”野生の老人たち”の戦後史 

05年「世界」10月号掲載分の原稿

〜地域医療の現場から〜 色平哲郎

―― 色平さんは1960年のお生まれですから、「戦後15年」に生まれたわけですね。
戦時中のことはもちろん、敗戦直後の焼け野原を知らない世代。
日本社会を根底から変えたといわれる高度経済成長以後のことしか直接は見聞きしておられない。
いま、私たちが抱えている多くの問題は、高度成長以後の社会現象だと考えますが、
そういう前提で、「戦後60年」をどう見ておられるか、伺いたいと思います。
色平さんはつい最近、加藤周一さんをここ信州にお招きして講演会を催されましたが、
そのとき、現代日本は病んでいるというお話しになったとか……。


〜日本的コンフォーミズム〜

色平 ええ、医師である加藤さんが、「表明した翌日には、失言だった、と閣僚が陳謝する。
そんな”謝罪+居直りシリーズ”が繰り返されるのは病気だよ」とおっしゃったんです。

また、地球規模で広がる一方の南北格差と、”餓死する自由”しかない徹底的貧困、またそれを促す構造的暴力についても、
「いった誰がどうやって治療できるというんだろうね、軍隊には無理だし、専門家にできるとも思えない」と指摘されました。
そのとき私は、”専門家”の自信過剰ぶりについて、「医師の専門家エゴは有名である。
しかもこれを反省している医師は非常に少ない」との武谷三男の指摘を思い出しました。
そして医療の罪深さへの自責の気持をこめてこうお答えいたしました。
「”むさぼる自由”の蔓延によって自由が混乱の代名詞となり、互いに不寛容な宗教原理主義が激突する21世紀……」と。
こうお返しした議論は、その後こんな風に進みましたよ。
「……専門家と呼ばれる人ほど、ディスカッションを支配し、講義をしてしまう、正論を押しつけてしまう……
こういう決めつけは、病気だよ……
評価の手法を変えれば学習スタイルも変わるという、そんな成人の学習過程について理解がまったくない……
庶民の英知を信じて、グループダイナミクスを討議民主主義の合意形成に生かす回路がまったく準備できていない……」

加藤ドクターをお送りした帰り道、運転中に自問自答しました。
最大の困難は、この社会に、もしかしたら私たち、どこか病気なの?……という懸念というか、
病識がなさすぎることではないのか、と。
視野狭窄なのか、他者感覚のなさなのか、あるいは単に怖がりということか、みんなで渡れば怖くない、というある種の諦念なのか。
病気の原因がわかれば、直ったも同然なのだ、という古いギリシャの医諺のようにうまく展開していかない現状で、
社会矛盾に対して、結局皆がとりつくろって発言し、当事者性は欠如して全員が評論家になってしまう。
「地球のお医者さん」とは、もちろん医師ではなくて国際経済学者なのでしょうが、現状の診断と治療……ひどいヤブだよね。
いったいどこの医学校を出て、どこの病院で初期研修を受けたんでしょうかね?

飲み会での加藤さんとの話題は、日本に於けるコンフォーミズムに及びました。
17世紀の英国で、国教徒と新教徒と旧教徒が三つ巴の内戦になり、それを治めるために、
のちに近代立憲主義と呼ばれる、権力機構を憲法で縛り、しかも価値中立的な、知恵ある力の運用形態が生まれました。
その強大なパワーをもってその構成員に「国家からの自由」を保障する立憲国家が成立し、公共空間では政教分離がはじまりつつあったのです。
こういった古典的でしかも重大な統治原則に、必ずしもこれまで気づかずにこれた……そんな日本の近代とはいったい何だったのか、
こんな話題になったときの、加藤ドクターの判定がコンフォーミズムでした。
コンフォーミズム(大勢順応主義)とは、ある定義によると、
「問題を解決する任にある責任者が、あえて問題を放置することにメリットを見出し、一方、周囲の者はそれを見過ごすことでおこぼれにあずかる」
そんな、なれあい、もたれあい体制のことです。
日本人は問題が生じても、あえて異議申し立てをしたがらないでしょう。
共同体からの同調圧力が高くて……と言い訳しつつ、だって、ほんとは言うと丸損なんだもん、と付和雷同するばかり。
だから内ゲバにならずにいる、というその一点だけはすばらしいのですが、あえてことあげせずにいることに皆が利益を見出してしまっている。
こういったなれあい、もたれあいの関係がいつまでも放置されてしまうと、病気がどんどん重たくなって、手遅れになってしまう……。
見ザル、言わザル、聞かザルの江戸三猿主義に加えて、キレイ、カンタン、キモチイイの現代三拍子がそろえば、
診断は思考停止症候群、主症状は(和而不同を逆にした)同而不和、中年男性の「肩書き社会」に多発する死に至る病いです。
だって、この場合正解は国策そのものであって、すでに決定されしかも唯一だというのですから、
ディスカッションは不要、判断も不要、迷う必要もなく、実にスピーディーな合意形成が大変にすばらしい。
 
