盛岡正博  長野県厚生農業協同組合連合会代表理事長

  再構築という賭けに挑む医療経営のドクター  山岡淳一郎

                         週刊金曜日 2010年3月12日掲載

二世代、三世代先を見すえた、新しい医療環境づくりとは?
医師として、そしてJA長野厚生連理事長として、佐久総合病院をはじめとする傘下の
医療機関の「再構築」に踏み出した盛岡正博の経営手腕に注目が集まっている。
沖縄米軍政府が統治する「島」に産まれた呪縛を抱えながら、荒廃する医療と全力で
格闘し続けてきた盛岡の創造力は、「まちづくり」という大きな構想に向かっている。


もりおか まさひろ・1943年奄美諸島の徳之島で生まれる。
京都大学医学部卒業後、稲門会岩倉病院、ボストン小児病院勤務を経て徳洲会へ。
徳田虎雄理事長の右腕として同会を発展させる。
95年佐久総合病院に移る。
経営手腕に定評があり、2007年JA長野厚生連専務理事、09年理事長就任。



一月、粉雪が舞う長野市で「JA長野厚生連(以下、長野厚生連)」
恒例のシンポジウムが開かれた。
配られた資料には傘下一一医療施設の「採点表」が載っている。
利用者への地道なアンケートを集計した病院の通信簿だ。
居並ぶ院長、幹部職員の屠蘇(とそ)気分は吹き飛ぶ。

「医師の対応」の項で長野厚生連の稼ぎ頭である佐久(さく)総合病院
(以下、佐久病院)の評価は低い。
百点満点で六〇点台。
全体の八番目だ。
最高点は病床数一四九の富士見高原病院。
「建物全体の印象」では、佐久病院は「マイナス三〇点」と凄まじく低い。
国内外に「地域密着医療のメッカ」として知られる佐久病院の現状が
赤裸々に表されている。

シンポジウムを企画した労働組合の鷹野邦一・中央執行委員長は
「アンケートに答えていただくことが大切。
厳しい声は変革の機会を与えてくれる」と前向きだ。
調査結果はホームページでも公開された。
辛辣(しんらつ)な意見が並んでいる。

「外科系医師の診察は非常に雑であり、対応も悪い。
『、、、しないと死にますよ』とか論外。
なぜ、患者や看護師が医師の機嫌をとらなくちゃいけないのか」
(二〇代・男性)

「産科での入院の際、一週間の入院期間中、四回の部屋移動はきつかったです。
ほとんど眠れない産後の時間を他部屋の方々に、そのつど気づかうのはきつい」
(三〇代・女性)

地方の医療が崩壊から「荒廃」へと滑り落ちる現在、
長野厚生連は、徹底的に利用者ニーズに向き合う。
自治体病院が大赤字を抱えて再編・統合を進めるのを横目に、
施設の建て直しを含む「再構築」で難局を乗り切ろうとしている。
前述の佐久病院は、三年後に臼田(うすだ)の本院から救命救急や
がん専門医療などの高度医療部門を分離し、
交通の便のいい佐久平(さくだいら)に「基幹医療センター」を新設する。
縮こまるのではなく、あえて新たな医療環境の創造に踏み出す。
二世代、三世代先を見すえた再投資と言えよう。

その総合プロデューサーとして六四三〇人の職員を率いるのが、
理事長の盛岡正博(もりおかまさひろ)である。
半世紀を優に超える長野厚生連の歴史で医師がトップに就任したのは盛岡が初めてだ。
その経営手腕への期待は大きい。

盛岡はシンポに集まった職員に呼びかけた。

「私たちの病院は、老朽化した建物の改善が急務です。
年間約八〇〇億円の収入で、今後、諸施設の建て直しなどに
六〇〇億円を投じなくてはなりません。
八〇万円の収入で六〇万円を支払いに充(あ)てます。
大変、厳しい。
しかし、公的な使命を担いつつ、自らの足で立ってきた協同組合組織だからこそ、
やれるのです。
皆さんと一緒にやれば、できる。
私たちを支えてくれているのは農家です。
農業生産者の不満は、溜まりに溜まっている。
どこにも向けられない。
もっと農家との、利用者との具体的な結びつきを考えましょう」

会場に拍手が鳴り響いた。
続いて「ホスピタル・クラウン」大棟耕介(おおむねこうすけ)の講演に移った。
クラウンとは道化師。
大棟はクラウンの世界大会第二位の実績を誇る。
難病で入院している子どもを訪ねて芸を披露している。
スーツがはち切れそうな勢いで大棟が語る。

