スマナ バルア WHO(世界保健機関)医務官

   「金持ちより心持ち」  医学生たちに響く”語り”  山岡淳一郎

                         週刊金曜日 2010年4月16日号


南洋の島 レイテに”叩き上げ”で看護師や医師を育てる保健医学校がある。
その卒業生で、「バブさん」の愛称で慕われるスマナ バルア博士の”語り”
が、日本の若い医師や医学生たちの心を揺さぶっている。
「外国人労働者」として日本で学資を稼ぎ、フィリピン国立大学医学部
レイテ校で助産師、看護師、医師の資格を取得したバブさんは、
レントゲンには写らない「命」に、目をこらす。


スマナ バルア、1955年バングラデシュ生まれ。
世界保健機関(WHO)南東アジア地域事務所医務官。
76年来日、働きながら医師を志す。
79年フィリピン国立大学医学部レイテ校(SHS)入学。
医師資格を取ったのち、母国で地域密着医療に従事。
93年に再来日し、東京大学医学部大学院に留学。
博士号を取得。
2002年よりWHOに勤務する。(写真撮影/筆者)



人は「善意」や「理念」だけでは動かない。
なにかにつけて「お金」がものをいう。
さりとて損得勘定のみで動くのかというと、そうでもない。
人と人が手を携(たすさ)えようとする本能も働く。
日々、私たちは生き方に迷い、しばしば方向を見失う。

そんなとき、この人の流暢(りゅうちょう)な日本語の「語り」を聞くと、
自分の立ち位置に気づかされる。
医学生や若い医師が「心の師」と慕うバングラデシュ人のドクター、
「バブさん」ことスマナ バルア博士は、こんなふうに語りかける。

「こんにちは。
わたしの名まえはバブです。
お風呂の入浴剤です(笑)。
ちょっと耳の痛い話をします。
日本人は、お金が一番、便利が一番、と思っていませんか。
それは海外援助にも表れています。
ずっと日本は、カ キ クばかり外国に送りました。
カは『カネ』、キは『機械』、クは『クルマ』です。
もちろん、ありがたい面もあります。
しかし、お金は使えば残らない。
機械やクルマも一〇年、二〇年経てば壊れます。
修繕をしたくても部品がない、技術を持った人がいない。
カ キ クの経済協力は、長持ちしないのです。

これからは、ケ コが大切です。
ケは『健康』の実現。
人間が人間として人間をお世話する『ケア』の精神です。
コは『志』。
若い人は、心に大きな志を持ってほしい。
カ キ クよりもケ コのつき合いのほうが、長持ちします。
カ キ クよりもケ コ。
志は心の栄養。
若い人は『金持ちより心持ち』を目指してほしい」

ソフトな語り口に鋭い社会批評が含まれている。

バブさんは、ニューデリーのWHO南東アジア地域事務所に勤め、
インド、インドネシア、ミャンマー(ビルマ)、タイなど
一一カ国のハンセン病予防担当官として飛び回っている。
彼の担当地域では年間八万人以上が発症する。
早目に薬を投与すれば障害を抑えられる。
ひとりでも多くの患者に薬を渡そうと奔走する。
毎月、まる一週間くらい「機上」の人だ。

日本語がぺらぺらなのは、二つの「日本体験」があるからだ。
バブさんは二一歳で医師を志して来日し、学費と生活費を稼ぐために
「外国人労働者」として高速道路の建設現場で働きながら日本語を身につけた。

その後、フィリピンに渡り、レイテ島の保健医学校に入って医師となる。
ふたたび来日すると、東京大学医学部大学院で国際保健計画学を修め、
博士号を取得。
汗臭い「飯場」と、最高学府、、、大きな振幅のなかでバブさんは
文字どおり「からだ」で日本語を覚えたのだ。

多忙を縫って「第二の故郷」日本に足を運んでは、
医師の卵たちに生き方を説く。
軽妙でウィットに富む語りは、
専門知識で凝り固まった医学生の脳みそを揺さぶる。

「なぜ医者になるのか。
あなたは、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。
どのようにそこへ行くのか」

こんなひと言、ふた言が、日頃接する教授連の説教とは違う
リアリティを伴って、「効く」のである。
バブさんの話は「薬より効く」という。
「生活は医学の幅より広い」と気づき、目からウロコが落ちた医学生のなかには、
医療行政や僻地医療の道へ進む者が少なくない。

