第4回公開研究会

「地域医療と協同の社会−金持ちより心持ち」

         色平哲郎

ビデオ上映(南相木村診療所に研修に来た医学生をレポートした内容)〜



〜〜メディアの時代と心持ちの学び〜〜

手前味噌のものを見ていただきましたが、いろいろな思い出があるこの映像を、私はできるだけ見ないようにしています。私はお坊さんではなくお医者さんですが、似たような仕事をしています。今日は医学生さんの参加が多いそうですね。医者になればすぐに分かることですが、村に一人しかいない医者は死亡診断書を出すことになるのです。ですから、この映像は私にとってお弔いであるという意味もあります。地域医療を目指す人には格好良く見えるかもしれませんが、そんなこととは関係無く、高齢化した山村ではお弔いが多い、ということは言わねばならないことです。

また、この映像には問題があると私は思います。皆さんどうお感じになりましたでしょうか?まず始めに研修に来た学生達をおとしめて、三日目に持ち上げるという手法を使っていました。これは編集上のテクニックとしては良くある「やらせ」ではないでしょうか。人間の意識というのはほとんど変わるようなものではありません。皆さんの周りにある新聞やテレビの報道でもそうだと思いますが、それらは編集が掛かっている。悪意ではないと思いますが、意図を持って編集を掛けてあるということです。皆さんの目の前にある様々な情報は編集が掛かっています。学生さんは問診するときに悪意でお婆さんの話を聞かなかったわけではないと思いますが、「聞かなかった」という決め付けのナレーションが掛かっていました。そして二日後には「お婆さんの話が聞けるようになりました」とストーリー性を持たせていることにお気づきになりましたでしょうか。つまり、我々はメディアの時代に生きていますので、本当の自分のぶつかりの体験が、だからこそ、大事になると私は思います。

今日は「地域医療と協同の社会―金持ちより心持ち―」という題にしましたが、これはもちろん笑っていただくためのものです。私は金持ちになりたいのですが、金持ちになる能力もないし力もない。残念です。金持ちになりたいのだけどなれない、やっかみの気持ちで「心持ち」になってみたいという風にやせ我慢で言っているのだと思ってください。

私は村の中で心豊かな人達に囲まれています。その心豊かな人々の前に出ますと、自分が心貧しい人間であるということに気付かずにはいられません。それは『おしん』の時代の山村のご苦労を身に刻んだ人が目の前にいるからです。私達の新しい日本、それはつまり、電気があり、きれいな水があって、「かきくけこ」と言いますけれども――金と機械と車と携帯電話とコンビニのことです――そういう便利な時代に生まれ育ったのではない、「日本原住民族」のご苦労の体験を聴き取ることは大変勉強になると思うのです。そういう人達の心豊かな感覚から学ばせてもらう。また、私が学ぶだけではなく、来た学生さん達を「悪の道」に誘い込むという意味で、地域医療という苦難の道に誘い込んで行っているわけです。地域医療はずいぶん大変です。この大変さと楽しさというのは大学や大きな病院ではとても味わうことのできない奥の深いものです。


〜〜この人に付いていきたい〜〜

それでは皆さんにご質問しますけれども、佐久病院という名前を聞いたことがある方、手を上げてください。…皆さん聞いたことがありますね。有名な病院なのですね。私は知りませんでした(笑)。私は学生時代にほとんど知らなくてフィリピンに行って”Saku General Hospital”と英語で聞きまして、日本に帰ってきてから若月先生の本
を読んで遅れて知りました。海外で有名な病院です。途上国で、その素晴らしいプライマリー・ヘルス・ケアの活動で有名です。今のような大きな病院になる前のことです。(演者より:佐久病院の英語表記について、若月俊一先生は、「英語の普通名詞としてはSaku General Hospital(SGH)が正しい、しかし、私は『農村医学のコア、つまりセン
ター』としての理念を担うべく、あえて、意識的にSaku Central Hospital(SCH) と名乗っているのだ」とおっしゃっておいででした。)

1950年代の、まだまだ日本が敗戦後の混乱期に若月俊一というドクターがいました。皆さん佐久病院の名前をご存知ということは、この若月俊一という大先輩をご存知かもしれません。今年で94歳になります。佐久病院は長野県にあります。私は新潟県の出身で、長野とは縁がありませんでした。佐久病院の若月ドクターは偉すぎて私にはちょっとわかりません。その弟子である清水茂文というドクター、前の院長ですが、私の先輩にも当たる方で、この清水ドクターに出会ったとき、私はこの先生に付いていこうと決心して今に至っているのです。皆さんも、「この先生に付いていきたい」という先生に付いて、何年か修行してがんばってみるのも良いかもしれません。何かをやりたいとか、小児科医が良いとかを自分で決めない。「この人が良い」と思う人の指導・監督superviseの下に、しばらく人生の修行をしてみるのも良さそうじゃないかなと感じます。

若月先生の思い出話については清水ドクターからいろいろと伺っています。若月先生ご自身に私は叱られたことがありまして、名誉なことだと思っております。私が研修医のころ、HIV感染したタイの方々がずいぶん長野においでになりましたので、彼らの生活相談を受けておりました。研修医の癖に生意気なものであります。捨てられている人達、日本にいないことになっている人達です。しかしHIV感染ということは、いずれエイズが発症するわけです。そういう人達が癌に罹ったり、あるいは帰国相談など、「医職住」の問題、つまり医療と職業的な問題と住宅の相談を受けていました。私は無免許で、医者なのにそういうことをしてはたぶんいけないですよね(笑)。住宅の相談も職業紹介もして、研修医の癖に生活相談を受けていました。

