対談  医療と仏教

─人間として、人間の世話をする─


医療も仏教も、本来的には人の「生」に寄り添うものだ。特に「弱さ」への関わりに
おいて。
しかし、現実には不必要な“住み分け”がなされている。
医療と仏教が同時に人の「生」に目を向けたとき、「人間として、人間の世話をする」

というキーワードが現れる。
これは、関係性の根源的な在り方を言った言葉にほかならない。
アジアの貧しい人々の中で。山村のお年寄りたちの中で。二人の医師のチャレンジも、

ここにある。


●WHO西太平洋地域事務所医務官
スマナ・バルア
一九五五年バングラデシュ生まれ。七六年に来日、働きながら日本語学校に学ぶ。七
九年フィリピン国立大学レイテ校入学。助産師、看護師、医師の資格を取得。故郷の
医科大学で教える傍ら、地域医療に従事する。九三年に再来日し、東京大学医学部大
学院国際保健計画学教室に入学。修士号、博士号を取得し、WHOのコンサルタント、

JICAの研修アドバイザーなどを務め、国際医療福祉大学などで教鞭を執る。二〇
〇二年よりフィリピン・マニラで現職。

●長野県南相木村診療所長
色平哲郎(いろひら・てつろう)
一九六〇年(昭和三十五)神奈川県生まれ。東京大学中退後、世界を放浪し、医師を
目指して京都大学医学部入学。九〇年同大学卒業後、長野県厚生連佐久総合病院、京
都大学付属病院などを経て長野県南佐久郡南牧村野辺山へき地診療所長。九八年より
南相木村の初代診療所長。外国人労働者や女性、HIV感染者・発症者の支援を行う
NPO「佐久地域国際連帯市民の会(アイザック)」の事務局長としても活動、九五
年にはタイ政府より表彰を受ける。著書に『大往生の条件』(角川書店)『源流の発
想』(オフィス・エム)がある。 ホームペー
http://www.hinocatv.ne.jp/~micc/Iro/01IroCover.htm




ぶつかりの中から
ありがたさを知る

色平 いつもどおり「バブさん」と呼ばせてもらいますが、バブさんはバングラデシュ

のお生まれですが、日本は何番目のふるさとになりますか?
バルア 日本は二番目で、三番目はフィリピンのレイテ島ですね。簡単に言えば、日
本は私が医者になるためには何が必要なのかを教えてもらった所、レイテ島は実際に
医者になる勉強をした所です。
 レイテ島については日本の方もよくご存じだと思いますが、日本とアメリカの軍隊
がここを戦場に全面的に激突した舞台でもあります。私はそこで医者になるために十
年ほど勉強しましたし、現在は、日本の医学生、看護学生やJICA(国際協力機構)

のプライマリ・ヘルス・ケアの専門家になる方々の研修の場としてもレイテ島を使っ
ています。
色平 決して医療や保健の先進地域ではないレイテ島が研修の場になるというのは、
どういうことですか?
バルア 人間として、人間のお世話をさせていただく、そんなケアについての修業の
場面では、時に「便利さ」や「お金」からかけ離れた状況の「ぶつかりの体験」こそ
が大事になります。
色平 私が学生時代に世界を旅していたときにバブさんと出会ったのもレイテ島でし
た。
バルア そうですね。かれこれ二十年以上も前になりますね。
色平 そこでの体験が、私にとっては日本の地域医療について目を開かせていただく
きっかけになりました。
バルア 私は東大の大学院に七年間もいましたし、学生たちに講義もしてきました。
そのころ、ある女性の大学院生が私に、「フィリピンのレイテ島はどこにありますか」

と聞くので、私は「新潟県の佐渡島の上の方にあります」と言ったんです。もちろん
冗談です。彼女に自分で調べてもらうために言ったわけです。そうしたら、彼女は日
本地図を持ってきて、「ここにはレイテ島はありませんよ。バブさんは日本の地理を
知らないんでしょ」と言うんです。誰が何を知らないと言う前に、我慢して教育する
べきだと痛感しましたね。
色平 大変ですね、それは。バブさんは今も東大の非常勤講師をやられたり、ほかの
医科大学でも講師をされたりしていますから、学生さんたちに学ばせる機会を持って
いらっしゃるわけですね。そのときに、恥ずかしいことですが、医学そのもののおか
しいところ以前に、日本の学生たちのおかしいところが見えてしまうわけですね。
バルア 私は学生たちに決して難しいことを話そうと考えているわけではありません。

