プライマリー・ヘルス・ケア 地域医療の現場から日本の医療を問う

「世界」06年10月号掲載 連載浅野史郎の疾走対談第四回

                対談(浅野史郎/色平哲郎)


★キャバレーのボーイ時代に芽生えた医療への憧れ

浅野 実は、僕も医者になる可能性がありました。
色平 どうしてならなかったんですか。
浅野 父親が内科医でしたが、かなり早くから自分は医者にはならないと決めた。
親への反発もあったでしょうが、高校生ぐらいの時には生意気にも
「医者は一人や二人の命を救うけど、おれは何万人の命を救いたい」てなことを言っていたらしい。
色平さんが医者になろうと思ったきっかけは?
色平 最初は、医者にだけはなるまいと思っていました。
浅野 親御さんとか周りとか、医者の家系なんですか。
色平 いえ、新潟の百姓の一族です。
お医者どころか僕以外は大卒もいない家でしたので、
大学がどんなところかということが、まずわからないわけです。
体も丈夫だったので、病院がどんなところか行ったこともない(笑)。
浅野 大学も、最初は医学部じゃなかったんですね。
色平 東大の理科T類です。
そのまま行くと化学の研究者になるはずでした。
自分のオタク的な感覚は案外それに向いているとは思ったんですが、
しかし自分にとって最も不得意な「コミュニケーション」の世界に関心がありました。
結局、何をしたらいいかわからなくなっちゃって、大学を中退し、家出してしまいます。
そのままキャバレーのボーイをやったりピアノを弾いたりして二〇代の前半を過ごしました。
浅野 ずいぶんズレたね! メインロードから(笑)。
色平 かなりずれました(笑)。
親も心配しちゃって。
それで真っ当な道に入ろうと、医大に入学したんです。
医学部はどんなところだかわからないし、いままで反発を持っていたけれども、
お医者さんになれば自分が細々と食っていくことぐらいはできるんじゃないかと。
浅野 化学者になるのは自分にとってあまり意味がないと思った一方で、医者ならやってもいいと思ったの?
色平 家出してキャバレーのボーイをやっていた頃に、僕は海外へ行きます。
キャバレーのおやじが在日朝鮮人で訳ありの人だったりして、日本ではないアジアというのを知りたくなったんですね。
フィリピンや中国、タイなどいろいろなところに行きました。
その時、いろんな現実を見て、お医者さんというのは手応えのある仕事だろうと思ったんです。
本当はフィリピンの医学部に行けばよかったんだと思う。
でも、その時はまだそういう道が見えていなくて、日本の医学部に一たん入っちゃったんですね。
医学部に入って、時間があるので再びアジアを回っているうちに、途上国の島とか山とか
「医者がいないところ」で医療的なことにどう取り組むかという実にエキサイティングな経験をしました。
こういう取り組みをプライマリー・ヘルス・ケアというんです。
当時よくわかっていませんでしたが、日本の中でも手ごたえのある仕事に取り組めない
ものかなと考えはじめた時に出会ったのが、佐久総合病院でした。
先日、亡くなりましたが、この病院を開設した若月俊一という人間の生き方が、僕の憧れそのものでした。
それまで医者のいなかった村で病気と闘うというコンセプト。
五〇歳も先輩のこの人の生き方を、そばにいて感じることができたらそれで幸せだと思った。
浅野 医者のなり方としては珍しいんだけど、その一方で非常に真っ当に見えたりもする。
フィリピン体験というのは一つの運命だったわけだ。
結局、それはキャバレーで働いた経験から始まっているよね。
色平 その通りです。
まあ親不幸者です……(笑)。
浅野 医学部を卒業してすぐ佐久病院の門を叩いたの?
色平 ええ。
大学の先輩の医者で清水という人がいまして、佐久病院の創立者である若月の直弟子なんです。
清水ドクターは後に佐久病院の院長になる人ですが、その時、彼に言われたのは、
「君はどう思っているかわからないが、大学の医者の世界は君のような人間が務まる世界ではない。
佐久へ来い。」ということでした。
清水も京大の医学部卒ですが、京大だったら普通、全員が京大の医局へ入るわけですよ。
それが常識です。
入らなかったのは、その時は僕ともう一人しかいなかった。
清水が言うには、医局というのは徒弟制で面白くないところだ、と。
浅野 佐久病院に入ってハッピーだったでしょう。
色平 いえ、アンハッピーでした。
大きい組織には向かないようです。
浅野 佐久病院は総合病院で、大病院なんですね。
色平 はい。
医者が二〇〇人もいますし、一〇〇〇ベッドもある日本最大級の病院です。
そこで僕は変な研修医になってしまいます。
HIV感染のタイの人たちをサポートして、のちにタイ政府に表彰されちゃうんですが、
研修医のくせに何をやっているのかと佐久病院のいろいろな先生方に叩かれるわけです。
清水も心配して、とりあえず埼玉にある別の病院を紹介してくれました。
そこで数年間、修業します。