そのころに若月先生に呼ばれまして、「君、正しいと思うことをやっているのは良いんだ。僕も支援したい。君を支えるために佐久病院に外国人労働者の支援機関を作ろう。月に一回、君の友人のタイ語の通訳と、君の友人のスペイン語・ポルトガル語の通訳と、君自身が英語で通訳をして。外国人の労働者――特に女性が多かったですけれども――彼らを支援するのは構わない。しかし、君に一言叱らなくてはいけないことがある。君ね、正しい事をやっていると思ったら、八割方正論が通ると思っているかもしれない。しかしそれは甘いんだ」、「僕はこういうやり方をした」と仰いました。若月先生流ですね。「まず酒を飲め」。サク病院はサケ病院です(笑)。「村の人とのやり取りだよ。村のお爺さんお婆さんとのやり取りだよ。村の有力者とのやり取りだよ。55%を取るんだけれども、五分五分に分けたようにしろ」、「五分五分で話を分けてそして意気投合したようにするんだが、しかし55%取れ」。それが若月先生の私を叱った言葉でした。55%を取り、相手を45%にするという意味が良く分かりませんでした。今でも良く分かりません。


〜〜村社会と心理的格闘技〜〜

村の中に入ると、いろいろなぶつかりの体験があります。地域医療はある意味、医療ではないとも言えるからです。地域医療というのは地域の有象無象との心理的な格闘技、ボクシング、プロレスであります。

私はヘボ医者たらざるを得ません。なぜかというと、一人しかいない医者だからです。私の後ろには180人のドクターを抱えた佐久総合病院もありますし、同僚達も小海分院というかたちで私を支えてくれています。しかし南相木村で一人で診療するということは、誰とも相談ができないということです。また、検査をすることもできません。私は胃カメラができますが、すぐその場でできる体制にはないでしょうし、血液を採ることはできが、それを持って小海分院に行かなければならない。私が検体を持って行って、FAXで結果を受けている間、村は「無医村状態」になるわけです。今日も私は東京に来ていますから、今もそうです。つまり、一人でやるということは自分が動かなければ物事が少しも進まない、また動いている間は医療に空白ができるという非常に怖い綱渡りであります。また、診断がつかない、「大丈夫だよ」とは言い切れないのですが、入院はさせずにご自宅にお帰りいただくということがままあるわけです。

もし私が佐久病院の医者でしたら、名医に成り得ます。きちんと診断して、リファーラル referral(紹介)し、専門の先生に「大丈夫だよ」と言ってもらったコメントをつけて、皆の知恵でその方に太鼓判を押して「どうぞお帰りください」と言えます。しかし、それはできない。昨日の診療でもそうでした。私は今日、患者さんの家に電話で「どう、大丈夫?」と連絡を入れることになっています。それは私の気持ちとしては、私はヤブ医者だから、昨日は適切に診立てているかわからないから、「今日は大丈夫だったかな」と思って電話しているだけなのです。しかし村の人はどう捉えるかというと、「あの先生は親身になって心配してくれている」と思うのです(笑)。それは単なる誤解で、それは私がヘボ医者だから注意しているだけです。医者の気持ちと患者の気持ちは、すれ違っていてむしろ当たり前だと私は感じました。

村人が心持ちだというのは、実際そうかもしれませんが、必ずしもそれだけではありません。日本社会というのは全体が村社会です。どこにいっても村社会なのです。医局講座制という大学の中もそうですし、たぶん官庁とかお役人の世界もそうだと思いますし、会社もそうだと思います。村社会の集まりです。そういう村社会の中では、どういう風にしないと生き残れないのか、皆さんはぶつかりの中で勉強された方が良いと思います。私もずいぶん若月先生にも叱られましたし、清水先生にも叱られましたし、さっきの映像にもありましたように保健婦さんにも叱られました。

この保健婦さんは、私の地域医療の師匠でもあります。この方はとても地域で長く活動された方で、人気投票だったら村長に選ばれる方です。しかし、女性ですから、保健婦さんですから、いろいろな意味でその人望を警戒されています。村の中のバランスというのがありまして、ある人がとても力があると、それだけ警戒される。皆の心の中に住み込んで、保健師として十分な仕事をし、公務員であることを超えて24時間ボランティアプラス公務員をした保健婦さんが、悪口を言われているわけです。つまり、公務員の中では彼女がいるということは、他の公務員が働いていないということがばれてしまうという意味もあるのです(笑)。

私はそれを発見したときとても悲しかった。私も日本人ですから、「愛国者」としてこの日本がどうなっていくのか、行く末がとても心配です。つまり皆さんががんばればがんばるほど周りから浮き上がってしまうという日本社会、正論を言えば叩かれる日本社会です。私はこの日本の国が少しでも良くなるようにがんばってみたいと思っているけれども、そうそう簡単なことではないということも段々分かってきました。

若月先生のように60年やられて、その先生でさえ「自分の仕事は2割くらい」、「地域の民主化ということについてはほとんど手をつけることができなかった」と仰っております。60年間の若月先生の仕事を振り返って見ますと、私はフィリピンでドクターワカツキのお名前を聞いて、そのラインを逆にたどって日本に戻って来ました。そして彼に叱られたり、ほかの病院に修行に出されたこともあったり、いろいろなことがありました。

そういう中で、若月先生のご苦労が本当の意味で分かってきたかなと思ってきたのは、村に入ってからです。前の村で2年間保健婦さんと一緒にやって、その後、無医村っだった今の村に入って、通算で9年が経ちました。それで村の良いところも悪いところも少しだけ分かってきました。まだまだ若月先生の60年の体験には全然及びませんけれども、7年か8年やってちょっと分かってきて、9年目に「う〜ん、そうかやっぱり一筋縄じゃいかないな」と思うようになりました。

日本社会の村のありようというのは、とても心理的な格闘技である部分が多いものです。正論は通らない、言葉でかっこうつけても駄目です。しかし、医者であるということで入り込める。どれくらい身内意識で固まっているのか。その中に、地域共同体ならではの涙と笑いがあるわけです。それを感じ取ることができる感覚が皆さんにあるとすれば、地域医療で多少はやれるでしょう。