世界的なものを見ていかないで、ただレントゲンに映るものや機械の操作だけを覚え
ようとしているのは、違うのではないかと言いたいのです。
色平 バブさんのお叱りの言葉として、「もし、お金儲けをしたいのなら、医学部に
来ないで経済学部に行きなさい」と常々おっしゃっていますね。「人の命はレントゲ
ンには映らない」ともおっしゃいます。しかし、現実にはレントゲンにたくさん映す
ことでお金が儲かるような日本の医療システムがあります。
バルア 人は一日では変われません。そういう意味で、学生たちにも時間をかけて伝
える必要があります。そうやって、自分で理解して初めて学生さんたちも変わってき
ます。システムをつくっていくのも人間ですから。
 日本には、「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がありますが、今の日本の若
い人たちは苦労をしたことが少ないのかもしれません。鉛筆を持っていないとか、お
昼が食べられないとか、そういう苦労を感じたことはないでしょう。だから、逆に自
分のアイデンティティーを忘れてしまうんです。しかし、そのアイデンティティーが
ないと、他者と関わる活動は難しくなります。
色平 「苦労」というぶつかりの大切さですね。バブさんご自身は自分のアイデンティ

ティーをどんな「ぶつかり」の中で見いだしてきたのですか?
バルア 子どもだった私には戦争の経験があります。一九七一年のバングラデシュの
独立戦争です。それは別の面で、私の人生にとって良かったと思っています。生き残
るのは大変でしたけれども、それで涙をいくら出してもしようがないですからね。自
分の命がどのように生き残るかを経験することは、とても大事なことです。だからと
いって、戦争になってほしいという意味ではありません。しかし、何かのかたちで戦
争というものを若者に理解してもらうこと、そういう経験の旅をしてもらうことは大
切ですね。戦争をしている所へ行ってきなさいというのではなく、現在の自分の生活
との差がある所、そういう違いのある所に行って、いろんな経験をしてきなさいとい
う意味です。
色平 自分が当たり前だと思っていることがとても感謝しなくてはいけないことだと
気付くような所にこそ足を運ぶべきですね。
バルア だから、鉛筆がなかった時代のおじいさんやおばあさんなら、鉛筆の大切さ
を分かります。鉛筆が半分くらいになると、後ろに何かをくっつけて書く方もたくさ
んおられたでしょう。「もったいない」という気持ちが、三十代のお母さんには分か
らないんですよ。カンボジアの子どもたちは、少ない鉛筆を大事に使っているという
お話をしたとき、あるお母さんが「じゃあ、カンボジアの子どもたちに鉛筆を送りま
しょうか」とおっしゃった。私は、「物がない所に物を送れば解決するという問題で
はありません」と言いました。そういう問題の解決の場は、自分の子どもさんたちの
心の内にあるということをお伝えしたかったのです。感謝の気持ちということです。
ご自分のお子さんたちに鉛筆の大事さをお伝えになることが大切なのです。

時間をかけなければ
変わっていかないもの

色平 お水が大事だということも常々おっしゃっていますね。
バルア そうですね。この間も大きな地震が九州でありましたけれど、その様子をテ
レビで見ながら神戸の震災のときに私に電話をくださった高校の先生のことを思い出
していました。
 阪神大震災が起こる前、私は神戸のある高校で、アジアの子どもたちの教育と健康
問題に関して講演をしました。そのときに、お水がいちばん大切だということを何回
か言いました。ミャンマーのお母さんたちはこういう遠い所からお水を運んできてい
るんですとか、小学校のお水の事情はこんなふうになっていますとか。そうしたら、
ある先生が後ろから「日本人をバカにしないでください。何度も言わなくても分かり
ます」とおっしゃいました。「あなたの村の、教育を受けたことがないようなお母さ
んたちとは全然違うんです」とも言われました。私はびっくりしましたけれど、もう
少し我慢してお話ししなければならないだろう、人間だからぶつからなければ分から
ないだろうと思って、それでも水は大事なのだということを伝えました。そうしたら、