弱さとは、人類がただ一つ獲得した最も重要な心理的な感覚であろうと私は感じます。
ですから、相手も弱いし自分も弱いのだから相手を責めずにおく、ということならまだ許せる感覚なのですが、
決して弱い存在ではないお上(かみ)に対し、迎合しすりよるために、あえて指摘せずに済ます、
といった心理は、卑劣病として診断可能でしょう。
人権とは、実のところ権利というより、むしろ他者、特にその社会の最弱者や少数者の権利を守る「義務」のことなのですよね。
あえて大切な市民的義務を公然と放擲してみせることで、権勢の歓心を買おうという魂胆はすりすり症候群でしょう。

人間は、自分が病気かもしれないと感じるからお医者さんのところに行くわけでしょう。
誰も医者なんかとつきあいたくはない。
でも子どもたちでも虫歯が痛ければ、もっと痛くされる、と知りながら、泣きながらでも歯医者さんへ行きますよ。
ところが、どうも日本社会はそうなっていない。
とってもぐあいが悪いんだけど……みんなで見て見ぬフリして、なかったことにしてしまう、病気は最初から存在しなかったことになる。
言った奴が悪い、指摘してみせた奴が悪い、病んだ人の痛みを親身になって聴き取った、そいつが悪い。
長いものには進んで巻かれろ、郷に入りてはもちろんよ、旅の恥はかきすて、ウチとソト、ホンネとタテマエを使い分けろ。
つまり物言えばオドオドビクビク唇寒しだから、先送りしちゃえ、そうだあいつはヨソモノ、みんなでシカトしよう、
忘れよう、なかったことにしちゃえ……こんな「ナカマ以外はみな風景」といった感覚では、しょぼくれた自分、とるにたらない自分、
といって卑下してみせる恐縮症状の反動なのか、「根拠のない自信」ばかりが肥大化し悪性腫瘍化する。

実はこの議論は、なぜ日本は幕末、あんなに焦って開国し、軍事化して、
しかもそののちそれをなぜあれほどまでに正当化しようとしたのか、という私の質問から始まったのです。
加藤さんにご質問し、「海外でいろいろな文献を見ておいでになると思いますが、諸外国が日本列島を本気で
植民地化しようとしたという明らかな証拠はあったのでしょうか」とお聞きしたら、しばらく考えておられて、
回想録でも何でもそんなものは見たことがない、とおっしゃる。

明治維新のあと、日本が大日本主義をとって外へ出ていったとき、
最初は英国などに背中を押してもらったのでしょうが、のちに、英米と袂を分かって
自らの行動を正当化する必要が出てきた。
帝国主義にも相手の国に開国・通商を迫る“軽い”帝国主義と、
直接軍隊を送り込んで占拠する“重い”帝国主義の二つがあって、
日本の場合、植民地化した朝鮮民族の言葉や名前まで変えさせたり、民族性を抹殺するような、
世界史的にもありえないほど重い帝国主義をやった。
こうした行動を正当化するには、自身も西洋列強から重いノリでやられそうになったからだ、
と、少なくとも内部に対しては被害者意識に訴える以外なかったのではないか。

近代の日本は、江戸時代までの日本社会とは大きく変わりました。
でもそれだけ大きく変貌したのだとしたら、ヨーロッパの宗教改革の時代のように、
内面にさまざまな矛盾葛藤が生まれ、また内戦が起こったり、
亡命者が出たりしてもよさそうなものですが、日本社会はほとんどそういう経験はしていない。
どうやって内部的に処理し得たのか。
そこに、日本的コンフォーミズムとの指摘が出てくるのです。

英国でいえば、国教会ができたぞ、さあ、ピューリタンもカソリックもみんなで仲良く国教会に入ろう、というようなものでしょう。
こんなこと、英語や仏語に訳せませんよね、読んだら絶句しあきれられて、見放されてしまうでしょう。
本物の信仰や内面のゆずれない真実があれば、できるはずのないことです。
どこか見て見ぬフリをするとか、なかったことにしてしまうとか、もともとの信仰が流行りものだったのなら別でしょうが……。



〜すばらしき「原日本人」たち〜

―― 第二次世界大戦が終わったとき、もし、ほんとうに日本人が自存自衛の
大東亜解放の戦争を信じていたとすれば、ゲリラ戦が起こるとか、
いまのイラクのような米国への抵抗運動が、もう少しあってもおかしくなかった。
ところが、ガラッと変わる。
いくら天皇が戦争をやめろといったとしても、あれだけの大戦争をして、殺し殺され、
巨大な犠牲を出したのにクルッと変る。
実は、本当は誰も聖戦の理屈を信じてなかったということです。
信じたフリだけしていた。
以前加藤周一さんに伺ったら、それはやはり戦争の大義を「軽く」信じていたということだ、といわれました。

色平 シリアスには渡辺清さんになるわけでしょう。
敗戦直後の彼の日記に、こうあります。

「昭和二十年一一月二二日、天皇がきのう靖国神社に参拝したという。
戦死者を合祀する臨時招魂祭が行われた。
天皇はいったいどんな気持で靖国の社殿に立ったのか。
合祀された戦死者たちはいずれも天皇の命令で開始された戦争で、天皇のために戦って死んでいった者だ」
「この世に霊魂や魂魄などというものが存在するのだろうか。
俺にはそんなことは信じられない。
それは坊主のたわごとじゃないか。
その証拠に、もし、戦死者の霊魂がほんとうに存在しているとすれば、
天皇はその霊魂に呪い殺されて生きていることができなくなると俺は思う」とあります。