私ももう9年目か10年目になってくると自分の医療技術がアウトオブデートになってしまうので、「そろそろ戻ったほうが良いかな、けれど、どうかな」など、いろいろ考えます。皆さんもそういうことを、現場に入って10年目くらいになると考えざるを得ないと思います。医療はそういう意味でやりがいのある仕事ですから、皆さんの前途は洋々です。しかし、それは皆さんが下働きをやるということです。皆さんが偉い人間になるということを考えてはいけません。皆さんは人々の下働きになるために、お医者さんになるためにたくさんの国民の税金を、たとえ私立の医科大学であっても、皆さんは数千万円のお金を国民からいただいて医者になるわけです。だから医科大学の中で、自分に能力があるから私は医者になって当然という人は、本当はまずい。そういう人は後で必ず困ります。自分がサービス業であるということに気付けるかどうかが、皆さんの医療行為が逸脱したり訴訟になったりしない、とか、皆からの納得を得られるかというようなことを試す大きな試金石となるのです。

今日の資料の中には、総研いのちとくらし研究所に送ったイラクのことのメールもありますし、山の中にいても面白いことはいろいろできます。今の時代はそういう時代です。また今、日本の医療システムも大きく変わりつつあります。混合診療というものが導入されますと、大きく変わってしまうのではないかと思います。資料にある中越震災の支援ということですけれども、私の故郷は新潟ですから、先週の土日は、自分の故郷に支援に行っていました。

さっきの映像の中に、家具職人のおじさんが出てきます。私の友人です。村に外から入った人―外の人を「風の人」と呼びますが―風の人だけれども「土の人」達の論理をいかに汲み取っているべきなのかを考える、そういった友人を地域の中に持てるかどうか。その友人は皆さんの医療への試金石です。「あなたはちゃんと下働きができていますか」「鼻が高くなっていないですか」ということを日々試すためにこそ、こうした友人からの忠告は必要です。


〜〜風の人と土の人〜〜

60年の佐久病院の歴史ですけれども、その2倍、120年前の佐久について申し上げましょう。120年前の佐久に何があったか知っていますか?120年前、明治17年11月といえば、秩父事件ですね。どういう事件だったか、それは私には分かります。私はノンポリに近いような人間ですし、その上、政治に関心が無かったはずだけれども、村人の話の中に秩父事件があるので知っています。打ち壊した側、打ち壊された側、家の歴史として伝わっています。一回二回ではそんな話にはなりません。でも、往診をして「この家は一回燃えたんだ」、「この家は一回滅んだんだ」、「この罪人を出したんだ」という話の中に、明治政府がどういう政府であって、そこでどういうことが起きたのか、「自分達は泣きながら蜂起したんだけれども」とか、「泣きながら蜂起した連中に焼き討ちにされて大変な目にあった」とか、そういう本音が出てくるのです。

中国の人も「墨で書かれた歴史はウソもある。しかし血で書かれた本当の歴史は打ち消すことはできない」と言っています。語りの中に本当の歴史があるということに気が付いてください。皆さんがどこでお医者さんをするにしても、そこの地域で100年前にあったこと、時には200年前にあったことが伝えの中にあります。そういう私達日本人が忘れてはならないようなまだ貧しかった時代、アジアの途上国であった時代、そしてその中で我々の先祖がいかに苦闘しながら現在のこの豊かな日本を築き上げたのかが、語りの中にはあります。戦争の体験はどうであったのか、ということをお聴きになる良い機会になると思います。

皆さんはお医者さんとしての腕も磨かないといけません。私は告白しますけれど、ヘボ医者に過ぎません。しかし、ヘボ医者なりに信頼を得て、そういう話を聞かせていただいています。例えば信州であれば、「貧しかったから村を分けて満州に行った。満州ではこういう生活だった。開墾だと思って行ったら、すでに農地は開かれていた。その開かれた農地で、麦で中国人を雇い、米で朝鮮人を雇って使った。開拓民だったはずなのに、自分達には機械はないけれども今で言えば機械があるような生活をした」といった話を聞かせていただくことがあります。なぜ農地が既にあったかというと、もともとは中国人が開墾した土地を取り上げたものだったということが分かってきます。私達が理屈を後でつけるにしても、農民達あるいは庶民達のいろいろな記憶の中にあるものを掘り起こします。すると、「ノモンハン事件はどうでしたか?」「ブーゲンビル(ラバウル)はどうでしたか?」あるいは「タラワやマキンといった南太平洋の島でどういう戦いがあったのか」ということは、ちょっと言い辛い、言いにくいところがあります。酒でも飲まなければ語れないようなところ、涙の話があり・u桙ワす。そして引揚げのときに、多くの信州人がなかば死にかけた状態で帰ってきました。皆、難民になった。難民になった記憶も、こちらが聴きだそうと思って聞けるものではありません。何度か通っているうちにたまたまその話になり、たまたまご仏壇の中に小さな骨壷があって「引揚げのときに死んだ娘の骨壷です」と言ったときに、その「引揚げ」という言葉の意味が分かるかどうか、それが試されています。分からなくても同じような語りがあちこちにあります。ここで聞いた話を「ここで聞いた」ということだけにしないで、外部には漏らさずに、その上で次の話を聞けるようにしておくと、「この地域はこのような思いがこもっているんだな」ということが分かります。

我々のように外から来た人間にも、むしろ外から来た人間だからこそ、縁がない人だからこそ、無縁の人間には語っても良いのです。あなたに初めて会い、むしろ本音をしゃべることができます。なぜならあなたは二度と会わないかもしれないからです。「この学生さんは、私の係累とは決して会わないだろう。話は漏れないだろう。」そうお感じになれば、研修に来た学生さんの方が私よりも更に心の襞を聴きやすいのかもしれません。来た学生さんにはもう二度と会わないことを前提に、いろいろな人生の苦難の話やぶつかりの体験を語りかけてくれる。それは皆さんにとって見ると21世紀を生き抜く上で、あるいは医者としてこの医療への大波の時代を生き抜いていく意味で大きな学びになるはずなのです。私にとってはそうでした。歴史というものは誰かがある立場で書いて本の形になっているものだけではなく、語りの中、オーラルヒストリーの中に、物語の中に歴史があると感じた次第であります。