★野生の老人たちの村から見えてくること

浅野 その病院からまた戻ってきたわけですか。
色平 一〇年前の春に戻って隣村の診療所に二年勤務したあと、南相木村に移って八年半経ったところです。
浅野 そこは佐久病院ではないの?
色平 村の持っている診療所です。
佐久病院は農協の病院ですから、農業協同組合の専従職員である僕が、いまは村立の診療所に派遣されているわけです。
浅野 なるほど。
ベッド数は?
色平 ベッドはないです。
一三〇〇人の村ですから、外来の患者さんもそんなに多くはないですね。
浅野 ドクターは何人ですか?
色平 僕一人。
だから僕が今日みたいによそへ来ている時は無医村になってしまいます。
早く帰らないと(笑)。
浅野 テリトリーは内科全般?
色平 内科と小児科とご老人のお看取り。
あとは整形外科もやりますけど、骨折していたら、僕はやらない。
診療分野は佐久病院と分け持っています。
その人のためを考えて佐久病院で診てもらったほうがいい場合は、佐久病院で診てもらいます。
いまは交通の便がいいですし、島ではなくて山ですので、二三キロ、車で走れば佐久病院の一〇〇〇ベッドがある。
そこまで連れて行って「じゃ、おばあちゃん、またね」とタクシー役も担っているわけです。
車のないおじいさん、おばあさんも多いですから。
浅野 えっ、運転手の役目もするわけ?(笑)
色平 もちろん。
したくてやっているわけじゃないけど。
浅野 そういう時は診療になるんですか。
色平 なりません。
みんなボランティアです。
暇に飽かせて、二四時間そういうことをやっているわけです。
浅野 診療しながら見えてくる村の現状があるでしょう。
色平 村の現状は、六五歳以上の高齢化率が四〇%ですから、
いま二〇%を越えた日本の半世紀先の姿ですね。
村社会の中に、日本の近未来の姿を垣間見ることができます。
とはいえ、この南相木村の人たちは「野生の老人たち」です。
江戸時代の立ち居振る舞いを残している人たち。
なにせ江戸時代からいまだに一回も合併していない村ですから。
だから一般的に日本の近未来の老人医療、高齢化社会と一口に言っても、それはちょっと予測がつかないんです。
浅野 そういうところで、やりにくさを感じませんか。
色平 フィリピンの山に行ったのと同じ、あるいは僕がフィリピン人だと言ってもいいかもしれない。
僕が外国人で、僕たちの家族だけ、よそ者ですね。
彼らは身内なんです。
母方まで含めて、すべてがつながった血縁社会です。
大切なのは彼らのプライドとこだわりを聞き取るということです。
そのプライドというのは、お金とか、お上に向いたものじゃない場合がある。
「おたがいさま」とか「おかげさまで」とか「もったいない」という言葉で言われるような価値観が、
スローガンとしてではなく本当に息づいているわけです。
そんなことを発信すると、学生たちも面白がって来ちゃう。
日本の医学生たちが、年間で百何十人も僕のところに来て、村のおじいさんとか
おばあさんのところで畑をやったり、藁細工をやったり、織物をやったりして帰る。
その時に、学生と老人の間で「日本の医療に、おらっちとしてはこういうふうに期待したいもんだ」とか
「こういうのは困るんだ」というような肉声でのコミュニケーションができるようになると、
僕が高校生の時にも医学生の時にも果たせなかった、庶民のニーズをあらかじめつかまえていく
医療というものを、フィリピンまで行かなくてもできるように思います。