「もう分かった、分かりました」と、その先生は教室から出ていってしまったのです。

 そんなことがあって何カ月かたって、神戸の地震が起こったんですが、一週間後く
らいに、その先生から電話がかかってきました。私はそのとき「大丈夫ですか、いろ
いろあって大変でしたね」と声をかけましたが、先生は謝りの言葉を三回も言われま
した。飲み水だけではなくて、トイレに使ったり体を洗ったりと、いろいろなときに
水を使わなければならなかった。私は誤解していました。自分がその場面に直面した
ときに、本当に水がいちばん大切だと分かりました。そう言ってくださいました。で
すからお水の問題も鉛筆の問題も、自分が経験したことがないから分からなかったん
です。
色平 バブさんは「頭で考えるだけではなくて、ぶつからなくては分からない」と言
いたかったわけですね。でも、その先生は、実はとても深く考える方だと思います。
自分がぶつかって初めて、昔怒った相手に謝りの電話を入れるということは、そうそ
う簡単なことではないと思います。日本もいろんな過去の過ちがありますが、率直に
謝ったり申し訳ないという気持ちを表明するということは、今とても大事なことだと
思います。
バルア 頭で分かったとしても、心で分からないことが人間にはあります。私は宗教
者ではありませんけれども、子どものころから仏教の教えが身近なところにありまし
たから、時間をかけて知らせるべきことは知らせなさい、教えてもらいたいことは教
えてもらいなさいと教わってきました。ですから、教育には非常に時間がかかること
も知っています。その先生が自分で経験して、あってほしくはないけれど地震があっ
たおかげで自分の新たな気付きを得ることができたのなら、それは望ましいことです。

 仏教的な考え方で捉えると、やっぱり私はそのときやり合いをしなくて良かったと
思いました。お坊さんのお話の仕方もそうですが、我慢してゆっくり説いていきます。

教えるべきこと、この道を歩いてほしいと願うこと、それは、その人自身が経験しな
がら学んでいくほうがいいのです。
色平 こういった地震、あるいは交通事故などは、決して起こってほしくはないです
けれど、起こったからこそ健康の大切さが分かったり、失って初めて普段のありがた
さが分かるものです。逆に言えば、不幸な目に遭わないと人間は気付けないというこ
とがあります。
バルア ですから、水の大切さを分かったならば、そしてもし、お金があるならば、
飲み水がない所に井戸を掘ってあげたり、基本的な食事をさせる、そういう問題に関
わってもらいたいと思うのです。バングラデシュでは二十代の若いお坊さんたちが孤
児院で食事をさせたり勉強をさせたりしていることが、日本の同年代の人たちには理
解しにくいようです。そういう、お坊さん的な考え方、生き方についても日本の若い
人たちに考え直してほしいですね。
色平 バブさんは、日本にやって来たらとてもいい人たちと出会えて二番目のふるさ
とになったとおっしゃいましたが、私にとっても恥ずかしいことですけれども、日本
は物が豊かになったおかげで、逆にアジアの兄弟たちの気持ちが分からなくなってき
たという現実があります。
バルア 経済発展と同時に、いろんな問題が出てきます。大切なのは、それにどうやっ

て対応していくかです。

苦労して見つける
ことに価値がある

色平 バブさんは日本に来て日本語を覚えて、医者になることを目指していましたが、

日本では医者にならなかった。それはどうしてですか?
バルア 話が長くなりますが、子ども時代のことからお話しします。
 私が十二歳のとき、近所のおばさんがお産のときに亡くなりました。そんな悲しい
ことは嫌だ、私は大きくなったら医者になって村人のために働きたい、そう思うよう
になりました。
 当時、京都に留学していた兄を頼って日本に来たのは一九七六年(昭和五十一)、
二十一歳のときです。あるとき、知り合ったトラックの運転手が私に「腰が痛い」と
言いました。そこで、私はどうしてトラックの運転手は腰が痛くなるのかを自分でも
経験しようと思って、東京から下関行きのトラックに乗せてもらいました。東京で食
べるおいしいシーフードが北海道で獲られていると聞いたときは、いちばん寒い時期
にいちばん寒い所で魚を獲っている方々の生き方を知りたくて、漁師さんの所で合宿
してきました。また、私は自分をアジアの「外国人労働者」のパイオニアだと思って
いるんですけれども、中央高速道の小淵沢インターを造ったときも労働者として働い
たことがあります。
 そういうことを経験しながら、自分が勉強したい学校がどこにあるかを探していま
した。自分の手で人間の世話をする、人間として人間の世話をする、そういう関係の
中で医者としてやっていきたいと考えていたからです。
 しかし、日本へ行けば自分のやりたい勉強ができるかなと漠然と思っていた考えは
間違っていたと分かりました。日本の医学は専門的になりすぎていて、私がやりたい
勉強はなかなかできないからです。しかも、そのとき私にはお金がなかったので、結
局、医学の勉強を日本でするという考えは頭から捨てて、労働者になってしまいまし
た。今のようにインターネットがなかった時代でしたので、航空券は高かったのです
が、仕事をしてお金をためてフィリピンやマレーシアや韓国に行って、自分のやりた
い医学を学べるところを探していたんです。
 日本で医学を勉強することをあきらめた最大の要因は、機械を使った医療を学ぶこ
とになってしまうからです。その当時、バングラデシュの私の村には電気が通ってい
ませんでした。機械を使った医療は役に立ちません。結局、フィリピンのレイテ島に、