ここでは渡辺さん、一種、脱カルト状態なわけです。
破壊的カルトで洗脳して若者たちを戦場に送り込んだのは日本帝国です。
一部インテリたちは抵抗してみせたり、転向したり、あと知恵で「実はわかっていたのだ」とかいう。
しかし、少年少女たちはちがったんですね。
信じ込んでいた。
信じ込まされていて、類的な安心感の中にあった。
いまの少年少女が、学校で友だちができるかどうかに恐れおののき、一喜一憂するのとちょっと似ているのかも。

現にこの村に暮らすおじいさん、おばあさんたち、当時小国民であった庶民たちは、一度も脱洗脳されていないんです。
彼らにとっての憲法というのは明治憲法のことだし、倫理は教育勅語です。
戦後、内面にまで立ち入っては、一度も公式の表明を受けとっておいでにならないでしょう。
村のおばあちゃんのご自宅に医学生らを引率してよく遊びに行きますが、彼女のフィアンセは戦死しました。
村のエースは志願し、特攻出撃して戦死した。
この村はなけなしの人材を失っているわけでしょう。
彼女は結婚し、戦後ずっと旦那さんと連れ添って、私の患者さんだったその彼を看取り、今に至ります。

ロシア人と話すと、関東大震災の大正12年生まれ、1923年生まれのロシア男性は5人に4人が戦死している。
日本列島では沖縄以外では地上戦をやっていないから、出征して外地で死んだ世代はもう少し上で、
大正の半ばの生まれ、渡辺清と同じ80代の男性はごっそりこの世にいない。
こういったことは、人口移動の少ない村の診療所にいてこそよく見てとれます。
しかしもちろん、もし九十九里と相模湾に1946年3月に米軍が上陸すれば、ロシアと同じ事情になったことでしょうし、
ノルマンディー並みの上陸作戦を迎え撃つ大本営は当地信州松代に疎開する予定でおいでになりました。
村の入口には、母さんが子どもを背負って、出征する夫を見送る「不戦の像」があって、
台座の背に、たくさんの戦没者の名前が刻まれています。
ものすごい数の下士官兵です。
粗食に耐え、実直な農山村出身の日本兵こそ陸軍の宝でありました。
いまだって鉄道や国道もないこの村で、これだけの村人が戦争にいって死んでいる。
リアルなことです。
しかも、村の庶民は、あの一連の戦争とはいったい何の為だったのかについて、
その後、戦後も、たぶん一度も納得のいく説明を受けてはいないのです。

「砕かれた神」の渡辺清は、復員兵といってもインテリだったから、
河上肇博士の著書に接して、これまで誰も教えてくれなかったこと、
小学校8年間通ったときには気づかずに通り過ぎたことを、生き残って21歳で書き記すことができた。
でも、この村の普通の庶民はそういう戦後を辿ることはなかったのです。
そして、このような村の庶民たち、つまり今ご存命になる”野生のご老人方”が持つすばらしさを、
私は日々の診察を通じて、享受し、学ばせていたいただいていているんですよ。
加藤さんから、「私の見ていない日本を、君は見ているんだね」と言われました。

司馬遼太郎は、なぜあれほど受けたのか。
それは戦後を持ち上げたからだ、と思います。
司馬は1923年生まれだから、満洲で死ぬ予定だったのが生き延びて、
恨みをもって昭和の20年間を暗黒に語るため、そのためにこそ、明治を持ち上げ、戦後を持ち上げた。
持ち上げて・落として・持ち上げるというのが司馬史観です。
いまの「つくる会」は全部を持ち上げちゃっているけど(笑)。

司馬が明治を描くとき、少数の英雄たちが坂の上に上っていくような上昇志向で描いた。
それは、実は戦後の上昇気運を引き写しているんでしょうね。
しかし、そんな歴史の見方は、この村ではどうなのかというと、全然まったくそうじゃない。
村にいたら、特に明治大正、全然、上昇しないんですよ。
不況になる度に女工が首をきられて帰ってきて、支えあって、「お互い様」でやっとこさ生きていく……。
村の庶民は「疑う」「ウソをつく」「逃げる」のがうまいですよ。
なにしろ世間を生き抜く庶民ですからね。
お上に対して恐縮してみせながら立ち回る、ずるくたくましい庶民ですよ。
彼らこそ、日本社会の「下士官兵」たちなんでしょう。
あのすばらしい、ずぶとい庶民、ノビノビイキイキニコニコワクワクした庶民とその子どもたちはいったいどこへ行ってしまったんだろう……。
私は山県有朋をいま調べてみたいと思っているのだけれど、
山県は地方行政制度を設計し、コモンズである山林をわがものにしていく。
山県は江戸時代の「お上」の雰囲気に「お金」を加えた。
その雰囲気はいまも残っていると思いますよ。
貧しいけれど、みんなが椅子に座っていた江戸時代の日本が、椅子は少しデラックスになるけれど、
たくさんの人が座れずに立たざるを得なくなったムラ社会に階層分化していくのは、
明治5〜6年の地租改正のとき。
この村では、椅子取りゲーム状のその変化をそれぞれの家の歴史としていまも語れるわけです。