村というのは面白いです。例えば、村のお母さん達は、自分の娘に自分と同じ苦労をさせたくないのです。農家のお嫁さんの苦労をさせたくない。だから自分の娘は都会に出したい。彼氏を見つけるのだったら、都会者と一緒になれと暗黙の指示を出していると言っても良い。しかし、自分の息子に嫁が来ないと何百年も続いた家が続かない(笑)。だからそうなると本当に困ってしまう。いっしょに酒を飲んでいると、どうしようにもなくて困り果てているのです。私のところにはたくさんの医学生が来ます。看護学生も来ます。女の子が多いわけです。「なんでこの診療所長がこんなにもてるのか?」ということになって、彼らは誤解している。私がもてているわけではありません。村のご老人方の魅力に釣られて何度もリピーターが来ているに過ぎないのに、一緒に酒を飲んでいると「一人、娘さんを家の嫁になんとかならんか」と言い始めます(笑)。笑っちゃいけないですよ。本当に大変なのです。

何でそんなに自分の娘を都会に出したがるのか、これを皆さんは考えたことがありますか?医療職になると見えないけれども、介護職になったらすぐに分かります。日本では介護労働を女性に肩代わりさせてきた伝統があるのです。だから大家族の家へお嫁さんとして入る事は、その家のお姑さんとお舅さんと自分の旦那さんの3人を看取り、50年後になって、やっと、よそ者であった嫁がその家の人間になれる、となっているわけです。こんな封建的な感覚、皆さん許せないでしょう?あるいはここにいる女性もそうだけれども、50年間そういう家で嫁をやれますでしょうか?好きでもない人と、と言ったら言い過ぎかもしれないけれども(笑)。

…信州でしゃべるときはもう少し慎重にしゃべります(笑)。村人の中に染み付いた日本人としての有様、その中の欠点がこの間の戦争を引き起こしたのだと思います。そして、その中の良いところを頑張ったから、この高度成長を生み出したのだと思います。我々の知っている日本の歴史をどういう人が担ったのでしょう?それは庶民が担ったのです。庶民の努力によって作り上げられた。庶民が協力したからこそ戦争ができた。そういう庶民の有様というのを、私は世間知らずだったから後になって勉強させられました。非常に難しいです。


〜〜パッチ・アダムスと日本の医療〜〜

介護、医療…皆さんにいくつか質問した方が良いですね。パッチ・アダムスという人の名前を聞いたことがある人?…知られているんですね。私は全く知らなかった。この間、パッチ・アダムスと対談しました。知らなかったのに対談してしまいました。というのは、ある人から「一緒にしゃべってよ」と言われたからです。30分程で1300人位聴いていました。あんまり人が多すぎると、会場も暗かったし全然訳が分からないから、緊張もしなかったですね。

パッチと意気投合してしゃべりましたが、パッチは言っていることがおかしい。『パッチ・アダムス』という映画があります。その映画を見ると、夢の映画みたいです。皆さんもそれでイメージができていると思います。私も対談しなくてはいけなくなったので、映像を借りてきて見ました。見てから行って、楽屋でしゃべっているときに分かったのですが、実は彼はその映画が大嫌いなんです。「なんであんなハリウッド映画を作ったんだ!」と言いまくっている。「だったら撮らせるなよ」と思うのですが、しかし、お金を集めなきゃいけない興行主としてのパッチとしての有様があるのかもしれません。パッチはアメリカに帰ってから私に手紙をくれました。アフガニスタンで撮った写真だということで「皆でアフガンに出かけたんだ。ぜひ、また会いましょう」と書かれていました。光栄なことだと思います。

彼に会ったときに気付いたのですが、彼は本質的にアメリカの医療に対して憤懣がある人です。差別されている人が多い社会で、皆が掛かれない医療体制であるアメリカに対して、ものすごく怒っている人です。私が日本の、皆保険体制にある医療のことを説明したら、「すごいじゃないか」と言いました。アメリカ人のパッチにとって3回目の来日で、「やっとおまえみたいな奴に会えた」と私に言ったのですが、それまで話が合う人に全く会わなかったそうです。「どういう人に会ったのかな」と思ったのですが、恐らく偉い人が招いたのかもしれません。私のような野人と会って、「意気投合した」と言ったあと、「日本の医療システムは良いよね」と言いました。日本では保険証があれば誰でも医者に掛かれますが、アメリカではそんなことは有り得ません。また「医者を選ぶ権利もあるんだ」とフリー・アクセスがあることを私が話した。彼は「へぇ!」ともう本当に舞い上がった。それがパッチの感想です。

パッチ・アダムスについては他にも面白いことがあります。彼はテレビが大嫌い。大統領のジョージ・ブッシュが大嫌い。彼のしゃべっていることをそのまま直訳すると、もう講演会が成り立たない。内容が「ブッシュの糞ったれこの野郎!」と言っているわけです。私は英語で分かるから「そのまま英語を訳せないよ」と思ったのですが、通訳もやはり困っている。本当に四苦八苦しました。でも面白かった(笑)。

つまりね、映像の中にはウソがあるとは言わないけれども、映像が編集されているのは明らかなわけです。あのとき一緒にいた、安曇野ちひろ美術館館長の松本猛さんもパッチと意気投合しました。彼の母親であるいわさきちひろさんについても、「映画を撮らせたい」とか「撮りたい」という話がずいぶんあったし、あるそうです。女優でちひろ美術館(東京)館長の黒柳徹子さんも、自伝的な映像を撮りたいという話がずいぶんあるのでとても警戒しているという話を楽屋で3人でしていました。