その学校を見つけました。
 有名な学校に入れば自分も有名な医者になれる、という考えでは、苦労して人間と
しての勉強をしようとは考えなくなります。私は、自分がそうだったから言っている
のかもしれないけれど、やっぱり、自分で苦労しながら自分の道を見つけることに価
値があると思います。そのほうが自分の心の中に満足があります。
色平 若い人たちは、手応えのある仕事や人のためになるかもしれない仕事というも
のを、具体的なイメージなしに決めてしまう場合がありますね。現在の医学教育につ
いては、どうお考えですか?
バルア 医者も患者も人間です。人間が人間の世話をするという基本的なアイデンティ

ティーを私たちは忘れがちです。それは、人間学を勉強しない、させないからです。
社会学や哲学も勉強しません。医者になるためにみんな、数字を覚えて、機械の操作
を覚えようとします。
 私は日本の地域の方々や先生方に教科書に書かれていないことをたくさん教えても
らいました。例えば、お母さんのことを「おふくろ」と呼んでいる人がいて、なぜ、
そう呼ぶのかも分かりませんでした。私が使っていた日本語の教科書には、そういう
ことは書いてないんですよ、残念ながら。十カ月間もお母さんの袋の中にいて、お母
さんはその袋の中で子どもを大事に育ててくれる。だから、「おふくろ」というのは
とても大事な呼び方なのです。それが分かっていれば、お母さんを大事にすることは
人間として当たり前のことだと分かります。こういう教科書に書いてないことも勉強
するのは、人間として、社会人として必要なことです。ですから、医者になろうと考
えている日本の若い人たちにも、教科書に書いてない「人間として」という当たり前
のことをお話しします。人間らしさを持っていないと、医者になってもしようがない
ですから。
色平 アイデンティティーと言えば、バブさんがとても大事にしていらっしゃる詩が
ありますね。

私はだれなのか
私はどこから来たのか
私はどのようにしてここへ来たのか
私はここからどこへ行くのか
私はどのようにしてそこへ行くのか
私はそこで何をするのか

 残念ですけれど、教科書を覚えるだけでは、こういうことはなかなか考える機会が
ないですね。
バルア やはり、私たちが時間をかけて学生たちとぶつかり合わないとだめですね。
だからこそ、学生たちに体験させて考えさせることをやらなければならないんですよ。