――明治初めのことも家の歴史として記憶しているのだとすると、たとえば戦後、農地改革がありますね。
同じ村でも地主だったら土地をとられたり、小作だったものがそれを獲得したりしたことを、
ついこの間のこととして憶えているような感じですか。

色平 いやもう、それは、しゃべるのも怖いぐらいなものでして。
本当すぎて、恐ろしいことですよ。
このインタビュー、しゃべったのそのまま載っけるんだっけ? 「世界」って雑誌、日本語だよね?
マーノ・ネーラ(黒い手・マフィア)についてイタリア語で喋ったら後シシリーの村で大変だよ。勘弁してよ。(笑)
歴史というのは、この村では単なる年号や英雄の名前ではなく、語ることも恐れられるような、
訂正不能な人びとの怨念がこもった家の歴史なんです。
私のじいさんは秩父事件の参謀長ですと誇りに思っている一家の横に、その暴徒に襲われたと代々伝えている家がある。
村は一筋縄ではいきませんよ。

――都市にいると、そういう事態は想像もできない。
たとえば東京大空襲でも、ある程度知識として知ってはいるだろうけれど、
どんどん新しい人が入ってきて、また出て行く。
怨念を伴った記憶は残らないし伝わらない。

色平 ここはプライドとこだわり、ものがたり(ナラティブ)が100年語り継がれるところです。
私が誤診したら、やっぱり100年言われ続けるのです。
まだ村祭りがない。というのは、氏族同士がぶつかっているから。
心象世界を取材すると、「もののけ姫」の世界でしょうか。
互いの家の間が日韓関係みたいなもの。
こういうところがいわば「原日本」なんでしょうね。
こういう数百年も隣同士引越しできないでいるようなところから、人びとが「頭脳流出」したり、食いつめて都会にいって、
また不況や震災や戦災で焼け野原無一文になって村に戻ってきたり、という往復運動こそ明治以降の村の近代史なんです。
とても上昇史観ではとらえられない。
戦後だって、なんかよくわからないけれど、みんな、都会へいっちゃったということで、一体それが何だったのか、いまだに描けない。
テレビがきてからは、子どもさん方の頭も全部一色たに塗られちゃって、都会の子どもと変わらなくなっちゃった。
90(ナインティ)のおばあさん、ボケちゃって家の間取りがわからない。おもらししちゃう。
彼女、あたまのなかは19(ナインティーン)歳に戻ってしまって、
自分の生家にいるつもりなんだから、嫁ぎ先の家の間取りがわかるわけないですよ。
おばあさんにとって白衣の私は中年の兄さんに見えるわけ。
それで私が兄さんのフリしてしゃべると、この「想い出療法」がよく効いて、すごく和む。
でも、われわれの世代は、もはやそういった癒しの手法は効かないでしょうね。
だってふるさと失っちゃったし、いつも広告やメディアにあたまを洗われていて、帰属する先がなくなっちゃったんだから。

こういう「原日本民族」の人々は、戦後、新憲法とか、教育基本法とかについて、
あるいは、近代立憲主義について考えたり教わる機会などなかったのです。
たとえば、1947年にでた「新しい憲法のはなし」のなかで、文部省は立憲主義についてまったく説明してはいません。
じゃあ人間としてダメなのかというと、どうして、どうして、まったくそうではなくて、
非常にみごとな生き方、自在な生きざまでおいでになる。
列島の「先住民族」として、文化人類学的な記録対象になるような生きざまを貫く「野生のご老人方」です。



〜憲法について〜

―― そういう人びとにとって戦後って何だったんでしょうか。戦争がなかった時代……?。

色平 賃労働と機械化の時代だったんだと思います。
賃労働というのは、働いてお金がもらえるということ。
つまり給料は米ではなくて、という話です。
機械化によって、キツイ仕事をしないですむ。
ここは標高が1000メートルあるので米がとれず、江戸時代には餓死者を出した村です。
馬につけて、山から黒炭を下ろし、里から白米を上げる。
天候が不順になると米価が上がるから、里の米屋はため込んだほうが儲かるわけでしょう。
村が絶えるような飢渇の江戸末期、ある商人が米を送ってくれたことがあったといって、
信州のある村ではその商人の屋号が大明神としていまも神に祀られるぐらい感謝されている。
それほど苦しかった。
苦しかった、しんどかった、やばかった、現金収入がなく、全部自分の身に背負うしかなかった時代が終わって、
賃労働と機械化で便利な世の中になったなぁ、孫たちは幸せに暮らせるなというのが、
いまのじいさんたちの戦後の感想かもしれません。

コンスティテューションについて一言いいたいのは、一七条憲法と日本国憲法は違うのか、
同じなのか、これを聞くと結構考え込む若者が多い。
ここに合宿に訪れる医学生たちが年間150人ほどいますが、彼ら彼女らには必ずディスカッションして聞いてみるんだ。
片や、千数百年前すばらしい聖徳太子の知恵が授けられたもの、貴重な教えを含んだもの。
でも日本国憲法は、価値観を含んでもいるが、主権者が国民であるということから考えれば、君主からもらったものでは決してない。
じゃあ、同じ「憲法」という言葉に訳すのは、本当のところどういうものか、となる。

