あるインタビュー
池田 先生の奥さんは結婚した頃を振り返って「背、学歴、収入」が高い「三高」じゃ
なく「三低」で、100年に一度の奇人変人とおっしゃってますが、実のところはどう
でしょうか。
色平 女房と出合った頃、彼女は私のことを「300歳くらいだ」と思ったみたいで、
女房からすればかなり変わった人だと思ったんでしょうね。学生時代京都のまちを歩い
ていても「この灯籠はこれこれこうだ」「ここは○○の跡地だ」なんて、よく言うもの
ですから「この人いつ生まれたんだろう」と。勉強はともかく歴史的な探究には熱心で
した。
池田 エキセントリックな方がどうして医者の道へ、と聞く前に京都大学で医学を専攻
する前の東京大学でのことをお聞かせください。専攻は何を。
色平 本当はダム屋になろうと思っていました。久保田豊(1890−1986 大正
・昭和にかけて水豊ダム建設をはじめ、世界各地で電源開発、農業水利のコンサルタン
トして活躍=朝日人名辞典より)のような仕事をしたかったのですが、あまり勉強はし
ていませんでした(笑)。東大では化学を専攻しました。やがてドロップアウトしちゃ
う。あちこちを歩いて回り、屋根やお金があるだけでもうれしかった。キャバレーで働
いたり、英語ができるものですから「インテリヤクザにならないか」と誘われたことも
ありました(笑)。ただ中退してからはよく勉強しましたよ。
池田 そして京都へ、ですか。先生は関西とも縁が深いとお聞きしていますが。
色平 京大は良かったことともありましたし、731部隊の戦犯なので嫌だったことも
ありました。月100円の京大吉田寮へ入り、医学部へ籍は置きましたが卒業できると
は思っていませんでした。京都では山を散策したり、九州から沖縄周辺、韓国、中国、
フィリピンの島や山を巡りました。それがいま役だっています。後に私の師匠になるよ
うな鶴見俊輔さんなどの話が理解できて普通にしゃべれようになるにはアジア学が求め
られましたからね。関西との関係ではものごころがついた頃に神戸にいました。小学校
に上がった直後に東京に戻っちゃいましたが、学生として京都に行くまでは関西との縁
は切れていました。女房が京都の人間なので家の中に限って言えば文化的には親しい間
柄です。
池田 ダム屋から医者への変更はどうしてでしょうか
色平 私のような人間がコミュニケーションを主体とする医療を手がけるのは、或る意
味患者にとっては迷惑な話です。どうして医療をやることになったのか、なかでも特に
自分には不向きな地域医療を手がけることになったのか。先日亡くなられた若月俊一先
生の影響が大きいです。若月先生は、最初は革命家、そして文学者を目指した時期もあ
ると本人からも聞きましたが、私の場合は革命家ではなくて医者になろうと思っていま
した。若月先生のことは知っていましたがフィリピンなど海外を回っているうちに佐久
病院の噂を聞いて、訪ねてみたら若月先生の弟子である清水先生がいました。清水先生
に師事し、若月の孫弟子として修業しているうちに現在の状況に至ったわけです。私も
十年間村で医療と向き合って、はじめて六十年取り組んでこられた若月先生のすごさを
すこし垣間見るかなといったところです。
池田 フィリピンでお聞きになった若月先生の話というのは…。
色平 若月先生の言葉に「予防は治療に勝る」というのがあります。フィリピン大学医
学部は日本の東大に相当するのですが、教員からその言葉を聞き、かつての戦場の島で
あるレイテ島に足を運びました。レイテ島にある医学校は一九七八年に開かれた「第3
2回世界医師会大会」で若月先生が英語で「日本で果たせなかった農村医科大学構想を
フィリピン医科大学がレイテの地で実現した」と演説しています。日本で言えば東大が
佐渡に医学校を造ったようなものです。こういった医者がいないところで保健関係者が
努力して取り組んでいることがとても印象に残りました。日本に帰って若月先生のとこ
ろを訪ねてみようと思いましたね。
