この人に聞く 山間部からみる医療・福祉の原点 色平 哲郎

医療福祉建築 No.161 2008年10月1日
社団法人日本医療福祉建築協会発行

 深刻な少子高齢社会を迎えると言われているが,山間部
ではとっくにそのような状態にいたっている.限界集落の
将来といったことがささやかれるなか,こうした地域で診
療を提供し続けてきた色平先生に,今後の医療・福祉の進
むべき方向についてお話を伺った.
(ききて 中山茂樹・山崎敏/編集委員会)

*    *    *

-- 色平先生は,たしか最初は工学部でしたよね.その後,医
学部に行かれ,地域医療にたずさわられることになったわけで
すが,まずその動機や経緯,南相木村での活動などにつきお聞
かせ願えますか.

 東大の工学部に在籍していたとき,ヨーロッパの国々を
訪ね,市民自治の伝統や,弱者・少数者へのあたたかい眼
ざしにふれて衝撃を受けました.帰国後,大学を中退し,
国内外を放浪しましたが,アジアの無医村で活動する医療
者の姿に感動して,京大の医学部に入り直しました.卒業
後,佐久総合病院で研修をしたあと,南牧村に2年,南相
木村に10 年いて,今年4月に本院に戻りました.現在は
本院で診療にあたるほか,南相木村に週1回,信州新町に
月2回ほど通っています.
 南相木村は,鉄道も国道もない山村です.人口1,106 人で,
65 歳以上人口は39.4%.私が診療所長として赴任するまで,
長く無医村でした.ここに家族5人で暮らしながら,多く
の老人を見送りました.
 村の老人は80 歳代でも現役です.子どもの頃から,田
をつくり,水を引き,炭を焼き,木を伐り,家を建て,家
具を作り,猟をし,子どもをとりあげてきた方々ですから,
百の知恵と技を持っておられます.古いしきたりや掟,長
老の支配する世界ですが,だからこそ中世以来の農村や水
源が守られてきた.彼らを「土のひと」とするなら,私た
ちヨソ者は「風のひと」ですから,一定のスタンスをとっ
ておつきあいするしかありませんが,こちらの方が学ぶこ
とは多かったと思います.

-- 佐久総合病院は,地域医療で有名ですね.また長野は平均
寿命が全国一で,かつ医療費が少ないことで注目されています.
その秘密は何でしょうか.

 佐久総合病院は2年前に亡くなった若月俊一院長(当時)
が60 年前に,住民と一緒に作った病院です.1945 年に若
月先生が佐久病院に赴任した当時,ベッド数は20 床で,
木造の施設には入院患者もいなかったそうです.若月先生
は「農民とともに」を合言葉に,職員の先頭に立って地域
で出張診療をくり返し,予防と健康管理の大切さを訴えな
がら病院の近代化をはかりました.その結果,人口1万数
千人の臼田町に1,000 床をこえる病院をつくりあげ,「現代
の奇跡」といわれましたが,若月先生自身は「よい病院と
いうのは,病床数や高度機能とは関係ない.地域住民のニー
ズにどのように応えているかで決まる」と繰り返し語って
いました.
 佐久病院は1947 年に,病院給食を実施しています.都
会では医者でも闇市で食糧を手に入れていた時代にこれが
できたのは,医師や看護師が結成した劇団が頻繁に村を訪
ね,健康管理の大切さを説いていたからで「おらたちも一
肌脱ぐか」と病院給食が実現しました.
 長野の中でも,佐久は最も医療費が安いと思います.佐
久地方,特に南部の地域医療は,佐久総合病院と傘下の2
つの分院,へき地の診療所が二重,三重にカバーしあう体
制で守られてきました.診療所の訪問診療が機能してきた
のも,家族や近隣の「お互いさま」精神で,患者を見守る
習慣が辛うじて残っていること,そして,いざとなれば本
院に運べるという安心感が支えになってきたからです.最
近は,医師不足の大波で,その「最後の砦」も崩されかね
ない状況になりつつありますが...

-- 先生のお書きになったものに「私は農協の職員です」という
言葉がありましたが,それと今のお話とは関係があるでしょうか.

 佐久総合病院は厚生連の病院ですから,私たちは農協
の職員です.公的3病院の2006 年度の決算では,日赤が
223 億円,済生会が45 億円の赤字だったのに比べ,厚生
連の赤字は14 億円でした.長野厚生連は県内に10 病院が
あって,病床数は県内の20%.うち5病院が赤字ですが,
全収益の7割をあげる佐久総合病院の存在があって,連結
決算で黒字を維持しています.
 厚生連はスタッフに待遇の良いところではありません.
「金持ちより心持ち」という伝統があって,医者が儲けよ
うとしません.歴史をたどってみると,医療には医療技術
を権威化・商品化する方向と,協同化する方向があります.
大学病院や医師会は前者の伝統をひき,私たちは後者の伝
統をひいていると言ってよいでしょう.
 「医者をあげる」という言葉をご存知ですか.「芸者をあ
げる」というのと同じ意味で,昔はお大尽でなければ医者
を呼べなかった.「医者どろぼう」という言葉もあって,医
療保険がない時代には,泥棒に入られるような覚悟を決め
ないと,往診は頼めませんでした.
 農協の前身は,明治時代に設立された「産業組合」で,
大正時代にその事業の一部として,医療も手がけるように
なります.これに対する医師会の反発もあったのですが,
昭和初期の金融恐慌のなかで,医者にかかれず死んでいく
農民のために,医療組合運動が展開されました.これは全
国に広がり,都市部にも及んでゆきます.こうした歴史の
上に,公的健康保険制度が導入され,さらに戦後,国民皆
保険が実現したわけです.
 医療技術を商品化すれば,病人が多いほど儲かるわけで
すが,私たちは農協の職員で,患者は農民ですから,みん
な「雇用主」にあたります.彼らが病気にならないように
するのが私たちの務めですね.このあたりが医療費が安い
秘密ということになるでしょうか.

