地域医療の課題とメディコ・ポリス構想


1.戦後日本の農村の変貌

戦後日本の農業は衰退の一途をたどっている。

日本農業を見ていくうえで重要な指標になる数字が3つあるという。

農地面積550万ha、農業就業人口1400万人、農業戸数550万戸であり、
これらの数字はある論文によれば明治初期の1875年から1960年まで
大きな変化はなかったとのことだ。

ところがそれ以来の50年間の推移をみると、GDPに占める農業生産は
9%から1%へ、農業就業人口は1196万人から252万人へ、
総就業人口に占める農業就業人口の割合は26.6%から4%へ、
農業戸数は606万戸から285万戸へと減少している。

さらに農地資源の確保もきわめて厳しい。

耕作放棄地は東京都の1.8倍の39万haになり、
食料自給率がここまで低下したのに有効な政策を打ち出せないでいる。


佐久地域においても、農業就業人口の減少、耕作面積の減少は同様である。

南牧・川上村等で高原野菜農業が盛んであるが、佐久地域全体からみると、
農業の衰退に歯止めがかかったとはいえない。

むしろ高原野菜農業を取り巻く環境は年ごとに厳しさを増してきている。


2.農村地域の過疎高齢化と介護問題

高度成長期以降GDP増大、市場原理こそすべてが優先し、
農業・農村から工業・都市へ人をはじめ膨大な資源移動が進んだ。

さらに長期的な構想をもたないばらまき的農業政策や、無責任な農業
バッシングもあって、希望を失った若者たちの多くが農村を後にした。


南佐久郡南部地域、5ヵ町村で人口約16000人、この地域は過去
13年間で高齢化率がちょうど10%上昇し、現在約35%である。

筆者がこの地域で仕事をするようになったのは今から約20年前であるが、
まだ高齢化率20数%だった。

それほどに高齢化のテンポは速い。


過疎高齢化が進む農村地域では医療以上に介護の問題が深刻である。

農村地域では要介護者が増えているのに、介護する人が少ない。

介護サービスを提供する事業者も、採算性がないから進出してこない。

家族介護をあてにしようとしても、すでに伝統的家族制度は崩壊している。

老老介護でも成り立つうちはよいのであって、
独居者や認知症患者の介護は介護地獄と紙一重である。

ネグレクトとか棄老とかいう言葉は介護現場になじまないが、
ただ介護を受ける人も介護する人も、
家族もそれに触れないように振る舞っている。

それだけに悲しいことがある。


介護専門スタッフの仕事は人の基本的な営み、食事、
排泄、清潔保持、安眠などを支援することである。

これらは人間の尊厳と人が生きることの根源に関わるきわめて
崇高で尊い仕事であり、高齢者に対する特別の愛が求められる
すばらしい仕事だと思う。

人の最後は医療が診ると思われがちだが、
実際は違うのではないかと思っている。

医療が提供されるのは介護の合間であって、
大部分の時間は介護のお世話になっている。

問題はその介護の量と質が不十分だということ、
医療より不十分であり、農村ほど不十分だということである。


いまや農業も農民も、そして農村も衰退し崩れそうになっている。

そこは歴史的に当院が活動基盤とし、仕事と運動をつくってきたところであるが、
病院だけ生き残り発展することなどありえなくなった。

農業の振興に協力し、農村の再生に貢献する道しか残されていない。

この点が農村における地域医療を考える際の分岐点になる。


3.日本型地域医療システムの問題点

日本は歴史的にみて明治以来、自由開業医制度を基本に医療制度を構築してきた。

加えてドイツから輸入された医局講座制度が医学教育・研究・医師供給の根幹に
すえられてきた。

そして100年、いまだ医学医療界は封建制のくびきから解放されていない。


一方で戦後の医学・医療技術の進歩はめざましいものがある。

この技術進歩を支えるには医師をはじめ多数の診療協力技術者を養成する必要があった
のに、
国は総医療費抑制策のもとで意識的にセーブしてきた。

