とうきょう異聞  読売 05年7月7日

村で学ぶ「人」診る目


畑のブルーベリーが熟す初夏、都会から医学生たちが、村へ「実習」にやってくる。
皆、診療所や往診先で私が患者さんとどんなやりとりをしているのかを見たがる。
でも、いきなり彼らを診察室に入れたりはしない。
まず高齢の村人たちとじっくり対話していただく。
人それぞれの生活背景を知ってほしいからだ。

ある女子医学生は、3泊4日の実習期間のうち、2晩、機織りの技を
受け継ぐおばあさんのお宅に泊まった。
話し込んでいるうちに「泊まっていけば」と誘われたらしい。
後日、女子医学生は言った。

「祖父母とも、こんなに充実した会話をしたことありません。
彼女の凛(りん)とした生き方はカッコいい。
人生の年輪を感じた。
都会でもイキイキとした生活を送っ
ているお年寄りはたくさんいるはず。
もっと出会いたいです」

厚生労働省は昨年、医師教育100年の大転換ともいえる「2年間の臨床研修必修」を開始した。
国家試験に合格したばかりの新人医師は、大学医局の系列に縛られず、
一般病院も含めて研修先を選び、内科、外科、救急、小児科、産婦人科と様々
な診療科を回って研修を受けられるようになった。
その狙いは「患者を全人的に診ること(患者本位の医療)ができる診療能力の取得」である。

急激な制度転換で、現場に混乱が生じてはいるものの、その方向性はニーズをとらえている。
国民の目線に合わせ、高度に専門化した「臓器医」ではなく、
当たり前に人を診療できる「一般医」の育成にこそ力点を置いたのだ。

ところが、教育の分野では、「できない者はできないままで結構。
戦後、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、
できる者を限りなく伸ばすことに振り向けるべきだ」との声も聞こえてくる。

日本の場合、エリート教育は官僚養成に直結してきた。
競争を勝ち抜くという一面だけが肥大化し、エリート本来が備えるべき「倫理観」は失われた。
その結果、さまざまな分野で構造転換が迫られる状況となった。

「病気」ではなく「人」を診る医師が、求められている。
人間関係が希薄な大都会ならなおさらだろう。

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