そしてシロウトである私が憲法論をぶつのは、むしろ正しいことなんだと学生たちには強調します。
だって、憲法と法律はまったく異なるものです。憲法は法律の親玉なんかじゃない。
憲法は、社訓や校則とはまったく異なる。
病院での「憲法」といったら、患者家族が医者たちを縛るために作った規範になるはずです。
もし、法律と道徳の相違点が強制力の有無にあるのだとしたら、
憲法は「公務員にとっては法律」だが、「民間人にとっては道徳」にすぎません。
もちろん、人に強制しておいて、自分たちは軽視するというのもどうかと思いますが。
憲法は国民が国家を縛るもので、法律は、憲法の下に国家や国民の行為規範を具体的に定めたもの。
こと憲法については、私たち国民一人ひとりがどう考えるかが一番大切で、憲法学者が語る解釈はほとんど問題じゃないんだ、
ただ、そう考える習慣がなさすぎることが大問題なんだ、と。

「私の99条」といって、憲法をうしろから読む私の習慣について医学生に話しますよ。
つまり、全文を前文からではなく、事実上の最終である99条から、98条、97条と読み返すことです。
いやーっ、いつもながらほれぼれするいい出来です、いい職人が作ったんだね、これ。
護憲派に違和感をもつのは、どこか憲法って上から与えられたすばらしいものですっていう意識を感じるからです。
護憲という言葉、本来は護憲運動、つまり大正時代に二度あった憲政擁護運動、つまり立憲主義擁護のことで、憲法典擁護じゃないんですよ。
イギリスのジョン王は、その場ではごまかしたが、帰城後、悔しくて泣いたそうですよ、憲法(マグナカルタ)に縛られたから。
ジョン王が、俺さまのご威光を示してやるといって与えたのが憲法じゃないんですから。

ここのところ、憲法(よさそうな別訳は、国制)の議論でもっとも大事な部分だと思う。
ここを敷衍するとどうなるかというと、第30条の「納税の義務」は、あれは権利と読むべきなんですよ。
だって、納税は、公務員の就業規則である憲法でお前たちを見ているぞというための、入場切符と考えるべきです。
だとしたら、国籍と関係ないじゃない。
国籍条項(第10条)を、施行前日の5月2日に勅令で下準備してあと付けするなんて欺瞞ですよ。
勤労だって、27条に「権利義務」とあるけれど、あれだって権利規定ですよ。
勤労が権利だったらワークシェアするしかなくなるから、失業なんかなくなっちゃう。

99条によって憲法は公務員の義務規定、国家の義務規定なのであるから、われわれ国民にとっては権利、
だから第三章に権利規定以外のものがはいる余地はないし、26条27条30条の「義務」はぜんぶ空文です。
だいたい第三章「国民の権利および義務」っていうのは欺瞞であって「国民の権利および国家の義務」と書き換えるべきなんでしょうね。
実際、30条に納税の義務、とあるからわれわれは納税させられているわけじゃない。税法に縛られてのことです。

9条は、平和的生存権で、いわば21世紀的な新世紀の人権。
自然法由来の19世紀的な自由権でもっていったんは縛りあげた国家をいれた檻を、
ライオンが一方向にのみ走ることを許して開いたのが25条(国民の生存権、国の社会保障的義務)。
25条が19世紀的経済的自由ばかりでは、国内の貧富の格差が増大し座視しえなくなった段階で発生した
20世紀的社会権の代表である一方、憲法尊重擁護の義務を公務員のみに課す99条立憲主義の根源は、
13世紀英国から18世紀の北米ヴァージニア植民地へと遡るのだし、20条3項の政教分離は17世紀の宗教戦争の「福」産物です。

こんな風に個体発生が系統発生を繰り返し、一つの憲法典の中に、
13世紀から21世紀までごちゃごちゃに存在している。少なくとも聖人から下された宗教なりの規範ではありえない。
そのことを認識し、自主憲法制定のための学習会を開くと、現行憲法がかなりできのいいものだということも学習可能です。

21世紀的な人権(9条)ばかりをすばらしいものだと持ち上げて、
中世以来たたかいとられてきた他の諸権利との全体構築を意識せずにいるのは一種の知的怠慢だと思う。
また、私は国際会議などで9条を英語で読み上げることがあるけれど、へーっ、日本はいいね、といった反応、
世界のほとんどの国々が自由権ばかりで社会権規定がなく、貧富の格差がすごくて苦しんでいる以上、9条の規定はすごすぎるわ。
しかし一方で、立憲主義や政教分離原則をも意図的に破壊しようという「壊憲」勢力の動きがあったりして、
人々は思考停止してしまった。その判断停止ぶりが、申し上げた日本的コンフォーミズムにつながるわけでしょう。
やるべきことをやっていない公務員たちがいる、ということを指摘し得ない、そんな優雅さというかナイーブさを、なんというべきか。

――コンフォーミズムというのは、国民全部をいっしょくただと考えて、
ほんとうは違う利害を調整するのが対話であったり、交渉であったり、妥協であったりするのに、それがない。
こういうところでは議会も機能しない。

色平 運命共同体なんでしょうね。村社会なんですよ。もう、金をまいて黙らせる手法の政治は終わったのです。
みんなの意見で合意形成し、従前のプラスの価値をばらまく政治から、
マイナスのご負担をいかに納得いただくのかという政治にすでに変貌しているのです。