どうしてそんな話になったかというと、自分を描かせるために商業映画がどれくらい「やらせ」を撮るのかという話になり、パッチは自分がどう描かれるのか分からなくて、1700のエピソードを提供したと言ったことからです。その中をうまく摘んで、一番面白いストーリーの映画を作ったようで、事実とは違うところがあるそうです。ロビン・ウィリアムズという男優がいますが、映画の中では歳を取ってから学生として医学部に入ることになった。しかし、事実のパッチは20歳で入ったのであって、別に歳食い学生ではないのです。精神病院で苦しんだ後、自分のぶつかりの体験の中で医師を目指す。これは本当なのですが、ロビン・ウィリアムズが俳優としては歳で、20歳の学生を演じられないからそうしたというだけのことです。もう一つ事実と違う点は、「Gesundheit
Institute」を作って無料の診療をやっているときに、皆のためにできる範囲の医療―日本でいえばホームレスの方々への診療とか外国人労働者の診療をやっていたのだと思いますが―そういう中で自分のフィアンセである女性が殺されてしまうという悲劇が映画の中であるのです。映画の筋をこの場で言ってしまうのも問題があるかもしれませんが、事実は彼の男性の友人が殺されてしまったということのようです。つまり事実関係を皆組み替え、面白おかしくしてしまうのが映画だということで、彼はメディアの批判をずいぶんしていました。また、ブッシュを持ち上げているメディアに対してもかなり厳しい批判をしていました。今頃、ブッシュが大統領選で勝ちそうだというので、たぶんパッチは向こうで怒りまくっていると思います。


〜〜べてるの家と「弱さを絆に」〜〜

「べてる」と言う名前を聞いたことがある人はいらっしゃいますか?いない?これは説明しないといけませんね。「ベーテルBethel」という名前の街がドイツにあるようです。そこは精神障害者がたくさん集まる街として有名だそうです。日本で「べてる」というと、北海道浦河町の「べてるの家」のことを言います。「べてるの家」は精神障害者が自分達で集まっているところです。大体100人位で、どんどん結婚して子供の数が増えているという説があります。読売新聞「医療ルネッサンス」に、2004年7月27日から5回連続で「べてるの世界 統合失調症と生きる」という記事があります。読む機会がありましたらご覧ください。(編集部注:読売新聞のサイトから概要を読むことができます。)

べてるの家には、理念というか「べてる語録」があります。

まず「弱さを絆に」と言います。皆さんは強い人間でしょうか?弱い人間でしょうか?例えば私はずいぶんしくじりがあり、大学を中退した親不孝者です。家出をし、キャバレーでボーイをやってぶらぶらし、行き場がなくなって外国に行きました。その後医学部にでもいくかということで、こんなに根気のない人間が医者になるはずが無かったのですが、なぜか知らないけどなんとなく医者になった。ここで親孝行しているのかもしれません。しかし、たいした医者にはなれなかったという感じです。「弱さを絆に」とべてるに言われて、救われました。人間、強くはないということが良く分かる。「公私混同大歓迎」という言葉もある。これも救われます。私は公私混同してしまう人間です。「病気に助けられる」。…私は精神障害の病歴はないですが、性格障害の病歴はありますからね(笑)。関係障害の病歴もありますね。皆と喧嘩してしまったり(笑)。関係障害者だから彼の気持ちも分かります。後は、「利益のないところを大切に」ともあります。これからの医療で利益のないところを大切にできる医療機関は、これから伸びるかもしれないですね。「安心してサボれる会社作り」・u栫i笑)。今の時代に逆行、小泉改革に逆行しています。

私はべてるについて、以前から知っていました。佐久総合病院の第9回若月賞(全国の保健医療分野で「草の根」的に活動されている方を顕彰するために制定されたもの)を「べてるの家」と川村敏明ドクターが2000年に受賞しておいでになり、この集団との付き合いがあったんです。現地に足を運んだのは2003年です。夏休みに家族5人で行きました。「活発な息子さん、娘さん達が来た」ってずいぶん構われ、うちの子供達はべてるの仲間と一緒に遊んでいました。

「昇る人生から降りる人生へ」。これもなかなか言えないことです。ずいぶん挫折体験を持って、自分の中で辛い体験を積み重ねた上でのことでしょう。「差別・偏見・大歓迎」。これもなかなか言えないと思います。私が友達になった彼は「私は精神バラバラ状態のナントカです」と自己紹介をするわけです。そして「僕の妄想はこういうことで、こういうふうに人に迷惑を掛けて」と自己紹介をやり、皆が拍手喝采してグランプリになる、こういうのがべてるですね。

いかに人に迷惑を掛けたのか、いかに家族に迷惑を掛けたのかが話せるのです。私もそうですね。大学中退して、フラフラしてキャバレーでボーイやって。当時はキャバレーにいた女の子はまだフィリピンの女の子が来る前で沖縄の女の子だったのですが。当時私はキャバレーでピアノ弾きながらウェイターをやっていて、面白かったとはいえ、ひどい生活ですね。そういう私の恥ずかしい体験に相当するものかどうかは分からないのですが、彼らにとっては病気の体験、もっと辛いかもしれないもっと酷い体験があったのかもしれない、そういうことをあからさまに皆の前で語って「私は、だから、救われました」と言うのです。なぜなら、幻覚・妄想の定義は自分で信じ込んでいることですから、皆の前で語るときに「私はこう信じている」という話になるはずですよね。でも、それを皆に笑ってもらえるのを前提に喋るとはどういうことかというと「これはどこか幻覚・妄想じゃないか」ということにすでに気付いておいでになる、ということを意味します。「気付くきっかけを誰がくれたんだろう?」「誰によって僕は救われたんだろう?」そういう話になるのです。

私はこれを忘れられない。感動する。いかに医療が罪深いものであるか、いかに彼らを薬漬けにして幻覚を抑え、精神病院に閉じ込めてきたのか。ハンセン病施設と同じです。ずっと閉じ込めて今に至る。お金儲けの材料になっているのです。牧場の牛のように置いておけばお金が入るという制度を、日本政府は40年ほど前、ライシャワー事件の後に作ったから。

