地域医療に身を捧ぐ・村民1300人の主治医 
 「日経ヘルスケア21」05年7月号巻頭

色平哲郎氏
南相木村国保直営診療所所長

●いろひら てつろう氏
1960年 横浜市生まれ
78年 東京大学理科T類入学
82年 同大学中退
83年  京都大学医学部入学
90年 長野県厚生農業協同組合連合会・佐久総合病院内科に就職
91年 「佐久地域国際連帯市民の会」(ISSAC)設立。外国人の医療相談に乗る
94年 特定医療法人健和会・みさと健和病院(埼玉県三郷市)勤務
96年  南牧村の野辺山へき地診療所所長に就任
98年 南相木村国保直営診療所所長に就任


 長野県南佐久郡南相木村。無医村だった同村の国保診療所初代所長として1998年から診療を続ける。村人とのコミュニケーションを大切にし、問診や触診といった5感に基づいて診察する地域医療の「基本」を実践してきた。色平の下を訪れる医学生に地域医療の奥深さと困難さを伝えることにも余念がない。(文中敬称略)

「村医者は、“やぶ医者”たらざるを得ない」。坊主頭、ぎょろっとした目、寺の住職を思わせる風貌の色平哲郎は、地域医療の難しさをこう強調する。逆説的な言葉だが、その真意は、限られた医療機器と自分の能力でプライマリケアを行うには、都会の医療機関にはない難しさが伴うことを常に自覚せよ、ということだ。
 色平は長野県厚生農業協同組合連合会・佐久総合病院の内科医局に籍を置きつつ、南佐久郡南相木村にある南相木村国保直営診療所の初代所長として1998年から村の医療に尽くしてきた。 
 南相木村は人口わずか約1300人の山村。最寄り駅のJR小海線・小海駅まで車で15分近くかかる。98年までは週3回、小海町の佐久総合病院小海分院から医師が診療に訪れる「無医村」だった。そんな中で、色平は新しくできた国保診療所の初代所長として村に住み、溶け込んだ。
 色平の1日は午前8時半から始まる。午前11時半まで診療所内で外来患者を1日平均約25人診療し、その後看護師と車で訪問診療に出発。約2時間かけて4〜5軒の家を回る。夕方4時半ごろに佐久総合病院付属小海診療所(旧・小海分院)に患者の検体を運び、5時過ぎに結果を診療所のFAXで受け取り、診療方針を考える。さらに夜間や休日も自宅に連絡があれば車で駆けつける。  
 「地域医療は医療側の論理と方針に沿って検査や診療を進めていく“大学医療”とは異なる部分がある」と色平。問診、触診、視診、聴診、打診という5感をフルに使った診察(5診)をしながら、状況に応じて柔軟に対応する必要があるからだ。例えば、普段我慢強くて無口な人が、「お腹が痛い」と訴えてくれば、かなりの重症である可能性が高い。「村人とコミュニケーションを取りながら声なき声にも耳を傾ける。その上で、どの疾患の可能性があるか、患者が何を求めているかを判断する複雑なもの」と色平は力説する。
 そんな色平だが、これまでの人生には紆余曲折があった。78年に東京大学理科T類に入学するが、4年の夏に世界を放浪して意識が変わる。「国家や民族の垣根を超えて人の役に立ちたい」。こう考えた色平が行き着いた結論が、「医師であれば世界中の人々の中に入っていける」だった。そこで東大を中退し、83年に京都大学医学部に入学した。
 「授業にあまり魅力はなかった」という色平だが、在学中の87年に旅行先のフィリピン・レイテ島の「フィリピン国立大学レイテ校」で衝撃を受ける。医学生が村の医療活動の一部を担って助産や看護を実践。その中で村人が推薦した人が医師の教育を受ける仕組みが機能していた。実践は二の次で、まず学問から入って医師を育てる日本との差を感じた。

レイテ島で地域医療に目覚める
 その際、同校で医師を目指していたスマナ・バルア氏から「佐久総合病院院長、若月俊一氏(当時)は、佐久に医科大学を作って、医師が不足している農村で働く医師を自らの手で育てる『農村医科大学構想』を提唱した。レイテ校の仕組みは、その考えが基になった」との話を聞き、日本に戻ったら同院で地域医療に携わろうと考えた。そして、90年から同院で働き始めた。
 その後、94年には地域医療に積極的な特定医療法人健和会・みさと健和病院(埼玉県三郷市)で内科医として勤務し、「5感を使った診察の基本を学んだ」(色平)。当時、同院の内科病棟長で、現在、同法人・柳原リハビリテーション病院長の藤井博之は、「色平先生は当直にも積極的で、とにかくエネルギッシュだった」と話す。
 こうして色平は96年に佐久総合病院からの派遣で、まず南相木村の隣、南牧村の野辺山へき地診療所所長となる。同村で保健師として20年以上働いていた菊池智子とともに地域医療を実践し、98年に南相木村にやってきた。

医学生に“村”の医療を伝える
 最近、各地の大学医学部で地域医療の講座が開設されたり、離島で働く医師が主人公のテレビドラマが放映されるなど、地域医療やへき地医療が再び注目を集めている。色平の下にも地域医療やへき地医療を志す医学生が見学に絶えず訪れる。その数は年間で約100人以上に上る。そうした学生に、色平は訪問診療の際、村人と雑談する姿を見せたり、村人との会話を促したりする。その意味について、色平は「先端医療とは異なる地域医療の本当の奥深さを知ってもらうため」と語る。一見、診療と関係ないようで、実は患者の生活背景の把握や状態確認などの重要性があるからだ。
 自分の体験と周囲からのアドバイスを受けて地域医療の“本質”を体得してきた色平。今度はそれを後進に伝えようとしている。 
 地域の診療所の後方支援を行う病院の医療機能が発達したことで、プライマリケアに携わる医師は、どこまでを自分で行い、どこから後方に任せるかという判断力も問われている。その意味でも色平の役割は重みを増している。「場所は変わっても今後も南相木のような“村”の医療に携わっていきい」と語る色平には、5感を使って診察する地域医療の“原点”を守りたい、との強い意思がある。

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