「明日のない人たちのために」

色平 フィリピン国立大学レイテ校で医師資格を取得し、再び来日して東京大学医学
部の大学院で修士号と博士号を取った後、いまバブさんはマニラでWHО(世界保健
機関)の医務官をされていますが、具体的にはどんなお仕事をされているんですか?
バルア ハンセン病対策プログラムの担当をしています。国の数で言えば、三十七カ
国を担当して走り回っています。全部の国にハンセン病の患者さんがいらっしゃるわ
けではありませんし、薬のおかげで患者さんも少なくなってきていますが、またどこ
かで増えてくるとも限らないわけで、ワクチンの開発なども含めて注意深く見守って
いかなければなりません。そのための基本的な技術を現地の人たちに指導しているの
です。
 私は、自分の中で医者として働くと決めたことが自分の人生のいちばんのチャレン
ジだと思っていたところもありました。しかし、そのときは自分の村のことしか考え
ていなかった。ところが、アジアの国々を歩き回ると、自分の村と同じような事情の
地域がたくさんあった。「じゃあ、また明日ね」と声をかけることのできない子ども
たちがたくさんいます。彼らには「明日」はないんです。そういう所で医者や看護師
に仕事をしてもらうために、基本的な医療サービスとして何が必要かを伝えていかな
ければいけない。そう思うようになりました。
 今、ハンセン病を中心として仕事をしていますが、そういう仕事をしてもらうため
の仲間や後輩たちをつくらなくてはなりません。そして、後輩たちが医者になったと
きに、「あなたはこれをやりなさい」「看護師ならこれをやりなさい」と指示するの
ではなくて、自分の心の満足を見つけながら医者として看護師として、あるいは人間
として、人間の世話をするということをやってもらえるように学生たちにはっぱをか
けるのです。
色平 バブさんのふるさとの村では、バブさんの一族の方々が頑張っていらっしゃい
ます。例えば孤児院の運営もその一つですね。私も一度訪問させていただいたことが
ありますが、孤児は今日でもアジアでは大きな課題です。
バルア そうですね。孤児院は叔父さんが生きていたときにつくられましたが、現在
は私の弟が運営しています。私の家族は代々仏教徒で、各世代から一人はお坊さんに
なります。二十四代目のお坊さんは弟が務め、彼が孤児院も面倒を見ているのです。
色平 確か、弟さんは東京大学で中村元先生の教えを汲む仏教哲学を勉強されたと伺っ

ていますが……。
バルア はい。そのとき学んだことが、今も生きていると思います。
色平 私の祖母が亡くなったとき、お坊さんとして弟さんにお越しいただいて、パー
リ語でお経を上げていただいたことがありました。私ども家族にとっては感謝の気持
ちでいっぱいになる出来事でした。
バルア ありがとうございます。
色平 一族の皆さんは熱心な仏教徒で、中でも叔父さんという方は、インドで文化的
な活動をされたラビンドラナート・タゴールとのお付き合いがあったり、マハトマ・
ガンジーとも同志であったヴィシュダナンダ・マハテロ師という大長老ですね。
 私もお目にかかったことがありますが、日本の仏教とアジアの仏教とを繋ぐ大きな
「橋」の役割をなさった方です。今の天皇陛下の結婚式のときに日本に招かれたほか、

さまざまな世界的な宗教の和解や交流についても貢献して高い評価を受けられました。

 また、ダライ・ラマが若き日に中国から追われるかたちでインドへ出られたときに
お訪ねになったのがマハテロ師だともお聞きしています。そのご縁としては、十世紀
にインドの仏教が衰えたころ、アティーシャというベンガルのお坊様がチベット高原
に上がってチベット仏教の最初の基礎を築いたわけですが、このアティーシャのお骨
をチベット仏教はとても大事にしていたので、周恩来の時代に中国からインドへお返
しすべきだということになって、そのときにお出迎えになったのが、黄色い衣を身に
着けたテーラヴァーダ(上座部)仏教の最高峰として代表をお務めになったヴィシュ
ダナンダ・マハテロ師だという歴史があるからです。
バルア ベンガル飢饉によって孤児院が始まったのは一九四四年です。いま三百五十
人の孤児がいますが、子どもたちの数が増えてきたのは、ちょうど七一年のバングラ
デシュ独立戦争の後からです。そのとき、一人の女の子が孤児院に入りました。道端
で泣いていた家族のいない女の子でした。皮膚病にかかっていて、手足は触れないほ
どでしたけれど、姉と私は連れてきて一所懸命看病しました。その子はいま、大学院
も卒業して高校の教師をしています。弟のアシスタントみたいなこともやっています。

あのとき誰かに拾われていなかったら、彼女は死んでいたかもしれません。
 名前もなかったその子に叔父さんはメリーと名前を付けました。メリーがずっと孤
児院の中で大きくなっていって学校の教師になったことを思うと、人が人を育てるこ
とは時間がかかるけれども、長い目で見れば大事な社会的な活動なのだと分かります。

私が覚えている限り、叔父さんはいつも「平和の軍隊が孤児院からこそ巣立っていく
べきだ」と言っていました。お母さんもお父さんもいないからかわいそうだというこ
とではなく、彼らにも特別な能力がどこかにあるのだから、その能力を見つけるため
に私たちが人間として育てていくべきだと考えます。