いまの日本で「金持ちより心持ち」と言い切れる者が、どれだけいるだろうか。
日本人が口にすれば偽善っぽく聞こえるセリフも、
バブさんにかかるとずっしりと重みを持つ。
それは、七〇〇年続く「バルア仏教徒」の家系に生まれ合わせたことと
無縁ではない。



==”ひとつまみ”の精神==

バブさんは、一九五五年、
チッタゴン市郊外の東グズラという仏教徒の村で生まれた。

北海道の一、七倍の広さの「バングラデシュ(ベンガル人の国)」は、
一億五〇〇〇万人が暮らす。
その約九割がイスラム教徒で、ヒンドゥー教徒は一割弱。
数十万人の仏教徒は一%にも満たない。

このイスラム色の濃いバングラデシュも、
一〇 ? 一二世紀には密教の本場だった。
十三世紀、イスラム教徒の侵攻後、
仏教徒はチッタゴン周辺に逃げ延び、信仰を貫いてきた。
主流のバルア仏教徒は約十四万人と言われ、バルア姓を名乗る人が多い。

バブさんの家系は二五代にわたって僧侶を輩出し、
叔父のヴィシュダナンダ マハテロ大僧正(一九〇九 ? 九四)は、
第二次大戦中からガンジーやマザー テレサと貧しい人々の救済活動を行なった。
「世界宗教者平和会議」の創設にも尽力している。
若き日のダライラマが中国を追われてインドに向かった際、
マハテロ師を訪ねたという。
仏教界の最高指導者ひとりだった。

バブさんにとって叔父さんは大先達である。
マハテロ師は、東グズラに「アグラサーラ孤児院」を残している。
約三〇〇人の五歳 ? 一八歳の子どもが「自立」を夢見て、
併設された学校や職業訓練施設で学ぶ。
孤児院設立の秘話を、バブさんが語る。

「一九四三年、ベンガルは大飢饉で、数百万人が死にました。
親を失った子どもは、路上に放り出された。
叔父さんは、道端で孤児と寝起きをしながら、手をさしのべたいと思いました。
村のお母さんたちに、協力してくれないか、と頼むと、
生活に精一杯、余裕はありません、と断られます。
飢饉で、一人ひとりが行き延びるのに必死でした。

叔父さんは、考えました。
バングラデシュでも、お米を小さなカップで、
一人前、二人前と計ってご飯を炊きます。
四人分のご飯を炊くとき、叔父さんはその米から、ほんのひとつまみ
だけでいい、別の器にとってくれないか、と提案しました。
こっちの四人から、ひとつまみ、あっちの四人からひとつまみ、、、。
お母さんたちは、これに賛同します。
お坊さんが、毎日、ひとつまみずつ、お米を集めてまわり、
孤児院は始まったのです。
叔父さんは、よく言いました。
ゼロだから、何かを始められるんだよ。
ゼロから一にするのは大変だけど、それができれば、自然に、
二、三、四と進んでいくものだ、できることからやればいいと、、、」

マハテロ師の精神は、現代に息づいている。
ノーベル平和賞を受賞したムハマド ユヌス博士も、
ひとつまみの米の発想に立つ。
ユヌスのグラミン銀行は、貧しい人に低金利、無担保で融資する
「マイクロクレジット」で名高い。
少ない金額を、多くの人が出資して、必要な人々で分かち合うシステムだ。
ユヌスもよくマハテロ師を訪ねてきたという。

孤児院に収容されている子どもの過半が女子だ。
日本のテレビ取材を受けた女の子は、孤児院に入った理由を問われ、
こう応えている。

「家では学費も払えないし、村にいるといろいろ問題があるからです。
まず雨期には村が水浸しになるために学校に行けなくなります。
そして、この国はイスラム教徒の国です。
どうやって安全に暮らせますか」
(「NHKスペシャル ブッダ大いなる旅路1」)

少数派の仏教徒が置かれた状況が推し測られる。
日本にも「アグラサーラ協力基金」が設立され、孤児一人当たり
「月額二四ドル」の資金を確保する活動が行われている。



==独立戦争での体験==

さて、バブさんは物心つくと「苦しむ人に寄り添ってごらん。
できることからやってごらん」とマハテロ師に誘われ、
孤児の世話をするようになった。
学校から帰ると、孤児に読み書きを教え、体を洗う。
「お兄さん」と親しみを込めて呼ばれた。