日本の会社では運動部育ちの人間をよしとするじゃないですか。
大学の医局なんかでも体育会系のギルドみたいなもので、あのなかにいては思考停止するしかない。
「待つ、許す、信じる」のルソー的近代教育が、まったくもって伝わってさえもいない現状の公教育も大問題。
でも、日本陸軍の内務班を髣髴とさせる、「アホ、ボケ、カス、ドケ」とドナリあげるABCD四拍子そろった医師教育。
これも、多少緩和されたとはいっても、指導医の意識はそうそう変わりはしない……患者、家族はかわいそうですよ。

よくパックス・ブリタニカ(大英帝国の平和)とか、パックス・ロマーナ(ローマ帝国の平和)とかいうけれど、
そんなのは支配される側にとっては平和どころじゃなかった。
パックス・ジャポニカだって、その辺縁にあった朝鮮民族や漢民族にとっては心底酷いことだった。
平和とか、自由とか平等、といった言葉は要注意です、十分に欺瞞たり得るのですから。
一方、パックス・メディチナ(医療の平和)というものもあるんですよ。
つまり、医療が帝国支配を続けていて、福祉や保健が医療の植民地になっている。
彼らがどういうふうに抵抗運動を組織し、独立していくか、私はとても期待しています。
大学病院の医局講座が当たり前だろ、と仕切るいまのやり方こそ、パックス・メディチナ。
中医協では5人の二号委員を日医が占めて、あちこちに圧力をかけまくるなんてひどいでしょう。

――でも、その中にいて、反抗しない人たちには平和が与えられる。
いまの自民党などの考えは、教育基本法とか憲法を変えて、
上からの指令で国民が文句をいわずに動くような、一体となった国家をつくろうということでしょう。
それが秩序で、その秩序のなかに入れば平和が与えられる、という発想、考え。
いよいよコンフォーミズムの極致ですね。

色平 憲法にモラルを持ち込んで、すばらしい、というのはアホの骨頂なんだよ。
自民党は立憲主義の根本さえ分かっていない。
それから戦後直後、9条ができたのは、天皇の免責とセットでしょう。
天皇を無傷で残すというのなら、ナチの同盟国だった陸海軍を全廃する以外、世界の誰も納得し得ない。
あの時点で、1条と9条は矛盾なんかしていないですよ。
東京裁判はなし崩しになったけれど、サンフランシスコ講和条約の11条(東京裁判を承認)も、
日本はのんで独立し、国際社会に復帰したのだから、もう終わった話なんだよね。
これをいまになって蒸し返すなんて、教育がアウトだったということでしょう。
本気で蒸し返したいんでしょうかね……徹底するなら東京裁判の再審を、となるのですが。

―― そうそう。教育からやられたね。

色平 教育の目的は? と問われて、「歴史の伝承と文化の共有」でも、何でもいいけど、
持論を返せる人はほとんどおいでにならないでしょう。日本人はルソーから勉強し直さないとね。
教育委員会が都道府県にできる一年前に新制中学が発足している。
これは大問題で、新しい日本人をつくるためのマッカーサー構想は二年遅れることになったかもしれないが、
ちゃんと地方の教育委員会をつくってから、そこに任せるかたちで新制中学が誕生していれば、
少しは変わり得たかもしれない。

――教育委員会というのは、アメリカ式の自治と民主主義の仕組みで、
行政から離した第三者機関で公共的なものを運営していこうという発想です。
だから教育、司法、放送など、公共的なものは全部、地方分権で第三者機関が担う。
でも、たぶん、当時の日本人には、そういう発想がなくて理解不能だったんだと思う。
放送委員会なんか、占領が終わるとただちに廃止されてしまうし、
公安委員会や教育委員会にしても、一応まだあるとはいえ、機能は空洞化してしまっている。

色平 医療に関していうと、いまこそ第三者機関が求められている時代だと思います。
またメディア・リテラシーを超えたメディカル・リテラシーが人々にこれほど求められている時代もない。
「医療を受けるための準備教育」もいい医療消費者、賢い患者になるために必須でしょう。
みんな、社会保険料を払っているのだからまともな医療を受けたいと思っているわけでしょう。
本来、そこに第三者機関の存在意義があるはずです。
いまは「天下り」か何か、利害関係者しか関心を持っていないという、とんでもない状況です。
日本の新聞社は「天下り」ということばを、括弧つきでなく記述しますが、実にとんでもないね、立憲主義がわかってないよ。(笑)
市民的公共性が欠如した状態が常態になってしまっていて、心が痛みますが、では誰が公益を担えるというのか。
意識改革と制度設計から必要でしょうね。
アメリカの裁判には陪審員制度があるでしょう。
「怒れる一二人の男」という映画を見ると、ちょっと感動する。
あれは合衆国のいいところじゃないですか。
日本は戦前からの大陸法の伝統の上に、戦後は英米法を乗せたはいいが、そのあたりの意味が全然つながっていない。

―― ヨーロッパでは、医者と弁護士(法律家)はプロフェッションとして自治が行なわれるのが原則でしょう。
これはアメリカ式の第三者機関とはまた違う理念ですよね。

色平 魂の問題は神学がプロフェッション、いのちの問題は医師、権利の問題は弁護士ですよね。
戦前の医師会は全員加入、戦前の弁護士会は任意加入だったそうですよ。
それが、戦後占領が終わったら逆になった。戦後の医師会は任意加入です。