精神病院というのはいまだにいろいろな意味で偏見も酷く、差別も酷い。もちろん幻覚・妄想もある。被害妄想も感じてしまう。人に迷惑を掛けてしまう。しかし、人に迷惑を掛けた、爆発した経験がある人だからこそ「爆発救援隊」というのもあるのです。誰かが爆発しそうになっていて、すぐにそこに行き救援することができるのはやはり医者ではない。もっとも、彼らはこんな風に言っているわけではありません。訥々と語るのです。

「ミスターべてる」という人がいます。彼はなんと言っているか。散々友達を失ってきた彼が、「友達のできる病気だ」と言いました。失うだけ失った後、「冷たい風が吹いてきたら温かくして返そう」というのもべてる語録です。「あいつはナントカで」と言われているにも拘わらず。ミスターべてるは早坂潔さんという方ですが、彼のことを仲間がなんと呼ぶかと言うと「ウルトラマン」と言っています。3分、座っていられない。私もさっきからウロウロ動いていますね。落ち着きがないわけです。彼の気持ちが分かる。座って3分間を待てない。どこかへ行ったりタバコ吸ったりしてフラフラとしちゃう。これは性分なんです。だから根気のいる昆布の袋詰めという仕事を皆と一緒にできない。3分くらいでいなくなりますから。でも彼は仲間だ。期待し過ぎるからいけないという説があります。昆布の袋詰めをすると一個7円です。早坂潔が一日に5個できたら、皆が「すごーい!」と言うことにしたんだそうです。この話分かります?確かに利益のないところを大切にしている。安心してサボれる会社作りです。しかし、早坂潔は売る方はうまい。売りに行くと・u梠″竚奄ヘ症状が出てしまう。幻覚・妄想が出てくるらしい。それでパッパラパー状態になると倒れてしまう。皆が「かわいそうだ」、「潔さんが倒れちゃった」と言って、まわりのおばさんが必死になって売りまくって帰ってくる、という人なんです。本当ですよ。…いやあ、面白すぎる。友達ができる病気だ。

早坂にはY君という弟子がいます。この間群馬県にY君が来たときに再会したら、秘密の話を教えてくれました。早坂さんは40歳過ぎていますがY君は25歳くらいです。彼はかつてある研究所に勤務していて、「僕は安全な車作りと社長が言うのを信じて、安全な車を作るためにどうしたらいいのかということで、いろいろな欠点を指摘しまくった」そうです。たぶん三◆だね(笑)。そうしたら会社にマークされちゃって、4通の遺書を書かされた上でパラダイムシフトを強要された。パラダイムシフトとはつまり洗脳です。「会社のために死力を尽くして働こう」、「今自分がやっていることは会社のためになっているかどうか」、「公私混同は絶対駄目」、「時間中はこの行為が会社のためになっているかどうかを確実に考えながら取り組むように」とパラダイムシフトを受けて、「会社のために働くんだ!会社のために働くんだ!」とぶつぶつ言うようになって、家へ帰ってきたそうです。そうしたら、それをみていた隣の家のおばさんが「あれは危ない」とその息子に知らせた。その隣家の息子がたまたまべてるに出入りしている人だったので、隣の兄ちぁw)痰cF「べてるに行くから一緒に来い」と言ってY君を飛行機に乗せ、連れて来ちゃったんだそうです。彼は「会社のために働くんだ!」と洗脳を受けたまま、なんだかよく分からないけど置いていかれてしまった。彼は教会があったり作業所があったりする北海道の襟裳岬の田舎にやってきて、「ここはべてるだな。よし、べてるのために死力を尽くして働こう!」と皆の前で宣言したらしいです。すると皆がしらーっとしていて、「でもさあ、Y君。自分を助けられないで他人を助けられないぞ」と言われてしまったそうです。これを言ったのが早坂潔だった(笑)。そのうちにY君がぶつぶつ言っていると「君、SOSの出し方が下手だね」と言われたそうです。「困っちゃったら固まっちゃったり、宇宙船を呼んだりしないで、言葉で表現しなさい」と言われた。言葉で表現するということについて彼は不得意だと指摘を受けたのです。だんだん落ち着いてきたときに、早坂潔に「君の病気の名前をつけてあげる」と言われて、「言葉の糞詰まり病」という病名を貰った。

べてるの仲間では、自分で自分の病名をつけるということが伝統です。Y君は師匠の早坂潔の「言葉の糞詰まり病」という病名を自分に当てて、「そうか、僕は言葉が上手く通じるように出せないのか」、「言葉に出せるようにすれば僕の悩みを聞いてもらえるだけじゃなくて、相手のことも聴けるようになる」ということが分かってきました。「そのままの自分で百点満点だよ」という仲間ができたとき、「友達ができる病気」だと早坂潔が言っていることが分かったのだそうです。

同じ統合失調症(分裂病)の仲間が幻覚・妄想が消えるところまで医者に薬を処方されて、病院の中でだらっと暮らしているのに比べると、べてるはそんなに強い薬を使っていません。私の親しくしている川村ドクターが「もっと治して良い?」と聴くと「いやあ、こんなもんでいいわ。これ以上治されても」と言うそうです。完全に幻覚・妄想が消えちゃうと寂しいのでしょうね、多分(笑)。「今は友達もいるし、人に相談できなかった自分がちゃんと相談できるようになったのが一番大事だよね。治りさえすれば良いってもんじゃないんだよね」と言われてしまったそうです。つまり、この辺のパラダイムシフトというのは、先ほどの会社が洗脳をするのと逆だと思います。

「他人の目ではなく自分の目」とも言っています。これは皆さんにとっても大事なことです。どこかに正解があるわけじゃない。お医者さんが正解を示すわけでもない。あなたの苦悩をお医者さんに預ければ、行政に預ければ、誰かに預ければ良いわけではない。そうじゃなくて、あなた自身の目で、あなた自身の頭でどうなっているのかということを考えていく。こういう視点をべてるの中では皆で共有している。だから「べてるは問題だらけ」。いつもディスカッション。「三度の飯よりミーティング」と言っているくらい。