★地域医療とプライマリー・ヘルス・ケア

浅野 僕は社会保障審議会の医療保険部会の委員だったのですが、
医療費の節減の話で必ず出されるのが長野県の例なんです。
南相木村だけではなくて、長野県全体として平均診療日数がとても短いとか、医療費が低いとか。
長野県のようにやれば、日本の医療費は必ず下がるはずだというわけです。
色平 信州の特徴は、医者もベッド数も多くないということです。
そして、医療費を下げよう、とかいうのでは全くなく、気遣いと見守りで
時には最期のお看取りまでやってしまうという意識が、結果として低医療費につながったようです。
このようなコモンセンスは、六〇年経て出来上がった風土だと僕は思います。
浅野 佐久病院が長野県の病院の全部じゃないということですが、長野県内にもアンチ佐久病院はありますか。
色平 あります。
その強い勢力に対抗して、いかに地域に入り、医者が少ないところで
お金をかけずに地域の人たちの意識を向上させていくか。
これはプライマリー・ヘルス・ケア的ですね。
途上国の方法を、戦後すぐからやっていた。
浅野 アンチ佐久でありながら、同じ地域医療の徹底という部分で覇権を争っているという意味ですか。
色平 そうです。
向いている方向は全く同じ。
浅野 だったら素晴らしいじゃないですか。
そういうのをアンチとは言わないでしょう。
アンチというのは、たぶん路線の違いを言うので、佐久病院が地域医療でやっているのだったら、
うちは入院させてしっかり治すというのがアンチの考え方です。
むしろ、よきライバルと言ったほうがいい。
色平 ところで、若月は戦後まもなく、こんなことを言っています。
「農村医学が農民の健康向上に役立つためには、わが国においては農協の組織を通して具体化されることが最もよい」。
これは、市町村自治体と結び付くことこそ本筋だと主張するグループは違う、と言っているわけですね。
浅野 僕も二年間だけですが、厚生省の課長時代に生活協同組合の担当になったことがあります。
それでわかるんですが、農協でも漁協でも生協でも
「一人は万人のために、万人は一人のために」というのが協同組合の思想ですよね。
若月氏もそれを言っているんじゃないか。
農協の構成員がつくった病院だという意味では、医療の供給者とその需要者は全く同じ人たちだという考えでしょう。
雇い主は誰かといったら、農民がつくっている協同組合です。
自治体はそうじゃなくて、お上が雇い主ですよ。
色平 若月は昭和二〇年代前半は「農民のために」と言っていたのを、
昭和二〇年代後半から「農民とともに」とスローガンを変えました。
しかも若月のすごいところは、一九七〇年代後半にWHOがプライマリー・ヘルス・ケアというのを
提示してくる三〇年も昔から、同じことを言っていたことです。
「予防は治療に勝る」というのは若月の言葉ですが、「与えられる健康から獲得する健康へ」とも言っています。

