恩返し 「基金」で進級 故郷へ

朝日新聞・大阪本社版 2004年4月17日

「マブハイ」の国から 〜秒読み 介護福祉士・看護師受け入れ〜 連載第五回 

建ってから50年以上という約100床の病棟はところどころ屋根裏がむき出しだ。
板1枚で仕切られた部屋を回りながら、看護師のチョナ・バリチュア(24)が患者一人ひとりに
「気分はどうですか」と声をかけた。
「小さいころからやさしい子だった。島に残ってくれて本当にうれしい」。
チョナの近所で在宅治療を受ける77歳の老女も、不自由な手をさすりながら彼女に感謝する。

透き通った海に囲まれたクリオン島は60年代なかばまで、ハンセン病患者の隔離場所だった。
フィリピン各地から一時は最大6千人余りの患者が収容されていたが、隔離政策が廃止された今は、
完治した元患者数百人とその子孫約1万8千人が住む。
チョナも母方の祖父がハンセン病で島外からやって来た。

これといった産業もない島の暮らしは貧しい。
電気がつくのは正午から午前0時まで。
チョナの家も看護師のアシスタントをする父の稼ぎでは食べていくのが精いっぱい。
「看護師になれたのは、イハさんのおかげです」


長野県上田市の作家、伊波敏男(63)が左足にマヒを覚えたのは、沖縄にいた小学6年の時だった。
だが、医者も何の病気か分からない。
体のあちこちで神経が痛み、力が出なくなっていく。
ハンセン病と診断されるまで2年半かかった。

「特効薬はすでにあったんです。
すぐに病名が分かっていたら、手足が不自由になることもなかった」

25歳で思い切って療養所を飛び出し、福祉工場で働いて自立する。
52歳で退職後、自らの半生を「花に逢(あ)はん」という本にまとめた。

日本政府は01年、隔離政策の過ちを認め、元患者らに賠償金が支払われた。
伊波が「何かの役に立てたい」と知り合いの医者に相談すると、こう言われた。

「高い賃金を求めて医者や看護師が海外に流出するフィリピンには、満足に医療を受けられない人がたくさんいます」

昔の沖縄とそっくりだと思った伊波は、700万円をぽんと差し出した。


マニラで小さな銀行を経営するフィリップ・カマラ(51)は以前から貧困に苦しむ地域のため、資金援助をしてきた。
そこに日本から伊波の善意の話が舞い込んだ。

「ふるさとにとどまって地域のために働く医者や看護師を育てよう」。
自らの銀行で通常より2%ほど高い10〜12%の利回りで運用することを決めた。
これなら100万円(約4万3千ペソ)あれば利子だけで学生1人1年分の学費や生活費がまかなえ、
元金は半永久的に残る。こうして「伊波基金」が誕生した。

優秀な成績で高校を卒業したチョナは、父の借金と地元自治体の奨学金で99年、
レイテ島のフィリピン国立大学医学部レイテ分校に進学した。
同校は学ぶ期間に応じて順に保健師、助産師、看護師、医師の資格を得られるステップアップ方式を採っている。
家計の事情で短期間しか学べなくても何らかの資格が得られるように、との配慮だ。

02年、チョナは助産師の国家試験に合格。
だがこれ以上、父に借金を負わせるわけにいかない。
進学を断念しかかった時、大学から伊波基金の話を聞かされた。
後日、カマラにたずねた。
「なぜ私が選ばれたの?」
「成績がよく地域で働く意欲もあるから」。
涙があふれそうになった。

04年春に卒業したチョナはクリオン島に戻り、島にある唯一の病院で働く。
島外から来てくれる医師や看護師はほとんどいない。
逆にチョナが島外、海外に働きに出れば、父の借金はたちまち返済できるだろう。

「でも、島に育ててもらった私はここで恩返ししたいのです」

伊波は今、体調を崩して入退院を繰り返している。
元気になったらチョナに会いに行こうと思っている。


伊波をはじめ、日本人による「基金」はこれまで三つ作られ、その利子で17人がレイテ分校に進学した。
基金の問い合わせは、アイ・シー・ネット(048−840−1703、メールPhilippines.enquiry@icnet.co.jp)へ。

(敬称略) =おわり

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