その結果特に医師の絶対数が不足、OECD加盟国の中でも最下位に近くなった。

さらに医師の大都会偏在が進み、地方の医師不足や地域医療崩壊が社会問題になってき
た。

加えて学力格差により、地方から医学部に入学することが困難になってきている。


また国が医療制度を主に医療費問題に矮小化し、医療技術システムの視点を欠落させた
結果、
今日の地域医療システムの危機を招いている面もある。

歴史的に診療報酬体系で病院医療を軽視してきた矛盾がいま吹き出している。


こうした状況下で開設時20床の佐久病院は、住民ニーズに誠実に応えながら
《農民とともに》(病院基本理念)という精神、思想性をしっかり守り、
保健・医療・福祉を一体化し、第一次から第三次医療まで担う常勤医師200名、
1000床を超える大型病院に成長してきた。

また、佐久病院育ちの生え抜きの医師養成に成功してきた点も非常に大きい。


こうして病院を大規模化し、疾病構造の変化にも対応し、
他に類をみない農村医学・医療のシステムをつくって成功してきた。

これらの仕事は佐久病院の事実上の創設者、故若月俊一氏の指導によるものである。

それでは21世紀もこの延長線をいけば安泰なのだろうか。

そう思いたいが答えはNOである。

病院をとりまく環境がここまで変化した以上、保健・医療・福祉に対する基本的な
パラダイム(時代の支配的考え方)を転換する必要がでてきた。


4.「メディコ・ポリス構想」とは?

1988年『農村医学からメディコ・ポリス構想へ−若月俊一の精神史』(勁草書房)
という本が出版された。

著者の故川上武氏は医師で高名な医事評論家であり、若月氏と古くから深い親交があっ
た。

この本で川上氏は佐久病院の創立から80年代後半までの医療運動史と、
病院を取りまく状況の変化を正確に分析している。

そしてその歩みと、実際上の創設者若月俊一氏の精神、思想性との関わりを
克明に分析、その医療運動論の検証を通して21世紀の佐久病院の
目指すべきビジョンを提起した。

それが「メディコ・ポリス構想」である。

氏は「医療・福祉都市構想」とも表記している。

メディコは英語のmedicineに由来する言葉で、医学・医療を意味している。

ポリスはギリシャ語のpolisに由来、自治都市を意味している。

この構想提起が先のパラダイム転換を促したともいえる。


戦後の日本は重化学工業を戦略産業と位置づけ、工業化社会の道を邁進、
高度経済成長を成し遂げた。

しかし結果として農村は疲弊過疎化し、農業は衰退の一途をたどってきた。

こうした佐久病院をとりまく農村・農業の激変が、病院に「農民の健康から、
農村の再生へ」といった新しい社会的要請への挑戦を迫ってきた。


このころすでに日本農業・農村の危機が重要な政治課題になり、
農村再生のプログラム策定が論じられるようになった。

しかし何れも農業・農村の枠内からの発想で、農村住民の健康問題からの
視点が欠落、思いつきの域を出ないものであった。

こうしたなかで佐久病院は今までの成功の上にたって、
医療の枠をはみ出した農村の再生という現代の政治課題に真剣にとりくむべき
との提案がこの構想でなされた。

さらに過疎高齢化という状況は老人の医療・介護ニーズをより増大させる面があり、
この点を逆手にとって医療・介護事業を積極的に展開、これを地域活性化につなげる
という課題に取り組むべしとされた。


5.この構想の基本条件と必要条件

メディコ・ポリス構想が提唱された背景にはいくつかの問題がある。

(1)リゾート型農村開発である。
過疎化に苦しむ全国各地でゴルフ場、スキー場の設置など様々な施設がつくられた。
しかし多くの場合環境破壊が問題になり、都市住民のための開発であり、
その時どきの景気に左右され真の農村再生にはなりにくかった。

(2)地域再生、地域づくりのビジョンの中で、
医療・介護の整備という視点が弱かった。
都市の自治体・企業・学校などの関連施設を誘致するにしても、
病気やケガへの緊急対応、高齢者への介護対応がなければ安心して過ごせない。