池田 若月先生のもとで佐久総合病院で取り組まれてきた医療は、「自治とは何か」と
いう問題にもつながると思うのですがその辺りのことをお聞かせください。
色平 先日お会いした加藤周一先生も医者であったがゆえに医療を捨てて文学に行きま
した。なぜ文学だったのか、なぜ歴史なのかについて、彼は「人々に医療的なものがど
ういったものなのかを深く知っていただかないと、単に医療をやっているだけでは多く
の人たちの関心を惹かない。痛いときだけお医者さんに行けばよい、従属というか、そ
のときだけで済んでしまいますから当事者意識がなくなる」と言っています。
もし住民が自治を貫いていくのであればどういう医療が欲しいのか、それにいくらかか
るのか、だからどうなのか、ここをちゃんと組み立てて議会で討議しないといけません
。この点について若月先生は戦後すぐ、GHQの軍政下にあるなかでGHQが注目する
ような画期的な仕事をし続けています。その仕事は医師会や医学界、お金や御上に向い
た日本の主流の医療とはまったく違うものを目指していました。私はそのことを学ばせ
ていただき追体験させてもらっています。
池田 医療を受ける側と提供する側との関係はどうお考えですか。
色平 先ほどの加藤周一先生は「医療は所詮、他人事であるからこそ、医者はうまく判
断できる」と話していました。親身になってくれればよいと言うわけでもない。看護士
でも家族でもないわけですからね、むしろ自分の息子であればオペができないというこ
とです。医療者が言えるのは統計的な話です。病気について何%がどうなるかという話
はできるけれど、患者が求めているのは自分の運命についてです。まず自分の運命を医
者に聞くこと自体が問題です。統計しか言えない医者が、患者から自分の運命を聞きた
いと患者から言われて答えられるわけがありません。翻訳不明なものを翻訳しなければ
いけない。それくらい異質な期待がお互いの間にあるわけです。私たちが説明したつも
りでもガンだと言われたら頭が真っ白になって何も覚えていないのが現実です。自分の
病気にぶつかるまで医療のことを考えたことのない日本の人たち、自分の行政と対応し
てみるまでは税金の使い道について考える習慣のない方々が、そういう瞬間になってま
ったくゼロから始めてそのときの印象だけで物事を言うことになってしまいます。
池田 お任せ的な状況があり、医療構造改革が入って来るなかで、結果として医療の姿
は住民にとっても医療消費者としての教育のレベルが上がるわけではないですね。
色平 現在のままですと、単につぶやいたりクレームがあって声の大きい人が新聞沙汰
にしたり、みなさんにとってはいったい医療で何が起きているのかは分からないでしょ
うね。本来そうではないはずです。お医者さん側も襟を正さないといけない。開業医は
お金を儲け、勤務医はヘロヘロになってやっています。医療の質は高いかも知れません
が、非常に手薄くなって危ない状況です。少しでも精神的、金銭的なサポートを入れな
ければ自治体病院は持たない。そういったことをいま国民が感じ始めたところです。こ
れまでは当たり前のように国民皆保険で病院に行けば診てもらえたわけです。それがま
ったく当たり前ではないんだという最初の機会になりました。よかったとも言えますが
、大きな格差が生まれると思います。
池田 医師不足問題でも京都北部では産婦人科、小児科の医師が不足して子どもが産め
ないような状況に陥ってきています。長野県ではいかがですか。
色平 長野県は医師数は多くない。ベッド数も多くない。医療費も多くない。これまで
出来高払いだったわけでカルテにちゃんと書いて出せば、それだけ実入りになったのに
それをお金にしていない。長野の場合、医療費を下げようと思ってやったわけではない
ですが、若月先生の伝統があってニーズに応じてやっていると、結果的に下がっちゃっ
たわけです。村に居続けたいというご老人方の思いを大切にすれば、私も出かけていま