面白い仲間ですよ、皆さん。北海道は遠いですけど。どうしてこういう人達がいるのかな。多分、良いお医者さん、良い地域、良いケースワーカーに出会えたのだと思います。でも、それだけではないですね。自分達の中で理念を共有できるような、そういう暖かな回路、排除しないような感覚、それは散々排除されて行き場が無くて困っていた人達こそが持っている。

川村ドクターは「権威は低くしても、信頼は高めたい」と言っている。彼は日赤のドクターです。日赤病院といえば地域の大企業です。彼はこうも言っています。

「私は20数年前、地域で崇められる存在でした。でも、この20数年間、転落の一途です。かつて医者の地位・存在感は高かった。しかし、今は、どっちが医者だかどっちが患者だか分からないところに混ざってしまっています。そして、気づいたこともあります。本当のことを患者は医者に言いません。看護師にも言いません。」

なぜか。例えば、私が幻覚・妄想がある人間だとしましょう。それを看護師さんに言えばお医者さんに伝わります。けれど、それを言ったら薬を増やされてしまうわけです。なぜなら、幻覚・妄想は打ち消さなくてはいけないことなのだからです。熱とか痛みとかと同じで医師は症状を消そうとする。そうするとヘロヘロ状態になります。薬が増えればヘロヘロになる。ヘロヘロになりたくないときはドクターには言わないものだということにするわけです。ヘロヘロになれば独房に入れられてしまうわけです。しかし、メディカルケースワーカー、心理ケースワーカーには言うのです。「ドクターには言わないもんだよね」と経験を積んだ患者達は言うようになっている。

がんばりすぎると再入院になります。がんばっちゃいけません。誰か、がんばっている仲間がいたら止める。「そんなにがんばって仕事したらいけないよ。べてるの標語は何だ?『利益のないところを大切に』って言ってくれているじゃないかと」と言うわけです。「安心してサボれる職場作り」ですよ!仲間が一人揃わない、二人揃わない。「たぶん昨日、あいつ、辛そうな顔してたし」となるわけです。「あいつ」がどういう状態なのか忖度(そんたく)できる関係がある、人間関係あってのサボりです。人間関係がないところでサボったら、単に「あいつサボってる」ということになってしまいます。

こういうべてるの感覚というのがどこから来ているのかというと、「べてる」という言葉はドイツの町だということは先ほどお話しましたが、ナチス・ドイツが精神障害者を全部殺そうとしたとき、べテルの住民は抵抗したんですね。必ずしも全部は成功しなかったのですが、本当に抵抗したんです。どうしてそういうことができたのでしょう?私にはよく分かりません。ただ、医者が、医療が罪深いものだということまでは分かります。それが、患者さん方の熱意、患者さん方の創意工夫、自分の力で生きていくのだ、という気持ちを奪ってきたのかもしれませんね。

病を持ち症状を持った人達が理事になり理事長になって社会福祉法人を作り、そこの年間の売り上げが1億円。だって、早坂潔が出ていってパッパラパーになると皆で売っちゃうよね。かわいそうだし。「潔さんが来たのに」というファンもいます。早坂潔は「やあ、ここにいる川村ドクターの失敗作です」などと言うんです。つまり、治療が成功していなくて、失敗作なのだと言う。川村ドクターは「みんな勇気があるなあ、実は僕らを呼ぶとその地域の病院の人達の具合が悪くなるんだよね」と言います。そうだと思う。なぜなら元気がついてしまいますから。元気がついてパッパッとやると、がんばりすぎて絶対症状出ると思いますね。

他にもべてるのメンバーは面白いことをいっぱい言っていました。ある人は「健常者の方が病んでいる」「早速助けに行かなきゃ」と、札幌に向かって走り出した。これ実は正しいことです(笑)。健常者だと思っている連中の方が病んでいるわけです。弱さを絆にしていたら自殺しないで済みますよね。弱さを絆にしていたら人を蹴落とさないで済む。そういうところの配慮が今の社会にはない。

デンマークは素晴らしい国です。アメリカはまずいところもある国です。皆さんいろいろなところの事情を勉強されたと思うのですが、日本の中にも、仲間作りという観点でこんな活動をしているところがあるのです。そしてこういうかたちで新聞に出ると、仲間作りをしている「べてるの家」のことを北海道以外の人達が知ってしまいます。そうしたら皆が雪崩れ込んでくる。そこでアツアツカップルができて子供が生まれる。そういう方が増えて、人口が増加しているのが今のべてるの実情です。

他にもおもしろいことがありました。「全てを病名だけで括ってしまって良いのか。病気が良くなることだけを目標にしていれば、病気のことだけになっちゃう。病状の安定のことだけを考えて、悩むことさえ良くない、ストレスも良くないとしてしまっていたら、その人の幸せやその人の人生が無くなっちゃう」。これは川村ドクターの言葉です。私の言葉ではありません。こんなに素晴らしい言葉を私は言えないです。

あるとき、哲学者が「べてるの家」に来たそうです。それでミスターべてるの隣に座った。哲学者は「どんな仕事しているの?」と潔に聞かれて、「人間のことを考えている」と答えた。そうしたら潔が、「ふーん、俺と同じだな」と(笑)。そうだと思います。自分達は哲学家集団かもしれないという妄想に取り付かれているかもしれないね。べてるは地元の大企業です。私は北海道で地域医療をやっている友人の医師のところを訪ねて行ったのです。襟裳岬は、歌にも歌われましたが、風しかないところですからね。昆布しかない。でも、あんな辺鄙なところなのに、ついつい家族で行ってしまいました。


