すモニュメントに見えたからである。

「医療崩壊」問題の悲惨さを語る前に、私たちはまず、
この国の「希望」について語るべきではないか。(文中敬称略)

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