すが肺炎だって在宅で治しちゃいます。私の手間はありますが入院させないということ
は一日数万円の医療費を掛けないで済みます。佐久病院にとっては、私がここで患者を
くい止めているわけです。奧丹後のほうが大変ならば、都会にいるお医者さんを何人か
奧丹後に送らないといけないけれど、社会主義国じゃないですからこれはできない。資
本主義国でできることは奧丹後で働いている産婦人科や小児科の点数を高めにするとか
、行きっぱなしではいけないからローテーションを組むとか当然頭に浮かびますが、こ
れまでだれかが自動的にやってくれたわけです。それが大学でしたが、ここが持たなく
なってきた。じゃあどうするかというと、お互いの駆け引きです。左京区と右京区が競
争相手になるわけです。いまのままいくとお金の高く設定するほうが勝っちゃいますか
ら、どんどん都会に集中します。なぜ都会かと言えば、都会にいるほうが子どもを大学
に上げやすいからです。このまま教育改革なるものが進むと田舎の子どもは高校も出ら
れなくなりますからね。学費が高くなって大学はまず行けなくなってしまいます。そう
いった国づくりをやっていく以上は田舎は切り捨てられます。切り捨てられていると気
づき始めた人たちが投票行動を変えられるのかどうか、自治という空間のなかで自分が
本当に選びとっているのかどうかです。京都大学の学者達の自治に対して、公が介入し
て大学の先生を奥地に送り、またローテとする。これは佐久ではできています。私を送
り込んで私を支えるシステムが六十年間かけて蓄積されてきました。公費をつぎ込まな
いで民間病院がここまでできると、海外も含め訪れた関係者はみなさん驚きます。医者
のやりがいは、途上国とか比較的恵まれない人たち、社会的、地理的な僻地と呼ばれる
ところで医療を施すことに大切な部分があるわけです。学生に対しても「君たちは変わ
り者だから留学とか研究をあきらめて佐久にきたいと言っているけれど、本当にそれで
いいのか」と聞いた上で、手応えを感じて我々は教えています。私もそうでした。
池田 日本の医療や福祉は八十年代の中曽根行革のときに公助から自立、互助へと大き
く転換しました。そういった自立、相互扶助のかたちとはどのように違うのでしょうか
。
色平 中曽根さんが何を言ったのかはつまびらかには知りませんが、あれは欺瞞です。
日本的な医療・福祉システムは女の人たちの犠牲の上にできあがっています。それをや
るのであれば、若い女性は結婚どころか、子どももだれも産めなくなってしまいます。
中曽根さんに「あなたが老人になったらどうするの」「いや俺は大丈夫だ」という前提
があるから、中曽根さんはそういうことを言っていることになります。皆保険以前に戻
るとか、そのような合意はだれも与えていませんからね。小泉改革に至ってはもっとす
ごい。日本政府が二つに割れていて、一つは新自由主義でアメリカに保険市場を開放し
ようという動きですが、これをやると医療費が上がってしまいます。厚労省も困ります
。そこで若月的な哲学が大切です。地域の健康は誰がつくるのかといえば、医者や行政
がつくるのではありません。地域の住民自身がつくるわけです。これはすごく意識が高
くないといけません。若月は「地域の健康はだれがつくるのかと言えば、地域の住民自
身がつくる。私共は専門の立場からそれにアドバイスし援助するのである」と言ってい
ますが、これが世界中ですごいと言われていることです。専門家がしゃしゃりでてもい
けないし、専門家をお金で縛ってもダメだという結論を、若月は五十年くらい前に言っ
ています。本来は地域住民がやれたことを、やれない部分を誰かにお願いするなかで、
どういう医療が欲しいのか、どういう負担が払えるのか、払えないのであれば国民国家
のなかでは、我々国民が国の憲法を使って国を縛っているわけですが、その原点をだれ
が知っているのかといえば、ほとんどの人は知りません。自治の原点がこういった村で
は大正年間に補助なるものが国から届くまで、すべて自前の自治でしかなかったわけで