★医局制度が壊れればいいというものではない

浅野 佐久、南相木村も含めて、長野県は非常に高い医療水準ということですが、
色平さんからみて、いま行われている日本の医療改革はいかがですか。
色平 診療報酬の点数がいろいろ変わりましたが、
いままで佐久病院で無償でやっていたことが有償化するような方向に診療点数がついている部分があるんです。
たとえば僕が患者さんを車で送り迎えしたり、保健婦さんと協力しながら
二四時間の見守りをやるというのは、当たり前のようにやってきたことです。
それが、看取りをやった場合に診療報酬がポンと一〇万円つくという形に今回なりました。
長野県では当たり前になっているそうした風土は、もともと政策的誘導によって形成されたものではないですから、
広げられるかどうかは難しいのかもしれません。
在宅でちゃんと看るのがよろしいという方向に診療報酬をつけたということは、
病院からは出てもらう方向に舵をきったこと、つまり療養型病床を三八万床から一五万床に減らすという
六年間かけての計画と表裏一体になっているわけです。
でも、本当に実現できるかというと、「介護難民」が発生したりしてかなり大変だと思うんです。
浅野 ただ、やはり佐久病院は特殊ではないでしょうか。
色平さんたちが対価を求めずにまさにボランティアとして犠牲を払いながらやっていることについて、
日本中の医療従事者に同じようなパフォーマンスを期待することができるかどうかは疑問です。
医療従事者の意識や姿勢の問題として。
色平 それは医局に入っているか入っていないかの違いに尽きると思います。
佐久病院では医局に属していないのが原則ですから。
一方、僕たちの外の日本の医療界、つまり諏訪地方の一部と佐久を除いた外の世界は、
全部系列だった医局の中の世界です。
医局というのはいま急激に滅びつつありますが、強い人事権を持った教授のもとに凝集結束している、
一種のマフィア組織ですね。
その何とか一家が、おまえは島に行けとか山に行けとか言って実際に行かせる人事権を持っていた。
これがバラけたがゆえに、いま大変な事になってしまった。
佐久病院の持っているパワーというのはある種固有の文化で、容易に普遍化しきれませんが、
従来の多数派が保持してきた医局文化のほうが壊れ始めて、我々としては呆然としているわけです。
浅野 アンチテーゼとしてあったものが崩れていく。
色平 医者の九割方を押さえてきた医局という「白い巨塔」の結束力が、よきにつけ悪しきにつけなくなって、
個人個人の原子化された若い医者たちが、自分の腕と才覚でもって自由市場の中で
生きていかざるを得ないように、この数年で変わってしまった。
そうすると、ブランドのある病院や、短期間で効率のいい研修ができる研修病院に行ったりするようになるわけです。
佐久病院でさえ、そういうブランドの一つになってしまうくらい、若い人たちの意識が急激に医局離れを起こしている。
佐久病院に期待を寄せられても困るんです。
佐久病院は民間病院だから、赤字部門である研修医一年目、二年目なんて各一五人ずつ採用するので精いっぱいです。
これを五〇人でも八〇人でも採ってきたのが大学ですよ。
そこで診療と教育を効率的にちゃんとできるようにやっておいてくれたらよかったんだけれども。
浅野 医局制度の害悪が声高に言われているし、もちろん害悪はあるんだけれども、
だからといってそれが崩壊して、医者が原子化しちゃうのはもっと悪いかもしれない、と。
色平 最悪ですよ。
お先真っ暗です。
浅野 本来、医局の人事権だってそれ自体が悪いものじゃないわけですよね。
そういうものがきちんと使えるような医局になれば、それでいいわけでしょう。
言ってみれば佐久病院だって、大きな医局みたいなものじゃないですか。