そして、思春期、「戦争」で地獄の苦しみを味わった。

英国の植民地だったバングラデシュは、第二次大戦後、
二度、独立の闘いを経験している。

まずインド全域の独立運動に参加し、四七年にヒンドゥー教地域が
インドとして独立すると、イスラム教地域は「西パキスタン(現パキスタン)」
とベンガル地域の「東パキスタン」に分立する。
「東」は言葉の違いや「西」に偏った政治、経済体制への不満から、
さらに独立を求める。
バブさんが一六歳のとき、東西内線が勃発した。

西は、船で大軍を東に送り込んだ。
軍隊は村々を焼き、女性を陵辱する。
男は容赦なく殺戮された。
九ヵ月間、阿鼻叫喚の地獄絵がくり広げられる。
バブさんは戦争体験を人前で喋らない。
戦争を知らない日本人には伝わらないと感じている。
つらい出来事は思い出したくもない。

「日本の若者も戦争反対と言います。
軽く、浅く、言います。
戦争が起きたらどうなるか、想像がつかない。
反対、反対、何ができるか考えない。
戦争について語ると、怖い、あるいは美しい話だと単純に受けとめる。
戦争の写真を見せて、と言った日本人学生がいました。
写真なんかない。
僕だけ生き残った。
どうやって写真撮るの。
話したくない」

だが、いや、だからこそ、独立戦争で何を経験したのか教えてほしいのだ。
語りの背後にある体験を知りたい。
、、、長い沈黙のあと、バブさんは重い口を開いた。

「バスで街に行く途中、軍隊に止められて乗客は全員、
ガンジス河の畔に並べられました。
五〇人か、六〇人。
端からカチチチチ、プシュ、プシュと銃で撃たれて殺される。
倒れたら、兵士は死体を河に蹴り落とします。
僕の番がきました。
少し知っていたウルドゥ語(パキスタンの言語)で『ハン アプカ ドステ』
と言いました。
仏教徒のIDカードを見せて『わたしはあなたの友だちです』と言ったんです。
僕だけ助かった。
友だち三人で道を歩いていて、カチチチチッ。
左右の友人は倒れました。
姉の親友だった姉妹は、兵隊に連れ去られる途中で毒を飲んで死にました」

マハテロ師も殺されそうになった。
夜中に兵隊が家に入ってきた。
とっさに姉がサリーをマハテロ師にかけて、トイレに隠した。
兵隊は、女しかいないと思って、罵りながら帰っていった。
村々が焼き払われ、目の前でたくさんの人が死んだ。
写真やテレビの映像ではなく、自らの体で経験した。
「なぜ、自分が生きているのか、わかりません。
嬉しい、悲しい、そんな単純なものではないのです。
戦争中の軍隊に人間性などない。
人を見たら敵だと殺す。
日本人はね、戦争を知るお爺さん、お婆さんから、
もっと学ばなくてはいけない」。

七一年一二月、国際的な支持を得て「ベンガル人の国」は独立した。



==レイテ島の保健医学校==

バブ青年は、七六年に虎の子の「二五ドル(七五〇〇円)」
をポケットに入れて、京都の大学に国費留学中の兄を頼って来日する。
さっそく各地の大学医学部を訪ねたが、言葉の壁は想像していたよりも厚い。
それ以上に日本と母国の環境の違いに愕然とした。

日本の高度に専門化した医学教育は、
そのまま学んでも途上国では使いものにならなかった。
祖国の村は、電力も乏しく、医療設備や医薬品が手に入らない。
高価な医療機器を持ち帰っても、メインテナンスすらできないのだ。
頭を海外に切り替える。

マニラに何度も足を運び、「フィリピン国立大学医学部レイテ校=
School of Health Sciences (SHS)」の入学資格を得た。
学資を稼がねばならない。
小淵沢インターチェンジの建設現場で汗を流し、静岡で茶摘み。
京都のレストランで皿を洗い、トラックの助手席に座って
下関と東京を何度も往復した。
極寒の北海道で魚も穫る。
生活を通して日本を観察し続けた。
念願がかない、七九年、レイテ島へ渡ったのだった。

パロという田舎町に本校を置くSHSは、現場での「叩き上げ」で
看護師や医師を育てる保健医学校だ。
古い授産院を転用した木造校舎での「座学」はカリキュラムのほぼ半分。
フィリピン全土から集まった学生は、週の後半はグループで村々に張りつき、
資格を持つ先輩についてお産や保健指導、
予防接種などのノウハウを習得していく。
住民と接する「地域」が大切なキャンスなのだ。

学生は、入学後二年で「助産師」資格が必要なヘルスワーカーの
国家試験を受ける。
パスして、さらに勉強を続けたい学生は「地域の承認」を得て
看護師養成コースへ進む。
その後も住民の評価を受けながら、保健師、医師へとステップ アップするのだ。