―― え、入らなくてもいいの。
色平 私、入ってません。
組織率もどんどん落ちているし、開業医の利害だけを代表する団体になってしまっている。
弁護士会のほうは全員加入になっているから、自浄作用もあるし、強い権限を持って自治している。
パージされればアウト。
全員加入であるということはギルドそのものだからね。
品質保証を外に対してやらざるを得ない。
プライベートオートノミーが大事なんです。
私事でありながらオートノミー(自律)を持ってプロフェッションのありようを担保できるというのが目指すべきものでしょう。
丸山眞男の著作にありましたが、日本人はプライバタイゼーション(民営化)とプライベートオーノミー(自律)の区別がつかない、と。
何でも民営化しちゃえばいいと思っている。これは、彼の遺言に近いことかもしれないね。
民間のなかで、つまり国家や行政と切り離されたところで、
自分たちのプライドとこだわりのなかで何かをし遂げてみせるということができていない。

―― じゃあ、どこにも担保されていないということか。
たとえば、医療倫理とか、医療技術も含めて……。

色平 医療技術、医療倫理、厳しいご指摘だね。
国崎定洞がスターリン粛清されたことが大きい。
ああいうちゃんとした人たちが帰国して、東大に講座をつくってあれば……こういうこというの、権威主義的かな?
でも、権威主義の腐臭ただよう帝大本郷キャンパスではあっても、本郷に何か核があれば、
まだ水俣病などのときにもう少しちゃんと対応ができたはずなんだ。
先日、原田正純ドクターにお目にかかったら、チッソにキズつけられ殺された人々の不幸は、
「医学に閉じ込められた」ことにあると回想しておいででしたよ。
恥ずかしい話だよ。ハンセン病だって、精神医療だって、七三一部隊だって、全部そうだ。
何という「医療の罪深さ」か……何という自浄作用のなさ、これじゃあプロフェッションとはいえないじゃないか。
限りある生をどう生きるか、なぜ生きるのか、という当事者側の当事者感覚のないところでは、
どう支えるか、どう看取るのかといった死を語ること自体、危険思想にされてしまう。
「直らない」と告げられてしまった患者家族は、いったいどこへ行ったらいいのだろう。
最期まで面倒看るよ、つきあうよ、と告げられた安心感、それを伴わない「死の医療化」は「医者の傲慢、坊主の怠慢」とも揶揄されているよね。
ささくれだって、孤独と不安にかられがちな患者家族の支えになる医療者なら、パトス(受苦)の感覚をさえ共有できるはずなのだ。

先日、鶴見俊輔さんと話していて、祖父にあたる後藤新平の話になったんだけど、
新平は普通の医者からいうと、想像を絶するタイプの医者なんだよ。
しかし、欧米的にはそんなに飛んではいない。
だって、都市計画でも何でも、公衆衛生的な公共感覚をも担うプロフェッションであれば、
市民社会側に期待がある以上担わなければいけないわけでしょう。
医師もまたそこに専門家として関与する使命がある。
江戸時代でさえ、日本の蘭学者だってそうだった。
欧米では、都市計画には衛生学者が関与してきたのです。
こんな大事なところは関与しきれずに、福祉を医療化したり、日本の医者って、植民地化が好きなんだ。
でも、植民地経営は下手みたい。看護教育なんて、まったくフェアじゃない。
洗脳教育をいまだにしていて、「使いやすい看護師」ばかり作ることに力を傾け、自縄自縛になっている。
ほんとうに大切な、経済学部との境界領域・医療経済学とか、工学部との境界領域・建築物理学みたいなところは
ガラアキもいいところ。誰もやっていない。

――それは、なぜ?

色平 たぶん、帝大に講座がなかったからだと思う。

――講座をつくればいいじゃない。

色平 論理がずれているんですよ。
医局の論理というのは、プロフェッサーたるボスあっての「平和」、PhDという医学博士の学位あっての求心力でしょう。
彼らの論理は、決まったなかで効率よく多数の医学論文をしあげることであって、日本人の得意技ですよ。
正しいことをするドイツ人、楽しいことをするブラジル人、決まったことをする日本人ってね。
新しい枠組みはつくれない。結局、19〜20世紀もそうだったじゃない。
近代の技術は入れるが、キリスト教はいらないとか、自然法思想はいらないとか、立憲主義はいらないとか、
いいところだけを取って……ひどいもんだ。

――それは近代化の一つの宿命だよね。
だって、期間を短くするのだもの。英国が300年かかったところを100年とか80年でやっちゃうということでしょう。

色平 ええ、確かに。
しかし、民法第1条の「信義則」はいまや風前の灯だよ。
二者関係でどんどん進めて、律儀な人間関係でこそがんばってきたのに、
いまはみんな煮詰まっちゃって、関係者どうしが疑心暗鬼になっちゃった。
日本が先進国だというのなら、おっしゃったように、欧州型の議会をもつ自治政府としての保険者、
あるいは米国型の「まともな」第三者機関、と志向していくべきところでしょう。
日本が先進国なら、この間、お金と技術を注ぎ込んでやりたい放題やって、それでやり残しちゃったところばかりボコボコに社会問題化するの、
そろそろなんとか予防しておく必要がある。落ち穂拾いみたいなことかもしれないけれど、ちゃんとやるようにしておかないと後で困る。