「ボクの仕事は空気を変えること。
治療ではありません。
病気の子どもは笑いません。
おとなびて、聞き分けがいい。
白血病で髪の毛が抜けている。
運命を背負っています。
ずっしりと重い空気。
それを一瞬でも忘れて、笑ってもらいたい。
笑えば、何かが生まれます。
だから一緒にイタズラもします。
トイレットペーパーをこっそり持ってきて廊下で子どもと転がして
遊んでいたら、看護師さんに大目玉を食らいました。
ごめんなさい(笑)」

会場がどっと沸いた。
座席に腰をおろした盛岡が、ボソッとつぶやく。

「笑いは大切だね。
ホンネを言えば、どんなにいい話を聞いても、ああよかった、
で終わっちゃだめなんです。
患者さんとの接遇に生かさなきゃ。
体を使って人を笑わせるプロの話は、説得力がありますね。
何か企画できるかもしれない、、、」

盛岡は、常に感性を研ぎ澄ませている。
繊細だ。
若い職員が運転するクルマで役所や企業に行くと、その職員を脇に座らせ、
交渉の一部始終を見せる。
腹を割った折衝が、世にいう「寝技」などではなく、目的と手段、
確証を積み上げた真剣勝負の対話であることを知ってほしいからだ。
荒廃する医療は、もはや小手先の方便では再生できない。

いま盛岡は医療経営を診るドクター役を担う。
その白髭(しろひげ)には波乱万丈の人生が織り込まれている。



原風景はハンストの島

盛岡正博は、一九四三年、奄美諸島の徳之島伊仙町(いせんちょう)に生まれた。
父は、小学校の教員だった。
戦争が終わり、物心つくと島は沖縄米軍政府の統治下に置かれていた。
広場のテントでおとなが枕元に水を置いて寝転がっている。
何しているの?
と訊ねると「ハンガーストライキ」。
本土への復帰運動が高まっていた。
ガンジーを真似たハンストが島の原風景である。

小学三年の春、ふだんはゲンコツばかり食らわす父が、
妙に優しく「こっちにこい」と布団に入れてくれた。
「おまえ。内地に行きたいか」と訊かれる。
考えてもみなかったが、ウンと言ってほしそうだ。
コックリ頷くと「そうか」と手を握りしめられた。
家族は町に一軒しかない写真屋でパスポート用の写真を撮った。
船が島を離れるとき、大切な何かを断ち切られるようで、拭っても、
拭っても涙があふれた。

新天地、鹿児島の風は冷たかった。
離島出身者への差別は根強く残っていた。
公立中学から名門ラサール高校に進学する。

「四畳半と二畳の板の間、一畳の土間、
トイレ半畳の家で高校を出るまで暮らしました。
机は素麺(そうめん)箱です。
母が編み機のセールスで、営業マンのバイクの後ろに乗って走り回っていましてね、
その姿に父が悋気(りんき)を起こして母を殴る。
高校二年の暮れ、夜中に両親の喧嘩が始まって、
僕はバーンとお膳をひっくり返しました。
翌朝、父は半身がマヒ。
脳梗塞でした。
自分のせいか、とトラウマになりました。
父が入院したので浪人はできない。
参考書が買えないので先輩に手紙を出してお下がりをもらいました」

現役で京都大学医学部に合格する。
六〇年代の京大は「政治の季節」まっただなかだ。
仲間三人で同人誌を創刊し、劇団でイヨネスコやカミュの不条理劇を演じる。
「じぶん探し」の過程で学生運動にのめり込んだ。
警察が自治会室を家宅捜索したのを機に三泊四日の総長団交を仕切る。
しかし党派に属する運動家がここぞとばかり「沖縄解放、沖縄奪還だ」
と騒ぐのを聞くと無性に腹がたった。

「おれは沖縄米軍政府の占領下にいたんだ。
おまえらみたいなガキに解放とか、奪還とか叫ばれたくねぇ」
とノド元までこみあげる。
団交は学生自治を守るのが目的だ。
学生課の職員と話して、医学部生の控え室とロッカーをつくってもらうことで
手を打ち、引き揚げる。
すると脂ぎった連中から「ボス交渉だ」と突き上げを食らった。

「心のどこかで命がけで変革しなくてはいけないと思いながら、違うんだよな、
と制するものがある。
思春期に感じた死の恐怖へのトラウマもありました。
党派には入りたくない。
でも、闘争の本質を体験したい。
頭を丸め、髭を落として東京に向かいました」

激しい闘いのなかで、装甲車の金網越しに見た富士山は、やけにきれいだった。



「結局、僕はずるいんだよ」

政治の季節が去り、盛岡は、一九七〇年から約九年間、
精神科医として民間病院に勤め、病棟開放化運動に加わった。
が、患者の処遇や疾病(しっぺい)論で精神科医療は内部混乱。
先輩の勧めでボストン小児病院に留学した。

