「若月俊一さんを悼む」 06年8月31日「朝日」
最初にお目にかかったのは佐久総合病院研修医の採用面接でした。
大きな声で我々に質問し討議して、その場を仕切っていらっしゃいました。
ある当直明けの早朝、院長室に呼ばれ、えらく怒鳴られました。
なんであんなに叱られたのか、今はいい思い出となりました。
研修修了の早春、大学に戻る私は送別の宴を開いていただき、ハッパをかけられました
。
家族5人で佐久地方の山中に暮らし、村の医療に取り組んで十年余。
診療中、外科医時代の先生の思い出が語られます。
明治・大正生まれの患者さんは、おなかの古い手術痕を誇らしげに披露されます。
山の村のお年寄りを見送り、先生を見送る巡り合わせになりました。
「佐久病院の昭和」が終わりました。
先生が「農民とともに」「村で病気とたたかっていた」ころ、農村は部分的にしか
医療保険に守られていませんでした。
「医者どろぼう」という言葉も生きていたと伺います。
先生は全国民をカバーする皆保険制度を実現するため、必死に取り組まれました。
その皆保険がいまや空洞化し、国内に格差が拡大しつつあります。
医者が「どろぼう」と呼ばれる時代に逆戻りしてしまわないよう、未来を闘いとらねば
なりません。
「予防は治療に勝る。そう我々に教えてくれたのはドクター・ワカツキ」
敬意を込めたスピーチに驚いたのは、医学生でフィリピン・マニラに滞在していた時で
した。
先生が率いた農村でのプライマリーヘルスケア。
佐久病院のこの分野の実績は、世界保健機関(WHO)によるアルマアタ宣言
(78年)に30年先行するパイオニアワークです。
78年、「サクのワカツキ」が世界医師会大会で演説してまいた種は、世界各国の
保健活動に受け継がれました。
マニラ駐在のWHO医務官も注目し、今も途上国の若者の心に先生のメッセージを
届ける金字塔になっています。
佐久では実現かなわなかった先生の「農村医科大学構想」。
レイテ島にフィリピン大学医学部分校が設立され、先生の理念は結実しました。
10年ほど前、母校での講演をお願いした時、先生はおっしゃいました。
「東大は権威主義だ、におってくるぞ」
果たしてお話しいただけるものか、心配でした。
「母なる農村を守れ」「学問を討論のなかから」「農村では、演説するな、劇をやれ」
。
当時の私は先生のおっしゃること、よくわかりませんでした。
その後、地域でもまれ、先生のこと、少しは理解できるようになったかもしれません。
「キラワレルコトヲオソレズ/ドロヲカブルコトヲオソレズ」
空襲下の東京から臼田に移って六十余年。
親分肌の気配りで、一筋の道を突き進んだ先生の心意気と存在感を当地に感じます。
思想によって集めた力を、いかに政治的に使うか。
先生の孤独、困難もまた、これに尽きることでしょう。
宿題として残された「メディコポリス構想」(医療・福祉・教育などを連携し、
若者の雇用を地域に確保する)実現にむけた新たな模索。
それは地域の民主化と医療の社会化を目指す運動です。
私たち後輩医師は、暮らしと仕事、技術そして文化と平和を一貫して考え抜いた
「若月学」を語り継いで参ります。
(佐久総合病院内科医 色平哲郎)