★被保険者が主体の協同組合立の医療機関を

浅野 佐久病院は農協が主体の病院で、色平さんも農協の職員です。
いまはたまたま村にいるけれど、根っこは農協ですよね。
それが地域医療という面で、非常にいいパフォーマンスをしています。
まさに「予防に勝る治療なし」というような、地域全体として、病院にかからずに自宅で死ぬという医療。
その場合、個々の医師のパフォーマンスというのは結果であって、その原因になっている体制みたいなものがあるんですね。
そうすると、日本全体の医療機関を協同組合立にしたほうがいいんじゃないか。
生協でもいいんですが。
色平 わかります。
協同組合、つまりコモンズですね。
僕は経済学者の宇沢弘文先生と時々ビールを飲むんですが、宇沢先生は「社会的共通資本」とおっしゃいます。
最近の著書では「ソーシャル・オーバーヘッド・キャピタル」ではなくて「ソーシャル・コモン・キャピタル」という言葉を据えておられます。
コモンですからみんなのものなんですよ。
しかもちょっと特殊な稀少財で、準公共財としての医療。
そう考えれば、その運営は医者が勝手にやることでもなければ財政当局が勝手にやることでもない。
被保険者が主権者として自分たちで選びとらないといけない。
やはり協同組合がいちばんいいんですよね、非営利の形としても。
そうなってくれたらいいという話で、宇沢先生と盛り上がるんですよ。
でも、そうなると医師会の存在や大学医局の存在をどう考えるか。
現状をどうやってそこへ落とし込んでいくのか、ソフトランディングしていくのかというのは、かなり大変なことです。
人の意識の問題だから、むしろ厚労省より文科省の領域です。
文科省の高等教育局医学教育課なりが舵を切って、二〇年ぐらいかかって
やっとそういう医者たちが出てくるか出てこないか、という問題でしょう。
浅野 なるほど。
大学は黙って優秀な医師だけを輩出しろ、そのあとの人事なんかには手を出すな、という話だ。
色平 たとえばアメリカ医師会と比べると、日本医師会はプロ集団として機能しきれていない。
日本の医師会は戦前は全員加入でしたが、いまは任意加入になっている。
戦前の弁護士会は任意加入だったけれども、いまは全員加入になっているからこそユニオンとして機能している部分があるでしょう。
日本の医師が、プロとしてどうしたいのか、どうできるのかということを、
国民に対し「ぜひ、こうやらせてほしい」と提言し主張する機会がないんです。
そういう意味で医師のプロフェッショナリズムが日本にはない。
残念なことです。
他方で国民の側も、メディカル・リテラシーがないから医者に過剰に期待し過ぎたり、
妙に萎縮してビクビクしたり。
その間を揺れ動いています。
そしてメディアも司法もそれに影響されてしまうわけです。
医療の提供側が主導でつくりあげていた第一期が終わったと思ったら、
財務主導の第二期として、いまは医療費を絞り込めという方向になっています。
今後、第三期が来るかどうか。
第三期は被保険者が自分で払った保険料を使ってどのように運営すべきかという課題です。
分権化されたところで、自分たちの医療や保健や福祉を自分たちでつくっていくというモデルにソフトランディングできるかどうか。
難問ではありますが、皆さん自身の課題ですよ。

