「扶氏医戒」を知っているか


  私が地域医療を志したのは、学生のころに訪れた国々で、“医療の原点”を目の
当たりにしたからだ。発展途上国の電気もきれいな水もないような土地でも、病気や
けがで苦しんでいる人を何とか救おうとしている信仰者や医療者がいた。日本で生活
していると、医療は、設備が整った施設で行うのが当たり前だと考えがちだが、世界
全体で見れば、そういう恵まれた場所の方がむしろ例外的なのである。世界のどこへ
行っても体一つで人を助けられる、そんな医師になりたいと思った。
 大学を卒業すると、日本で私の理想に最も近い医療を実践していた佐久総合病院の
故若月俊一先生の門を叩いた。無医村だった長野県の南相木村に家族5人で越してき
たのが8年半前。 当時に比べれば、村の人たちとだいぶ打ち解けた気はするが、彼ら
との“心の格闘技”は今も続いている。メディアはしばしば私のことを地域医療に身
を捧げた医者として美談で語ろうとするが、現実はそんなかっこいいものではないだ
ろう。  
 私が医師の在り方について考えるときに常に思い出すのが『扶氏医戒之略』だ。ド
イツ人医師、ベルリン大学教授クリストフ・ウ゛ィルヘルム・フーフェラントの著書
を、幕末の蘭方医であり、適塾(現在の大阪大学)を開いた緒方洪庵が翻訳し、門人
に説いた書だ。巻末には医師が守るべき12カ条の戒めが記されており、その第1条に
はこうある。
「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業の本旨と
す。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救はんことを希ふべし」
 業として医を営むのは人のためで、自分のためではない。趣味に生きるのではなく、
名誉やお金を顧みない、これが医者の原点だと説く。この一節だけを読んでも、医師
としての魂が奮い立つ。  
 ほかにこんな条文もある。
「世間に対し衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも、言行厳格なりとも、
斎民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし。周く俗情に通ぜざるべからず」
 どんなに学術がすばらしくても、謹厳実直でも、人々の信頼を得なければ、徳を施
せないと教えている。
 昨今の若い医療者を見ていると、ここが分かっているのかと思うことがよくある。
『扶氏医戒』を守ろうとしているか。そもそもその存在を知っているか。『扶氏医戒』
は当時なりのすべての医師に課された戒であろう。矛盾に満ちた現代社会だからこそ、
医戒について深く考えてほしい。

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