仏教者と医療者との
スピリチュアルなケア

色平 私が家族とともに一九九三年にマハテロ師をご訪問したときは、山の中の質素
な僧院にお住まいになっていました。私どものほかにもバイクに乗った日本の若者な
どが来ていましたが、誰とでも気軽にお会いになっていました。もちろん、土地の方々

の人生相談も受けられるし、日本から新しく大使が赴任すれば挨拶に来ますし、バン
グラデシュの大臣も来れば、山の中の農民たちが土地争いの解決法を尋ねに来たりも
する。その気さくな対応は、スリッパを何回も履き替えなければお目にかかれないよ
うな日本のお坊さんのありようとはだいぶ違うという印象を受けました。
 このような、「生きている方々のお世話をする」ことを中心に考える仏教が、アジ
アにはあるのですが、日本の仏教は、日本以外の国の仏教とは少し違った方向へ向かっ

ているように感じられるところが私にはあります。
 われわれ医者は、生きている方々のお世話をさせていただく仕事ですけれども、日
本では、お坊さんは亡くなった後に登場されます。生前はわれわれ医者の仕事である
というふうに考えられています。残念ながら、生きているときにもスピリチュアルな
ケアを考えることに、仏教者とわれわれ医者が一緒に取り組むことができていない。
この点で、バブさんの叔父さんやバブさんのご家族は違いますね。イスラム教が入っ
てきた後にインドでは滅んでしまった仏教を、そこからビルマ国境の山の中へと逃れ
るかたちで受け継いだ人たちの流れの中で、生きている人たちのために、とお考えに
なっている。
バルア 叔父さんの別名が「ロイヤル・ベガー」だと知ったときは、びっくりしまし
た。ロイヤルとはお坊様とか高貴な人のことで、ベガーは乞食という意味です。「ア
ジアのお腹の空いた子どもたちのおじさん」ですから、自分は何も持っていないんで
す。三食ちゃんと食べられなかったことも、しょっちゅうあるし、自分が半分だけ食
べて残りの半分を小さい子どもに分けてあげたりもしていました。そういうことが私
にとっては、すごくいい勉強になりました。それは、お坊さんがお坊さんとして信者
に世話をしているというよりも、人間が人間として人間のお世話をしている姿です。
医者として患者さんのお世話をするというよりも、人間として人間のお世話をするこ
とが私の基礎になったのです。
色平 ロイヤル・ベガーといえば、「高貴な乞食さん」と日本語では訳されるわけで
すが、それは「こつじき」と読まれるべきもので、日本の中世のお坊さんの姿を彷彿
とさせるものですね。民衆の中に鎌倉仏教が入ったときに、それは遊行の聖というか
たちで、特に官位とか僧位とは関係なく、広く人々の、衆生の悩みに対して取り組む
というスタイルでした。それが今から約七百年ほど前のことです。ロイヤル・ベガー
は、その七百年前の鎌倉仏教の姿を思い起こさせるものです。
 売春をしているというふうに差別的な目で見られがちなタイの女性たちが日本にい
るという現実に立って、彼女たちの生活上の悩みを聞き、医師としてバブさんととも
に医療的な相談を受ける中で、さまざまな日本社会の問題点にぶつかりました。けれ
ど、彼女たちが求めていたのは、実は医者としての技術、あるいは公衆衛生的なアプ
ローチというよりも、むしろタイのお坊様方にお会いしたいということでしたね。
バルア そうですね。
色平 たくさんの手間はかかりましたけれど、バブさんと協力をしてタイからお坊さ
んをお招きしました。すると女性の方たちは大変満足されたようでしたね。そして自
分がエイズに感染して近いうちに亡くなるということを受け入れるに当たっても、
「お坊さんとお話しできて本当に幸せでした」という言葉を残しておいでになった方
もいらっしゃいました。
バルア 「Go to the people(人々の中へ)」という詩があります。

人々の中へ行き
人々と共に住み
人々を愛し
人々から学びなさい
人々が知っていることから始め
人々が持っているものの上に築きなさい
しかし、本当にすぐれた指導者が
仕事をしたときには
その仕事が完成したとき
人々はこう言うでしょう
「我々がこれをやったのだ」と
       (晏陽初)