-- このところ,コンパクトシティとか,限界集落論といっ
た議論が盛んです.へき地医療にたずさわられてきた立場から,
これをどう考えですか.

 まず「限界集落」と命名する無神経さには憤慨しますね.
限界なのはむしろ自治体でしょう.戦後,農作物や林産品
を商品としてしか扱わない諸政策によって集落は崩れ,山
林や水田の保水力は衰えて「限界自治体」ばかりになりつ
つあります.食糧自給率は,4割を切った今ごろになって
騒いでいます.
 今年,南相木小学校の新入生は2名でした.ここは農業
と林業の村ですが,林業に明日はなく,農業は後継者難で
す.若者はムラに残らない.残ってもヨメさんが来ない.
来てもムラではなく,マチバで暮らす方を望む.農業崩壊
は間近に迫っています.では,コンパクトシティ論の言う
ように,一か所に集めればいいか.
 ある老人が山奥でのひとり暮らしが無理になって,都会
の息子のマンションにいやいや引き取られて行きました.
しばらくして老人は,そこを「脱走して」村に帰って来ま
した.痛みのため,ほとんど自力で歩くことができない彼
が言うには「都会では,きのこ採りに行く山がない.魚を
捕る川もない.焚き火をしたら,警察が来てひどく怒られ
た.こんなところにいたのでは呆けてしまうと思って,逃
げてきた.不便しようが,買い物に困ろうが,ここで死ね
れば本望だ.」
 村の老人たちは,生まれた頃は無保険者でした.またそ
の多くは土地を持たない農民でした.戦後,農地解放があ
り,国民皆保険になった.自分たちの手で組合病院をつく
り,支えてきたという歴史をもっています.そういう方々
に「限界集落」だから医療や介護を受けたいのなら,こち
らへ来て下さい,と言うのでしょうかね.

-- 先生は若いころ各地を回られ,世界的視野をお持ちだから
こそ,へき地医療をされるようになったのだと思います.むし
ろマージナルなところに,医療や介護,あるいは看取りの原点
があるのではないでしょうか.

 南相木村の隣に川上村という千曲川最奥の村があり,農
業が盛んなところですが,ここは中国人労働者を毎年数百
人規模で受け入れています.農山村の「花嫁さん」と呼ば
れるような方々にも,都会の外国人労働者にも,ひとしく
文化的摩擦や心理的葛藤が起こっています. 「ヘルプマ
ン!」というコミックをご存知ですか.第8巻「ケアギバー
編」は海外からのヘルパーさんを扱っていて出色です.ご
一読をおすすめします.今後の医療や介護は,国際的視野
から見てゆくことが大切です.
 英語のcure やcare の語源は,ラテン語のCURA です.
care には「世話をする」と「わずらい」の2つの意味が
ありますが,これもCURA から来ていて,もとは軍事用
語でした.つらさや苦しみを,わが身同様に感じられる仲
間だからこそ,ともに戦えるし,ともに苦悩を分かちあえ
る.その共感がcure とcare の源ですから,介護と治療を
分けて考える必要はないと思います.
 欧米の医療や介護は,ローマ以来のキリスト教的な伝統
のなかで,教会や修道院を中心に行われてきましたが,わ
が国では仏教が同様の役割を果たしてきました.仏教の「慈
悲」にも,他人の苦しみや悲しみを共感するという意味が
あって,CURA の概念と大変よく似ています.ただ,現
代の日本は信仰的な伝統がうすれて,メディアのサイエン
ス万能主義が人々の頭を支配していますから,死生観など
誰も教えてくれません.
 先年,テレビの取材に協力して,バングラデシュのある
村を紹介しました.翌年,番組が放映されました.村はず
れに住むおばあさんに死期が近づいている.黄衣の僧が訪
れて「枕経」をあげます.そして僧は,まだ生きている人
に向かって,いきなり「人は死ぬのが定めです」と語りか
けます.実はこれこそ,ブッダの教えの核心なんですね.
それを人々は日常的に学んでいて,そのなかにこういう風
景がある.南相木村の老人たちも「老い方や死に方の作法」
を心得ているように見えて,すがすがしささえ感じること
がありました.
 現在の日本では年間110 万人が死亡します.私が死ぬ頃
には170 万人に達します.この方々が,どう看取られるの
か.死生観なしに介護や看護ができるのか.これは大きな
問題だと思います.    (2008 年8月1日/佐久にて)

色平哲郎氏プロフィール
内科医.1960 年神奈川県生れ.東京大学中退後,世界を
放浪.90 年京都大学医学部を卒業後,長野県厚生連佐久
総合病院,京都大学付属病院などを経て長野県南佐久郡
南牧村野辺山へき地診療所長,98 年より08 年まで南相木
村診療所長をつとめ,現在佐久総合病院地域医療部地域
ケア科医師.
NPO「アイザック」事務局長としても活動をつづけ,95
年タイ政府より表彰.著作:『大往生の条件』(角川新書),
『命に値段がつく日/所得格差医療』(中公新書ラクレ共
著)など.
HP:http://www.hinocatv.ne.jp/~micc/Iro/01IroCover.htm


THE ORIGIN OF CARING AND CURING
Tetsuro IROHIRA

 Dr. Tetsuro Irohira, who has been working in secluded
mountain communities since he became doctor after
travelling around the world was interviewed. He says that
the elderly living in small secluded communities maintain
a philosophy towards life and death, while contemporary
society lacks people who tell about living and dying. How
can dying people without philosophy be cared and healed?
That is the question he poses.
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