「医者どろぼう」への医療改悪

色平哲郎
Irohira Tetsuro
長野県南佐久郡南相木村診療所 所長

いろひら てつろう:1960年生まれ.東京大学中退後,世界を放浪し,医師を目指し京都大学医学部へ入学.1990年同大学卒業後,長野県厚生連佐久総合病院,京都大学付属病院などを経て長野県南佐久郡南牧村野辺山へき地診療所長.1998年より南相木村の初代診療所長.外国人HIV感染者・発症者への「医職住」の生活支援・帰国支援を行うNPO「アイザック」事務局長.

 「ほとんどの病気に薬はいらない.私たちの体は,自前の防衛力をもっている」
 「下痢の子どもに水分をたくさん与えることは,どんな薬よりも大切である」
 「注射は頻繁に必要とされるものではない.医学的な手当てを要するほとんどの病気は,口から取り入れる薬によって,注射と同じかそれ以上の効果をあげることができる.一般的に言って,薬を注射することは,経口薬を用いることより,ずっと危険である……」
 あなたはこの記述をどう受け止めるでしょうか.
 民間療法の宣伝? 健康ガイド? いえ,そうではありません.
 世界中で聖書のつぎにたくさん読まれている『Where There Is No Doctor』(ディビッド・ワーナー著)の邦訳『医者のいないところで@村の健康管理ハンドブック』(河田いこひ訳/自治医科大学学生有志協力)からの抜粋です.
 『医者のいないところで』は,文字どおり,山間へき地や孤島など,医師がいない場所でどのように病気やケガ,出産,公衆衛生などに対処すればよいかを記した「プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)」のバイブル.途上国で医療に携わる者には欠かせない本です.
 私は,原著者と翻訳者の橋渡しをするかたちで,日本語訳プロジェクトにかかわりました.原著者の「営利目的の出版には与しない」との意向から,現在,私のホームページ上(http://www.hinocatv.ne.jp/~micc/Iro/01IroCover.htm)での無料公開を準備中です.
 世界各地で,この本は重宝されています.
 文字が読めない人にもわかるようにとイラストが多数使われ,すでに80数か国語に翻訳.医師がいなくても,人々が健康に暮らしつづけるための方法が,温かく,実践的に解説され,本自体の評価はきわめて高いようです.けれども…….

 いま「医者がいる日本」で,この本が必需品となりかねない危険な事態が起きています.
 日本でも,1961年に「国民皆保険」が実現し,誰もが,いつ,どこで,どの病院にも「分け隔てなく」かかれるようになるまで,国民は劣悪な医療にガマンを強いられていました.よほどの金もちか,権力者でなければ十分な医療を受けられませんでした.
 私が診療所長を務める長野県南佐久郡#南{みなみ}#相{あい}#木{き}村には,「医者どろぼう」という言葉が残っています.かつて医師の診察を受けると,ごっそりおカネをとられました.「命が惜しけりゃカネを出せ」.現金収入の乏しい山村では,医者=どろぼう(のような者).村人は病気になっても医者にかかるのをためらい,働けない病人は厄介者として家の奥の薄暗い部屋に押し込められたままお迎えを待ったのです.
 その後,国民皆保険制度のもと,経済の高度成長と医療技術の進歩に支えられて人々は平等に医療機関を利用できるようになり,平均寿命が延びて高齢社会が到来.もはや「医者どろぼう」は死語になったはずでした.
 しかし,小泉政権下,「医療改革」の名のもとに暗黒時代再来の予兆とも言える動きが際立っています.その象徴が,宮内義彦オリックス会長率いる「規制改革・民間開放推進会議」が政府に「混合診療の全面解禁」を迫った一連の動きです.
 混合診療とは「(3割自己負担の)公的保険診療と,全額自己負担の保険外(自由)診療の併用」のことで,健康保険法では原則的に混合診療は禁止です.たとえば,入院中のがん患者が,未承認の薬を使った場合,すべて保険外診療と見なされ,本来保険適用できる検査や入院費まで全額自己負担となります.だから「あらゆる治療に混合診療を認めよ」と推進会議は主張します.
 一見,患者の側に立っているように感じられますが,ここには大きな落とし穴があるのです.
 第1に「保険診療か,保険外診療か」を決めるのは医師と患者の「一対一」のやりとりで,とする点です.治療にかかわる知識や情報は,圧倒的に医師のほうがたくさん握っています.重い疾患をもつ患者は,ワラにもすがる思いで病院へ行きます.そこで「新しい薬があるけれど,保険外診療です.使いますか」と医師から勧められて,「ノー」と言える患者は,ごく少数でしょう.薬や治療法の安全が必ずしも保証されないまま,見切り発車で治療が行われる危険性が高いのです.
 第2は,いったん自由診療と見なされた薬や治療法は,「永久に」保険適用できなくなる可能性を否定できない点です.効果的な治療法は,保険で安く,広く,大勢が使えてこそ価値があり,普及することで値段も下がるのです.しかし,「よい薬」が自由診療に限られたら,医療費は高騰します.
 第3に病院側の「言い値」で自由診療を受けるには,あらかじめ民間の医療保険に入ることになりますが,保険会社は儲けを優先するので加入者の選別が行われます.
 つまり混合診療全面解禁は,先進国で唯一公的医療制度が機能していない米国(7人に1人が「無保険者」)をまねることになるのです.米国医療について関心をお持ちの方は映画『ジョンQ』(2002年)をご覧ください.
 2004年12月,さすがに政府も問題の多い「混合診療全面解禁」は見送り,いったん自由診療枠で認めた医療行為も,普及すれば早期に保険枠にとり込めるように制度を根本的に見直す方針を示しました.新聞報道では,乳がん患者の乳房再建術など,難易度として中程度の約100の技術を,中規模病院を含めた2,000の病院などで行えるようにする具体案を厚生労働省が提示しました.
 とはいえ2005年度以降も混合診療問題は「継続協議」が認められており,推進会議は依然,全面解禁への旗をおろしていません.さらに「株式会社病院」「保険者機能の強化」など,医療市場の開拓に突き進もうとしています.
 「国民皆保険」制度は,先人が,長い歳月をかけて勝ちとった日本医療の屋台骨です.再び「医者どろぼう」などと呼ばれる日がこないよう念じつつ,医療政策の動向をしっかり見守っていきたいものです.
 本連載では,医療制度の変化と医療現場の動向を,山村の診療所長の目を通して,わかりやすく解説していきたいと考えています.

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