 やはり、人々の中へ入っていくことが大事なのだと思います。

仏教の「お世話」と
医療の「お世話」

色平 「アジアを解放する戦争」にしても、いまバブさんがハンセン病のお仕事で時々

訪れるベトナムにおいては、戦争のために食料がきちんと届かない状況になって、二
百万人のベトナム人が餓死するという事態を引き起こしました。中国大陸においても
大変な惨禍を引き起こしたわけです。このような戦争の当事国であるアジアの兄弟た
ちの国が、私たち日本人のことについて、あるいは日本の現在の繁栄について、どう
考えているのかということは私たち自身がきちんと学ばなければならないことですね。

バルア 戦争のとき、私の両親はビルマ(現ミャンマー)にいたんです。飛行機から
爆撃を受けて、牛車に乗って三週間かけてビルマからバングラデシュに帰ったそうで
す。途中で、父の従兄弟が亡くなりました。食べ物がなかったからです。私には想像
もできないほどの事情だったのでしょう。飲み水は、バナナの木を押しつぶして出て
くる樹液でしのいだそうです。
色平 そういうこともあって、叔父さんは世界のお腹を空かしている子どもたちのお
じさんになろうという志を持たれたのですね。
バルア そうです。
色平 バブさんの教えは、もちろん医学生たちにも伝えていくべきことだと思うんで
すが、同時に若いお坊さん方にも必要なことだと考えます。心のケアが必要とされて
いる時代ですから、むしろ、お坊さん方にご活躍いただきたいのです。日本の仏教が
人々の願いやニーズとそぐわない方向に向いているのだとすれば、寂しい心の中にカ
ルトと言われる新興宗教が入り込む余地が出てきてしまいます。そうすると、若者た
ちが自分のアイデンティティーを見つめようとするからこそ逆にその一員になってし
まうという困ったことが起こります。ぶつかってみたいと思って、おどろおどろしい
仲間に入って抜けられなくなるというジレンマがあるような気がします。
バルア お坊さんには、お寺の中のことだけではなくて、世の中がどういうふうに動
いているかということに関心を持ってもらって、また、ケアの仕事についても、僧の
立場としてどういうことができるかを深く考えてもらえたらと思います。例えば、科
学とか医療を言う前に、やっぱり仏教的なケアが大切です。それはハンセン病にして
も何にしても。
色平 科学としての医療が出てくる前には、残念ながら人は治すことができなくて、
日本では「赤髭の時代」と言いますけれども、その時代には「人は亡くなるもの」と
いうのが前提で、それをどういうふうに見送ることができるか、つまり人間として人
間の世話をすることしかなかったわけですね。その後、科学が出てきて、私たちは
「人は亡くなるもの」という原点を忘れることができるくらい、科学やお金にまみれ
てしまうようになったのかもしれません。
 先ほどバブさんは、医者として、あるいは人間として、数字や機械に任せるのでは
なく人間学や社会学や哲学が重要であるとおっしゃいましたが、そうしたことを大事
に思われたり、「かわいい子には旅をさせよ」とか「もったいない」というような、
日本人が忘れてしまったことを思い起こさせる語り口をお持ちになっているのは、仏
教を拠り処とした生まれ育った環境からのものであろうと思います。
 さらに、子どものころにバングラデシュの独立戦争の修羅場と言いますか、辛いと
ころをかいくぐって生き延びておいでになった。それゆえに、若い人たちこそぶつか
りの体験の中で自分の人生をつくり上げていき、そして学んだことを後輩たちに伝え、

医学というよりもむしろケアのことについて関心を持っていただきたいと願われてい
ます。
 すでに亡くなりましたけれども、京都の町のお医者さんで松田道雄という方がおい
でになりました。その松田先生が晩年、人間には何がいちばん大事なのかということ
について、それは、医療ではなくケアなのだとおっしゃっています。松田先生は、
「親しい人の心のこもったお世話」とおっしゃっています。しかし、それは、とても
簡単なものではありません。「患者さんや障害を持った方と親しくなることがチャレ
ンジで、そして心を持ってお世話し続けるということは、さらにチャレンジだ」とい
うふうに松田先生は日本人として、医者として言葉を残されました。これは、バブさ
んが叔父さんから学ばれた、アジアの仏教の中にある「人間として人間のお世話をす
る」ということと繋がっているのではないかと思って今日は感じるところでありまし
た。どうもありがとうございました。 (了)

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