若月俊一のまなざし

長 純一 (ちょう・じゅんいち  佐久総合病院医長・小海分院診療部長)

2006年8月、当院名誉総長の若月俊一が96歳の生涯をとじた。

「農村医学の父」として、地域医療や在野で活躍する多くの医師たちにとって偉大な先達であった。
今、彼の事績を後世に伝えるべく資料を整理している。
この稿では、医療技術者・若月について記したい。

もともと、「赤い」若月を入局させてくれるところがほかになかったという理由から、
東大医学部の大槻外科で修行、外科医として医局内でも優秀だったようだ。
1945年彼が当地佐久に赴任したころ、開腹術ができるのは長野市しかない状況だっ
た、と伝わる。
ありとあらゆる手術をおこない、次第に地域の信頼を勝ち得ていった。
一方で、医療にかかれず手遅れになる患者が多いことから、同45年、自ら書き下ろし
た脚本による保健衛生の寸劇をたずさえ、出張診療班をつくって休日には農村に出かけていった。

当時、「カリエス7年」と呼ばれていた。
数年で死ぬもの、といわれ、「死の門を開く」とされて手術ができないでいた脊椎カリ
エス、この手術に、日本ではじめて成功している。
全国の整形外科医からは、「外科医がなぜ専門外の手術を」という非難がよせられ
たが、数年後には手術が標準の治療法となった。
戦時下に治安維持法で検挙された、若月による軍需工場での労働災害の統計研究においても、
現代の整形外科医からみても妥当な治療法が記されてある。

さかのぼれば戦前、社会病としての性病に関心をいだき、著作もあって、
「性病の大家」として紹介されたこともあったという。
社会運動家としてはもちろん、医療技術者としても、まさにスーパードクターであった。

佐久病院は当初から研修医の全科ローテート研修にとりくんできたが、
これも患者の全体像をみることができる医師を、との若月のこだわりからであった。
私は農村の診療所に6年間勤め、どんな疾患にも対応せざるをえない体験をした。
この経験からあえて述べるなら、「医療は患者のもの、医療技術は医師個人のものでなく
歴史的産物である」という若月の教えを直接に受けたことは、
いろいろな診療科を回るトレーニングを受けたことよりはるかに重要であったと感じる。

なんのために総合診療であるのか、その根底にあるまなざしが問われるのではないか。

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