(3)電機や半導体工場を誘致した自治体が多いが、
不景気でどこも苦境に立っている。
製造業では生産拠点を海外に移転したところも多く、安定した地場産業になりにくい。
そこへいくと医療・福祉産業は地域密着型で安定しており、
内需拡大という面では投資効果もある。
特にこれから高齢者介護分野の充実が急務であるし、
雇用創出という点でもきわめて重要である。

ところでいかなる再生策であっても、その地域が人間生活全体を安心して
送れるような基本条件をもっていなくてはならない。

川上氏は再生にむけての基本条件を3つの分野にわけて述べている。

(1)医療・福祉システムの整備
(2)教育施設の充実
(3)住民の生計を確保できる産業振興

メディコ・ポリス構想とは、医療を地域振興の軸とした再生策の新しい構想であり、
(2)・(3)の要件も医療との関連で考えるという政策立案である。

またこの構想は佐久病院固有のものではなく、大型病院を核にした医療ネットワーク
が確保されている地域では有効であろうと指摘している。

さらに川上氏はこの構想実現のための必要条件について、プラスする3つの条件を指摘
している。

(1)佐久地域への医療技術短大や看護大学の誘致、若者の就学・就職、定着
という面で有効。
(2)佐久地域への大規模なシルバービレッジ、高齢者の村誘致。
(3)医薬品・医療機器産業、関連研究所の誘致。

この3つの必要条件を実現することだけでも容易ではないが、筆者は近年さらに
(1)の条件に《医科大学》の誘致を加えるべきだと考えるようになった。

これは若月俊一氏が1960年代半ばに着想、1972年に断念した
《農村医科大学構想》の復活であり、
若月氏が果たせなかった構想の実現という課題である。

この点について川上氏は了解され、早く方針化するようにとの言葉を残され、
昨年7月亡くなった。


いま佐久病院は2つの病院に機能分化させる再構築計画を進めているが、
さらに医科大学を併設という方針を検討中である。

長野県は日本一の健康長寿地域であり、医療費も全国最低である。

こうした実績を作った原点に、佐久病院と若月氏の仕事・運動があると確信している。

先日の報道によれば全国で3つの大学が医学部新設を希望しているという。

われわれもぜひ手をあげたいと思う。

医科大学を誘致できれば雇用創出がさらに拡大し、必要条件(3)誘致の展望も
出てくる。

佐久地域の中心佐久市は2004年をピークにすでに過疎に転じており、
新たな地域再生策の策定が急務になっている。

それには「メディコ・ポリス構想」は有望であり、現佐久市長が掲げている
「世界最高健康都市構想」とも内容面で完全に一致している。


6.この構想の経済学的検証

前掲書が出版されてから10年後の1998年、『地域経営と内発的発展−
農村と都市の共生をもとめて』(宮本憲一・遠藤宏一編著、農文協)が出版された。

環境経済学者・大阪市立大学名誉教授宮本憲一氏と若月俊一氏は四半世紀以上の
交流があり、宮本氏が主催する「信州宮本塾」と佐久病院の「若月塾」は20年も
前から定期的に交流を図ってきている。

この本は宮本氏らの研究グループが数年かけて佐久地域の3町村の経済学的
調査活動を行い、その結果をまとめたものである。


まず序章の中で宮本氏は「2010年長野県長期構想」について、
教育県長野というイメージがこわれ衝撃をうけたと書いている。

高等教育の進学率が異常に低く、そもそも4年制大学・大学院の数が少なく、
石川県との格差は10対1だと指摘する。


この遅れを取り戻すべく「・・・環境・生物・観光系の大学院や、医療・福祉の大学
とくに農村の医学・保健・福祉を総合したような大学院をつくれれば・・・」
と提言されている。

こうしてみてくると、興味深いことに若月・川上・宮本の各氏が少しずつ時期は
違うものの、医学保健福祉系の大学、大学院の設置や誘致を考え、
一致してその重要性を指摘していることである。