す。その時代から距離はありますが、そこを取り戻していかないといけない。そこでは
京都でつくっている自治と我々の自治とどちらが魅力あるものかの競争です。その魅力
の度合いで医者は動いてしまいます。我々はこういうものを求める、だからあなたに行
って欲しいという心意気の関係性が地域の安全や安心を確保することにもなっていきま
す。限られた資源である医療を病院は造った、機械もある、薬もある。でも医者がいな
い。これはどこかに問題があるわけです。なぜ医者が少ないのかといえば、医師会が少
な目にしてきたからです。そのほうが実入りがいいからです。自分の息子や娘は医者に
しないといけないから私立医科大学を造るわけです。そういうことを国民が見抜けるか
どうかです。開業医も自分の息子や娘に帰ってきて貰わないと、地域医療ができません
。中曽根がどうだったのかとは違うレベルがあるわけです。結局、自分たちがふだん暮
らしているみんなのものを、どういう風に手を入れながら維持してきたのか。どのよう
に時間を使い気を使ってきたのかが問われてきます。住民の声が反映できるようにする
ためには、もっと小さくしないと人々の納得は得られません。納得が得られる、慕われ
る医者、住民や患者が納得する医療、これが若月先生のモットーです。住民や患者が納
得できるドクターをどのように技術者として育てるのかという若月先生の思いは実現し
なかった農村医科大学という中にあるわけです。いつでもだれでもどこでもかかること
ができる、ヒューマニズムのある、人を愛する気持ちのあるようなお医者さんをどうつ
くるのか。大学ではつくれないだろうと。それを彼は医療の民主化と呼んでいるわけで
す。そういった志で集まった我々の仲間は崩れませんが、大学の白い巨塔のメリット、
ハクがつきますからね医学博士とか、それで集まってもあっという間にばらけてしまい
ます。お金があるところには寄せられますが、お金がなくなるとどこかへ行っちゃう。
若月先生が亡くなったあと、彼のようなカリスマではない我々のような人間がどうやっ
て村の人たちの合意を託していただけるのかは、すごいチャレンジになってきます。自
分たちでつくるんだという気概を持っていても、持ちきれないのが医療です。住民達は
保育だって老人ケアだってできるだけ自分でやりたいしやってる。この村は警察官だっ
ていません。ほとんど自治でがんばってやっていますが医療はありません。ですから医
者を何とか確保したい。私が来ることによってニーズは満たしますが、そのぶん彼らの
依存心を増しているようなねじれもあります。同じことは若月先生も六十年前に経験し
たはずです。
池田 先生は長野県の委員も受け持っておられましたが、田中康夫前県政との関わりで
いえばどうですか。
色平 ややおっちょこちょいな革命家でしょうね。遠くから見ていると炎があがってい
ますし、風向きによっては遠くにいてもものすごく煙いし、近づくと火傷するし灰にな
っちゃうし大変でしょうね。公務員にとって田中康夫はまずいでしょう。でも我々から
すれば、県庁の役人があまりにも威張りすぎていましたから、かなり拍手をおくってい
た動きはあります。長野は北海道と並んで小さな町村が多かったですから御上意識の強
い県庁職員がのさばっていましたからね。医療、福祉、教育、それに私は工学部にいま
したから道路行政までやらされました。議会や公務員に接して、これで日本が持ってい
ることが不思議な気がしましたね。
池田 自治体や行政の可能性についてはいかがですか。
色平 多く期待すること自体が問題です。期待度が高すぎることによって患者の失望が
生まれるわけです。日本の行政にはみんなあまり期待していないでしょう。ですからち
ょっと崩せば目立ちます。日本の医療は切実だからみんな期待していますが、なかなか
応えられない。ドクターなどの医療関係者はもっとも恵まれた人たちで、恵まれた人た
ちが恵まれていない人たちのお世話をすることは難しいですね。宗教の規範がないとこ
