「ばんぶう」11月号掲載

もしも、医師であるキミが病気で余命いくばくもないのだとしたら、どこでどのように天寿をまっとうしたいと考えるだろうか。

自分が勤めている病院で同僚に看取られたいだろうか? 
愛する家族がいる自宅で最期を迎えたいか? 
あるいは……別の選択……?
じつのところ、その時になってみなければ誰にも分からない。
「リビング・ウィル」を表明した人も、最終末の選択は宣言書どおりには運びにくい。
不確定要素、偶発する選択肢がきわめて多いからだ。

この極めてデリケートな「人間の死に場所」を、
「医療費の削減」のために医療機関から自宅や介護施設へとシフトしようとする動きが加速している。
厚労省は、来年の診療報酬改定で、終末期の患者が「安心して退院」できるようにするために、
入院先の医療担当者と地域の医療・介護スタッフで「診療計画(連携パス)」を作って対応することを
優遇する「地域連携パス加算」を打ち出すそうだ。

終末期ケアのあり方自体は、医療対応、患者・家族の意向、福祉のありよう、クオリティ・オブ・ライフ、
そして周囲状況などから、もっともっと社会全体で議論されるべき余地が多い。
しかし、こんなふうに「早期に、自宅や施設に戻す」なる”安上がりの看取り”が今もっとも重要な国民的ニーズだというのだろうか。

民主主義の大原則は「Nothing About Us Without Us.(私たちのいないところで、私たちのことを勝手に決めないで)」だろう。
「死に場所を勝手に決めるな!」と患者さんたちが反旗を翻したら厚労省はどう対応するのか。

戦後60年、民主主義を多数決だと思い込ませる教化教育がはびこり、
「数は力」との傾向がますます強まっている。
単純多数決、それだけではファシズムの前兆となりかねない。
少数者への振る舞いで、その社会の厚み=成熟度がわかる。
少数意見には「信仰」や「信条」など、それぞれの「内面」から発するものがある。
また、民族や出自など、たまたまそこに生まれ合わせたことで少数となるケースもあろう。
もしも、自分が相手の立場だったらどうか。
この問いかけこそ、医師医療者にとって最も大事な倫理的支柱ではないか。

(「先輩医師からの闘魂エール」No1)

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