SHSは、七六年の開校以来、二〇〇〇人以上の医療者を送り出している。
そのうち医師の国家資格を取得したのは約一二〇人だ。

この階段式コースを、バブさんはきっちり一〇年かけて上り詰め、
医師資格を得た。
レイテ島で二一五人の赤ん坊を取り上げている。
薬も医療機器もない村でいかに「生命」と向き合うか。
そこが医療者としての原点だ。

「夜中に早産でお母さんの出血が止まらなくなったことがあります。
お母さんを椅子に座らせて、産まれたばかりの赤ちゃんを同級生が抱いて、
町の病院まで運び始めました。
凄い出血で危険でした。
胎盤を掻きだすときに何かが起きた。
電気もない。
真っ暗。
ローソクと石油ランプの灯りだけです。
自動車を借りたいけど村にお金がない。
同級生にお母さんを預けて、車が通る道まで、三キロか、
四キロ、ぶっ通しで走りました。
たまたまジープが通りかかって、必死でお願いして母子を病院に運びました。
SHSの学生たちで献血して、ふたりの命が助かりました。
二週間で退院できた。
何もないところで仕事をするときは、、、まず、祈ります。
神様、わたしの前に大切な命があります。
助けてください。
人間は壁にぶつからないとわかりません。
とくに医者は経験が肥やしになります」

仏教徒らしく「縁」を大切にするバブさんは、日本の医学生の実習も受け入れた。

ところが、ここで忘れかけていた痛苦を呼び覚まされる。
レイテ島は、太平洋戦争の激戦地であった。
大勢の島民が日本軍に殺戮された。
ある村で、父親を目の前で殺された男性が、「日本人を連れてくるな」
とバブさんに猛然と食ってかかった。

「生きている間に日本人の顔は二度と見たくない。
もし、日本人が来たら、この手で殺してやる。
戦争で親父が殺されなかったら、おれだって学校に行けたんだ」

戦争と聞いて、独立戦争の悪夢がよみがえった。
だが憎しみを抱き続けているだけでは次の一歩を踏み出せない。
越え難い溝に橋を渡そう、とバブさんは腹をくくった。

「あれは大変でした。
男性を、何度も訪ねて、不幸な関係を終わらせましょうと説得しました。
村長さんにも頼んでね。
一週間、僕も日本人学生と一緒にホームステイしたんです。
帰りに男性は学生と握手してくれた。
すべて許したのではなくても、大きな変化でした」

バブさんの「語り」は医者の卵のハートに火をつける。
その後も多くの日本人学生をフィリピンに送っている。
ある女子医学生は、南洋の島に行った理由をこう語る。

「このまま医者になったら怖い、と思っていたんです。
父は開業医で母は薬剤師。
姉も医学生で、高校生の弟も医学部志望です。
医者が一番いい職業、という洗脳が入った状態で医学部に入ったけれど、
怖かった。
白衣を着て、優しい声は出せるけど、ほんとの自分じゃない。
命の重さも知らず、医者にはなれないと悩んだ末に、フィリピンに行きました。
無力さを思い知らされたり、新しい発見をしたり、、、
大学では得難い経験でした」

人々は、高度で専門的な医療を求める一方で、感情の動物としての安らぎを
医師との接点にも期待している。
バブさんは語る。

「昔、食事はカマドでこしらえました。
でも、写真でしかカマドを見たことのない人がアジア各国に増えました。
生きていく知恵も技も残らない。
サイエンスは大切ですが、サイエンスに使われてしまっては駄目なんです。
医者は『聴心器』が使えなくてはなりません。
心の声を聞き取ることです。
そして、聴診し、触診し、打診し、人間として接する。
人の命は、レントゲンには写りません」

バブさんは「日本の若者には、世界の実情、事実を知ってほしい」と言う。
いまでもバングラデシュはガンジス河の上流に大雨が降れば、
国中が洪水に襲われる。
家畜も食べ物も流される。
政情は不安定だ。
運命を背負い続けてきたバルア仏教徒の末裔は、
長いインタビューをこう締めくくった。

「大自然の前で人間の存在はちっぽけです。
だから、人と人が『お互いさま』で生きるのは当然なのです」

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やまおか じゅんいちろう ノンフィクション作家。
『田中角栄 封じられた資源戦略』(草思社)、
『医療のこと、もっと知ってほしい』(岩波ジュニア新書)ほか、著書多数。

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