――でも、現実はもっと逆になっている。もっと効率的に、つまりムダなことを考えないで、という感じだね。

色平 ええ、今の日本では北米型の評価の悪しきところがでてきていて、
短期間にしかも容易に数値化できるような指標で表現可能な「成果」なるもののみで
評価するという とんでもない偏向した状況で悪循環に入っている。
また、効率というなら、コンクリートの寿命は70年以上〜130年というヨーロッパに比べて、
いくらもともとは石の文化じゃなかった、とはいっても30年でアウトになっている。
こんなコンクリートの打ち方って、ただ、ごみをつくっているようなものじゃないですか。
もはや、このパックス・ジャポニカでは、ジョージ・オーウェルの「ニュースピーク」でしゃべらされているんじゃないのか?
戦争は平和、自由は屈従で、無知が力なんだよ。
いま、この日本はほんとうに無知が力になっちゃっているでしょう。
日本は資源もないし、ますます賢くなる一方のIT機械と、より安い賃金で働く他国の労働者、
この二つのチャレンジを前にして、考える頭がなくなっていったら、いよいよヤバイよ。
かつてこの村に及んだことが、バージョン・アップして日本全体に及ぶわけです。
機械が進化すると普通の庶民の仕事がなくなっちゃうんだということと、
海外で安く働いている俺たちだってちゃんとした金がほしいよという主張に、どう答えるのか。
正直、はっきり答えられないよ。
そんな難問が目の前にあるのに、みんながニュースピークでしゃべっていたら、日本はアウトですよ。

――こういう信州の村に年間150人からの医学生や看護学生がくるというのは、
日本のいまがちょっとおかしいんじゃないかと考え始めた若い人たちがくるわけですよね。

色平 ここにきた医学生たちには、やぁ、私の話を本気で聴いて、この「悪の道」に入っちゃうと、
つまり金持ちより心持ち、といった感覚を持っちゃうと、楽しいし、世界中に利害なく友だちがたくさんできるよ、と申し上げます。
初期研修の修業は数年間は必要だ。どこの病院で何科を学ぶかということより、どの人物から学ぶのかの方を深く考えたほうがいい。
そのとき、先ほどの村の例でいうと、世襲の特権的な椅子に座って、いくらでも金を出せるような患者ではなく、
椅子に座れずに周囲に立ち並んでいる患者たちに何かできないか、と考えることを目指さなければいけない、
それが君たちの初心だろうというと、みんな、そうです、というわけですよ。
じゃあ、君の人生を医局の判断にゆだねちゃダメだ。いろんなところで他流試合をやって、
交流とぶつかりの経験、退路のないサバイバル体験のなかで自分の技を磨いていかなければ、と申し上げます。
矛盾に当たって、ぶつかりの体験なくして、若者のアイデンティティは育たないですよ。

そしてこう言うんだ。君たちのような優秀で元気な人たちは、しょせん、患者の気持なんかわかるはずがないだろう。
患者は、君たちがサッサと何でもやってくれると、表面はうれしそうにしているが、
あんな優秀で、あんな元気な人たち、しょせん私のような障害者や患者の気持はわかってもらえない、とつぶやくんだ、それが患者心理だと。
君たち、どういう挫折経験があるかしらないが、ちょっとでもいいから挫折をしてこないといかんよ。
フィリピンへ足を運んで、山奥や離島の電気も水道もないところで、下痢をしてきたらいい。
病気して現地の人々にお世話になったら、自分の生きる座標軸やことあげ(ディセント)する勇気が見つかるかもしれない。
平均値では読めない庶民の生活実感を知るためにも取材が必要だよ。
昨今、国内であっても所得格差が開きつつある。
たとえば、生保の運用にあたっては「住所のない人」こそ急迫保護の対象たるべきなんだが、
その当事者から苦しい胸のうちを聞きとることができるようになるために体験を積むのは、君たちの場合、意図的にやらないと無理だわな。
説明を超えた存在が人間なんだ。
選ぶことは捨てることだ。
逃げたり、逃げ遅れたり、逃げ切れなくて抵抗する、そんなこだわりこそ若いうちに大事なんだ。
感動はかんたんには言葉にはならないんだ。
だから、読書感想文なんて書かされているひまがあったら、
きらわれることをおそれず、泥をかぶることをおそれす、犀の角のようにただ一人歩め。
ひとりだったらワガママであっても、百人のことあげだったら正当なニーズだ、とね。

神が複数になり、神が死の床について、法が形式的に共同体をまとめたとき、新たな神になったのはメディアだ。
しかし、現実にはほとんど信頼されていない移り気な新しい神が広める言説は、騒ぎすぎ、飽きっぽくて、弱いものいじめになりがちだ。
だからこそ、ワイドショーや週刊誌も含め、氾濫するメディアをメディアリテラシーの回路を通じて読み解く素養は必須になる。
メディアにひとことコメントし、それで後悔しなかったためしがない、というので思わずマイクにたじろぐ、という感性はむしろまともなものだ。
しかし、だからこそ、若いうちに、将来の「メディア使い」を目指して、この方面でもぶつかりの体験を積んでほしいものだ。

――若い人の可能性を見たと思います。

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