ろで憲法の規範も知らない。そうなっちゃうと訳がわからなくなっちゃうんでしょうね
。
池田 規範となるところは、やはり憲法だと思いますが、実際には行政の現場で憲法と
いうことにはなっていません。
色平 憲法12条で言っているように、不断の努力によって政治・行政を監視する責務
を負うことを忘れている国民たちが徐々に辛い目に遭うことは当たり前でしょう。国民
に課せられた憲法上の義務はすべて空文ですから、責務というのが唯一残ると思います
が、そのときに目を見開いて不断の努力によって公なるものが何をしているのか監視し
なければいけない。これを怠っているのであれば権利もないでしょう。患者でいえばお
酒を飲んでめちゃくちゃして事故を起こして病院にやってきた患者のようなものです。
まあ、治療はしますけどね(笑)。
池田 一方では行政のほうも99条に書かれているようなことからは、ほど遠い状況に
なってきています。
色平 分権化すれば別でしょうが、現状では一括法が通ったとはいえ、国と地方の関係
はまだまだ御上なわけです。遵守義務は上に行けば行くほどあるわけです。ヨーロッパ
的には男の人が公務員でいる必要はないのです。シングルマザーの人が自分の子どもを
育てながら、ご老人の世話をしたり、教職員をしたりというところに雇用を維持するた
めの本義を置いているわけです。むしろ対人社会サービスといわれるところに女性の雇
用を維持できるようにしていかないといけませんね。みなさんが公務員であることは、
そんなに自明のことではありません。給料天引きで納税者という意識さえ持てなくなっ
てきています。公務員が批判にさらされているとはいえ、まだまだ本質的な批判じゃな
いですよ。いまは情念的な批判を浴びているだけです。図星にあたった本質的な批判に
さらされたら大変です。いまの新自由主義の時代においては企業のほうが国家を超えは
じめているわけです。公務という意味かどうかは不明ですが、みんなのために働く感覚
は以前と違って見直さないといけません。我々が医者を目指したときの初心、みなさん
が公務員を目指したときの初心です。勉強ができるから医者を目指すという人は最初か
ら医学部へ入れないほうがいいですよ。向いてないですね。志のなかでねじれているけ
れども、自分に合ったところを求めていく人を選ばないといけない。私は被保険者から
集めた保険料で養ってもらっている、公務員は税金で養ってもらっている。税金で養っ
てもらっている以上は、かなり市民の目が入ったところで、この人を公務員にしないと
いけないという同意を取らないといけない。よほどがんばっていただける方を選ばない
といけない。それが公共を担うと言うことです。やれる覚悟がなければ辞めたらいいで
す。転職したからといって不利益を蒙らないような制度は必要でしょうが。
池田 いま、公務員もそういった期待に応えられるチャンスがある。そういった時代で
すね。
色平 分権化すると、かなりの権限が持てますからね。ただ投票で選ばれたわけではな
いみなさんが権限を持つわけではなく市長という人事権を通じての信託です。市長がど
うなのかは単に文句を言っていてもダメです。ひっくり返せるかと言えば、現在の力関
係では無理があります。メディアを握られていますし、広告で頭を洗われていますから
テレビの時代になっている以上は、物事を考えながら進むという市民的な発想はほとん
ど育ちません。ではダメなのかと言えば、そんなことはありません。みなさんは公務員
であると同時にアフター5で一市民として何ができるのか、一公務員として何が出来る
のかを考えたときにかなり創意工夫ができます。注目を受けることは期待があると言う
ことです。
池田 先生の場合、農村医療から都会での医療へという問題意識はどうですか。
色平 都会は人が多すぎてよく分かりませんから、よく知らないことは言わない方が良
いでしょう。勘弁してください(笑)。
池田 きょうはありがとうございました。