★医療の質を誰がどのように確保するか

浅野 医療過誤がいま問題になっていますが、日本の場合は医師免許を一回もらったら更新はないですね。
よっぽど変なことをして医療審議会で剥奪されない限り、腕が悪くても死ぬまでずっとやります。
運転免許さえ更新するのに、他人の命を預かる仕事に免許の更新もない。
あるいは不必要な手術が行われる事件も起こります。
医師の質を誰が保証し、どう守っていくかという問題ですが、日本はちょっとお寒い事情です。
たとえばアメリカなどでは国家が医師免許を出しているのではなくて、むしろ内科医学会とか
産婦人科学会など学会のレベルで相互管理しているわけですね。
それが本来あるべき姿ではないのか。
色平 一〇〇学会ほどを束ねたものが日本医学会で、医師会内にあります。
つまり日本医師会(JMA)こそ日本医療の大きなアンブレラですが、
現状は開業医たちの利益団体になってしまっている。
医師の約七割が勤務医であるというのに、勤務医の医師会加入率は約四割に過ぎません。
浅野 最近、僕はたまたまあるところから原稿を頼まれて、医師不足問題について書いたんですが、
いま絶対的な医師不足というより、地域によっての医師不足ですね。
都会ではある意味では余っている。
それから科目による医師不足。
産婦人科が少ないとか、小児科が足らないとか、麻酔科がいなくて手術ができないという問題。
前者の地域的な医師不足という時に、特に過疎地に行く医者が非常に少ない。
色平さんはいま、佐久病院に根っこを置いて、そこから色平さんのほかに医者がいない
村立診療所に派遣されているわけですが、もしそれが佐久病院から切られたとしたら躊躇がありますか。
色平 佐久病院が医局だとするなら、医局から派遣されて一〇年経っちゃったわけですね。
やはり佐久病院がバックにあることでとても助かっています。
患者にとっても利便性があるんです。
佐久病院にはかなりレベルの高い外科医たちがいますから、その人たちとマン・ツー・マンで相談できる。
そういう人間関係に基づいた安心のネットワークの一部を担うということでは、僕以上に村人が努力している。
保健婦も努力しているし農協も頑張っている。
そういう自前の努力の中に医者がいて、僕は末端の医者として、
一次医療から二次医療や三次医療につなぐことが自由自在にできます。
浅野 つながるべき二次医療、三次医療の中核病院というのは、やはり必要なわけですね。
色平 だから僕はとても恵まれています。
都会は最悪ですよ。
都会の夜間なんか、何がどうなっているかわかりません。
我々医者だって、自分が都会で交通事故にあい、意識を失ったらどうなるか、すごく不安ですね。

★広い意味での診療行為とは?

浅野 過疎地で医師をやることの醍醐味、やり甲斐とは何ですか。
日々の経験から、過疎地での医師不足という現状に対して、色平さんは
「医者は過疎地に、もっと手を挙げてでも行くべきじゃないか」と言いたくなりませんか。
色平 僕らは一応プロとしての医者だから、目の前で診断がつかないと悩むんです。
僕は村ではヘボ医者、ヤブ医者たらざるを得ません。
だって、自分の手と五感しか頼るものがないでしょう。
ふだん接している村人ですから、この人はこういう人で、一〇のことを一〇〇言ってしまう人なのか、
一〇のことを一しか言わない人なのかを判断して対応するしかない。
技術的にはわからないことが多いんです。
不安ですから、夜間も休日も、電話をかけてみる。
ところが、おばあちゃんの耳が遠いからわからない。
じゃあ家に行っちゃおう、と。
さて、おばあちゃんの状態がよくないとします。
どうするか。
僕の診療所に入院施設がないからといって一泊放置するわけにはいきません、
経過観察ができないですから。
おばあちゃんの一族はみんな都会に出ている。
「よし、じゃ、おれが連れて行ってやる」ということで、僕の車で佐久病院に送って行き、
後輩に「頼む。一泊させてくれ。ちょっと経過を見といてくれ」と。
そして確率一〇%で緊急オペになるけれども、確率九〇%で翌日帰れるという、そういうむずかしい選択があるわけですよ。
浅野 いま色平さんが言ったこと自体がプライマリー・ヘルス・ケアということですね。
色平 そうなんです。
浅野 それはヤブでも何でもないと思う。
まさに患者さんの顔色を見て、その人が一のことを一〇言う人なのか、
一〇のことを一しか言わない人なのかということを含めたトータルな、広い意味での診断をするわけですから。
色平 なかなか診断がつかないことを白状しているんです(笑)。
佐久病院に行けば、ほとんど診断がつきます。
夜中でもお腹や頭を開けられる病院ですから。
僕はできないことはやっぱりできない。
主権者たる国民の公僕たる公務員と同じように、僕は主権者たる農協組合員の雇われ人ですから、
しくじらないように常にビクビク細心の注意をしています。
浅野 それがプライマリー・ヘルス・ケアですよ。
今日は診療後にわざわざおいでいただき、ありがとうございました。

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