八一年、ロサンゼルスに来た叔父の映画プロデューサー山本又一朗
(やまもとまたいちろう)に「会わせたい人がいる」と呼ばれ、
出かけていくと徳洲会の創立者、徳田虎雄(とくだとらお)がいた。
同郷の二人は初対面で意気投合する。
盛岡は内科を学び直す覚悟を決めて京都宇治徳洲会病院に赴く。
三八歳の研修医として再出発した。

「生命だけは平等だ」
「三六五日、二四時間、どんな患者でも受け入れる」
「(お礼は)ミカン一個ももらわない」
という徳洲会のモットーを盛岡は形にしていった。
徳洲会は医療過疎地に次々と進出する。
盛岡は徳田に次ぐ「ナンバー2」の座についた。

徳洲会を象徴する「湘南鎌倉総合病院」を立ち上げたのも盛岡だった。
経緯はこうだ。
徳洲会が鎌倉に用地を入手したにもかかわらず、国の決定で病院建設は白紙に戻った。
鎌倉市議を戸別訪問してみるとほとんどが病院は必要と言う。
さっそく建設賛成の署名集めを開始。
二週間で八万五〇〇〇人の署名を集め、行政に猛然と交渉を挑んだ。
「開設者が法人でなければ設立も可」と譲歩を引き出すと、
盛岡自身が個人病院を設立したのである。

「時代がよかった。
バブルでね、蓄えも持ち家もなかったけど銀行さんが僕の名前で
定期預金を組んで、それを元手に融資してくれた。
地域の情熱が金融機関を動かしたんです」

湘南鎌倉病院は七年後に医療法人の申請が認められ、徳洲会グループに入る。

御大の徳田は病院チェーンを拡大する一方で「政治」に野心を燃やした。
八三年と八六年の衆議院選挙に一人区の奄美群島区から立候補し、
自民党の保岡興治(やすおかおきはる)に敗れる。
九〇年に当選して国会の赤絨毯(あかじゅうたん)を踏む。
この間、選挙戦は逮捕者が続出し、島を二分する「保徳戦争」と呼ばれた。
九一年四月、統一地方選の数週間前、徳田派の伊仙町長が急逝。
支持者に後継擁立を迫られた徳田は「盛岡なら」と口を滑らせる。
もう逃げられなくなった。

「占領下、パスポートで島を出て医者にまでなった。
自分だけいい思いをしているような後ろめたさがありました。
恩返しかな。
それに利益誘導型政治ではなくて、陳情で堂々と交渉する町長がいても
いいと思って、立ったのです」

だが町長選挙は大荒れに荒れた。
盛岡はわずか一〇四票差で敗れるが、三一六票の不在者投票は
「不正の疑いあり」と開票されていない。
当選人の告示はなされず、一年以上も町長は決まらなかった。
政治には魔物がひそんでいる。
東大を出て徳之島の徳洲会病院長を務めていた弟は激務が続き、過労死した。
盛岡はひっそりと故郷を離れ、徳洲会を去った。

九五年、湘南鎌倉病院を辞めて、ふらりと同窓の清水茂文医師(前佐久病院長)、
高橋勝貞医師(前佐久病院老人保健施設長)がいる信州を訪れた。
そこで佐久病院の育ての親にして、農村医療の世界的リーダー、
若月俊一(わかつきとしかず)医師と対面する。
人生を変える出会いだった。

「若月先生は、お目にかかってすぐ『少し手伝ってくれるか』とおっしゃいました。
失礼を承知で言えば、次元は違うでしょうが、先生に僕と同類の匂いを感じました。
ずっと民間の病院で医療過疎地に拠点をつくろうと奔走されたことに、、、。
トップの孤独感もたたえておられた。
ありがたく、一、二年滞在するつもりでお受けしました。
五一歳になっていた僕は、あと一〇年の生き方を試されると思いました」

若月は、しばしば「モリちゃん、結局、僕はずるいんだよ」と漏らした。
楽観的で人を信じて疑わない若月の「僕はずるい」には、
志と経営の二兎(にと)を追う苦さがにじんでいる。

「とても響く一言でした。
戦前、戦中を生き抜いた若月先生の個人史が凝縮されたことばです。
稚拙(ちせつ)とわかっていても、理念に殉じ、信念を貫くべき、
という気もちをどこかに引きずっている。
若月先生に感じた、同類の匂いは、そこにもあったのです」