この本では佐久地域町村の産業構造の推計を行っている。

その産業別生産額によると旧臼田町においては、経済規模において
医療・保健サービスが18.5%で、建設業19.6%とほぼ並んでいる。

医療・保健関係は他町村が数%以内であることを考えると、
経済単位としてみた場合の佐久病院の活動の大きさがわかる。

これは町の財政に貢献する度合いも大きいことを意味している。


この調査研究活動によって、佐久病院が地域経済に与える大きな役割、
成果が明らかにされたことの意味は大きい。

医療・保健は経済的効果を持つということが科学的に証明されたからである。

さらに川上氏が提唱したメディコ・ポリス構想は、佐久地域の実態に照らして
みても有効性があることが実証された。

そして宮本氏はメディコにパルコ(景観保全・公園化)を加え、
「メディコ・パルコ・ポリス構想」を提唱されている。


7.佐久病院と農村医学、その国際化

佐久病院は若月氏の仕事・運動によって、国際的に「農村医学のメッカ」
と称されるまでになった。

農村医学の多くのテーマが発見・研究され、改善運動が取り組まれ世界に発信された。

病院は近年アジア、アフリカでのNGO活動も展開してきている。

農村医学は佐久病院の土台であり、これが弱くなると存在意義が問われてくる。

また佐久地域の農村医学は世界に連動していて、その成果を待っている農民が
地球上にたくさんいる。


いま日本の農村医学的課題(農村における地域医療の課題)を強いて3つあげてみる。

(1)崩壊の危機にある農村地域の再生
(2)高齢過疎化にともなう老人介護福祉の充実
(3)地方農村の医師不足解消

これら3つの課題に対し国の制度・政策が存在してはいるが、
不十分すぎて話にならない。

しかしここに「メディコ・ポリス」という考えを適用してみると、
3つを包括的にうまく解決してくれるように思う。

佐久病院がこれからも「農村医学のメッカ」であり続けるためには、
この構想を実現して世界に示せるモデルを作り、メッカと称されるに
ふさわしい存在意義を示すことだと思う。


農村医学の立場や視点は地元地域に根ざすものではあるが、
そこで完結するものでは決してない。

近年「農村医学」という言葉が用いられなくなり、佐久病院は「地域医療のメッカ」
と称賛されているようだが、地域医療という用語に国際化という視点はない。


8.なぜ、「メディコ・ポリス」の実現か?

ひと言でいえば、古臭い言い方だがそれが佐久病院の歴史的必然であり、
「農民とともに」の精神・思想を実現することになるからである。


すでにアメリカには幾多の医療産業都市があり、世界中から顧客を集め
おおいに栄えているという。

こうした都市の研究から医療経済学のレポートも出てきている。

また日本でもポートアイランド地区における神戸医療産業都市構想がすでに
動き出し、大学・医療関連施設が多く集積されつつある。

しかしこれらはすべて都市型のポリスであり、農村型ではない。

またデモクラシーの理念が芯にあるかどうか問題もある。


先の宮本憲一氏は神戸の医療産業都市を視察検討され、
民間企業との関連や住民参加の有無など問題点を指摘している。

その上で長野・佐久地域で、世界にまだ存在しない農村型メディコ・ポリス
のモデルをぜひ実現すべきと主張している。

Agriculture(農業)に由来するアグロという視点を入れて、メディコ・アグロ・
ポリスまたはメディコ・エコ・ポリス構想はどうかとも述べている。


そもそも歴史的必然とか精神とかを形にすることぐらい難しいことはない。

成功より失敗のほうが多く、つねに抵抗と闘いをよぎなくされてきた。

しかし佐久病院を創設した若月氏は違っていた。

着任したその日から果敢に挑戦し、「メディコ・ポリス」の厚い土台を築いて
旅立った。


(文責:清水茂文 佐久総合病院 老健施設こうみ施設長)

財団法人日本地域開発センター・月刊『地域開発』2010年6月号
特集「メディカルコンプレックスの可能性−都市再生の戦略的産業に育つか」より

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