パスポートを手に内地に渡ってからも、
盛岡は心にずっと「島」を抱えていたのだろう。
米国に行っても島は消えない。
徳田と活動するにつれて心の島はますます肥大した。
しかし選挙に出て名実ともに回帰しようとしたら、もはや島は島ではなかった。
これもまた近代の宿命だろう。

「ふるさと」という島は、追憶と現実のはざまで揺れ続ける。
時間がじぶんを追い越していく。
近代は哀しく、そして可能性に満ちている。
千曲川(ちくまがわ)べりの山間の病院に赴任し、島という共同体の呪縛は、
ようやく解けた、と私は思う。

佐久病院に赴任した盛岡は、早朝から経営勉強会を開き、職員の意識改革に着手する。
全職員の年度末手当の一部を積み立てた。
佐久病院が再構築に際して用地取得や新築費用を工面できたのは、
そうした堅実な財務運営があればこそだった。
佐久病院の副院長を経て長野厚生連の専務理事に抜擢され、昨年、理事長に就任した。



次世代に渡すバトン

最近、盛岡は「生き場所を探し続けてきたが、
それは同時に死に場所探しだったと気づいたよ」と言う。
ならば人生の後半戦、どんな医療を確立しようと考えているのか。
たとえば疲弊しきった自治体病院はどう建て直せばいいのだろうか。

「公立病院について申し上げるのは口幅ったいですが、ミニ大学病院化
して専門家集団をそろえるのではなく、保健・予防を含めて、
なんでも診る一般医療を手厚くして住民のニーズに応えるしかないでしょう。
それと個々の財務状況を早く開示することです。
ある市民病院の経営関係者と会ったら、地域住民のための医療は提供できるが、
抱え込んだ職員を食べさせる医療は難しいと吐露されました。

長年、税金投入の赤字漬けで職員の人件費も膨大になっている。
その事実をこと細かく、納税者の住民に開示しなくては
地方分権での再生は難しい。
財務状況がわからなければ、赤字覚悟で突っ込まなきゃいけない
産科や小児、救急の全体に占める比重も見えない。
まず開示し、住民の理解を求めるべきです」

長野厚生連の「再構築」路線は、正念場にさしかかっている。
地方経済が収縮するなかでの再投資は大きな賭けにもみえる。
再構築の向こうに描いているイメージとは?

「まちづくりです。
八〇年代前半に埼玉県の羽生(はにゅう)市で徳洲会病院の院長をして
いたころ、地元の若者が東京から戻って病院に勤めるようになりました。
病院の周辺には商店が増え、地域経済に力を呼び戻すことができました。
ただ時代が変わった。
病院だけでは、少子高齢化の荒波には立ち向かえない。
農業や観光、モノづくり、福祉サービス、住宅建築、、、
さまざまな分野との協同作業が不可欠です。
医師が病院で患者を待ち受けるのではなく、どんどん地域に入っていく。
若月先生が実践した出張診療の現代版も重要ですね」

小海町(こうみまち)では「医療を中心に町おこし」をテーマに行政と
観光協会、病院が検討委員会を立ち上げた。
小海町長は「佐久病院小海分院の人間ドック利用者に、
民宿や町営温泉施設を使ってもらう方策の検討」を表明している。
小諸から小淵沢に至る小海線沿線は、日本屈指の高原野菜の産地でもある。
食の安全・安心と生命を守る医療が結節すれば、
新しいメディカル・コミュニティが出現するかもしれない。

その鍵を握るのが「人づくり」である。
偏差値重視の入試制度で医学部は都会育ちの学生ばかりになった。
必然的に研修医は都市に集中する。
地方の医師不足を解消するには地方が自前で医者や看護師、
医療資格者を育てなくてはなるまい。

「われわれの病院は長野で働きたい、地域志向の人材を優先的に選んでいます。
看護専門学校を持ち、四年制看護学科のある佐久大学も創設しました。
長野で働いてもらいたいから看護師、医師には奨学金を出しています。
これは初任給で看護師に五万円、医師に二〇万円高く払うのと同じ持ち出しです。
今後は地元の中学、高校教育の段階で医療従事者を育てる
働きかけも必要かもしれません。
文化的サロンも望まれます。
国が本気で地方を支える気があるなら、こうした分野への支援が望まれます」

春一番が吹き、信州の冷気もいくぶん緩んだ。
今日も盛岡は、若い職員が運転するクルマに乗って医療機関を駆けめぐる。
次の世代は、盛岡が命がけで蓄えた経験知と洞察力、
交渉力をどう受け継ぐのだろうか、、、。
(文中敬称略)

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やまおか じゅんいちろう・ノンフィクション作家。
『田中角栄 封じられた資源戦略』(草思社)、
『医療のこと、もっと知ってほしい』(岩波ジュニア新書)ほか、著書多数。

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