〜〜変えることができるものとできないもの〜〜

精神病を持って生きる。精神病と共に生きるということはどういうことなのでしょうか。「僕は、一生懸命病気に取りくんでいるのに…病気とともに歩むのが僕の人生だというのに…薬を飲んで、それで症状さえでなければ、それでいい患者なんだろうか、それで、僕の人生っていえるんだろうか」と、自らに問いかける現状があります。これは依存症にも通じるところです。私は大酒飲みではありませんが、先日、糖尿病の専門家のドクターと会ったときに伺いました。「糖尿病というのはバイオ・メディカルの医療モデルで、生物学的に考えられるものを超える存在かもしれないよ」と。一種の依存症で、食べるということに捉われてしまう、捉われの病気。ここではちょっと言いにくいけれど、麻薬もあります。そういう薬剤に依存してしまう人間の弱さ。しかしその弱いというのはべてる語録で言うと、「みんなが弱い」、「何かに依存したい」。その弱さを絆にできるべてるだったら、アルコールを飲んでスリップしちゃったら―アルコール依存症の人達の言葉では、飲んじゃうことを「スリップ」と言うんです。皆さんAAという略語を知っていますか?”Alcoholic Anonymo!
 us”で
す―皆で集まって「また、スリップしてしまいました」と話す。そういうことを医者のいないところで取り組む。NA "Narcotic Anonymous"もそうですよ。「また、薬に手を出してしまいま
した」と話す。

しかし、決してそれを責めるでもなく、ミーティングの最初でなんと言うのでしょうか?皆で声を揃えて言います。「神よ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの心の落ち着きをお与えください」。「変えることのできるものについては、それを変えるだけの勇気をお与えください」。「そして、変えることのできるものとできないもの、それを見分ける知恵をお与えください」。これは神への祈りの言葉になっていますね。有名なラインホルト・ニーバーという人の祈りの言葉です。

変えることができないもの、例えば、地域の中に入って医療をやること。医療をやっているけれども、地域そのものは変わらない。封建的なところも素晴らしいところも、酷いところもずるいところも全然変わらない。若月俊一という天才が60年やっても、ほとんど変わらなかった。そして高齢化の中で滅びていっている。素晴らしいご老人方がいなくなって私は寂しい。変えることができない、しかし、今の時代に変わらないってことはむしろすごい価値だと思う。頑固な人達ですよ。そういう変わらない人達についてはそれを受け入れる。無理して変えようとはしない。

それでも、変えることのできるものについては闘って、決して諦めてはいけない。ぶつかってください。ぶつかるとしくじります。自分の挫折の体験を通じて、自分の拳を痛めたその痛みをもって、変えられないものがあるのだということにぶつかって、そして気づいてください。120年前の秩父の困民党とは違います。あれは蜂起すれば死刑か追放でしたが、今は違いますよね。いろいろなこと矛盾を感じたらぶつかっていってください。変えることができるかもしれない。しかし我々は人間だから、つまり我々は弱く、皆タバコ依存症にもアルコール依存症にもなりうる存在であって、なかなか自分をさえ変革することができない。それでも、変えることができるのならば、ぜひ変えたいものだ。そして、変えることのできるものとできないものを見分ける知恵を残念なことに、人間は持ってない。「神よ」と言っていますが、別に神じゃなくても良いのです。私達はそんなに強いものではない。しかし、そんなに弱いものでもない。だから、決して責めるでもなく、威張るでもなく、できることをがんばってやろう。できることからがんばってやろう。

我々人間は弱いものですから、何かに依存して生きる。時にはべてるみたいに病気に依存して、病気であることをネタに皆に昆布を買ってもらったり、病気であることをネタに商売というか、いわゆる「まちおこし」をしてしまったり。「べてるに染まれば商売繁盛」とも言われています。「勝手に治すな自分の病気」、「幻聴鑑定団」が飛んでいって「あ、良い病気してますねえ」などと言う。でも、この笑いの中にある辛さ、だいぶ厳しいところもあるのだと思います。

佐久病院の現場は海のべてるとは異なり山の中ですが、同じく過疎化が進んでいます。皆さんが最初にご覧になったあの映像というのは、50年先の日本の平均像です。我々はあらゆる面で日本社会の中で急激に変わっていくところを見つめていますが、南相木村はそのパイオニアです。50年先の我々が老人になったときの日本の高齢化率38%を、既に当村は実現しています。皆さんが50年経ったときにはこういう日本で生きる。先ほどみたいなところで、あのおじいさんおばあさんとして生きる。そのお世話をしてくれる介護者、ケアをする介護労働者が、しかも十分な数がいなければ私達の老後がない。そういったことを「鏡」として考えることができるか。医者だけが偉い、医者だけが仕切るというようなやり方だけでは、もう社会はもたないのです。どうしてもたないのか。それは患者の満足度の問題もあり、医療事故の問題もありいろいろですが、私達の問題だからです。皆さんがご老人になったときに、高学歴の医師達だけが週に一回往診してくれるだけでは、皆さん生活できないでしょ?もっと親身になって夜でも診てくれるような看護師さんや保健師さん・u栫Aケアの人達が出入りしてくれるようでなければ、いくら高コストの医師が何人もいたところで皆さん自身の老後が暮らせないじゃないですか。「好きなところで好きな人と一緒に暮らし続けたい」というのが私達の本当の本音なのだとすれば、その介護の安心感、「あなたはあなたのままではない」、「あなたは一人ではない」という感覚は、医療関係者だけががんばっても達成できるものではありません。


〜〜誰にどこでお世話になったのか〜〜

皆さん達は是非、地球のうちの4分の1の人類は電気のない生活をしていることを、自分のぶつかりの体験の中で知ってください。フィリピンやタイに行って、そこで下痢をして帰ってきてください。ボランティアとして行っても、皆さんは何の役にも立ちません。私はいろいろなところに行ってよく分かりました。日本人は何の役にも立ちません。お金を背負っていっても混乱させるだけです。それでも、出かけてください。熱を出したときに現地の人のお世話なって帰ってくれば、日本でフィリピン人やタイの人に会ったときに、「ああ、あの時はお世話になったな」という感謝の気持ちが湧いて来て、そしてついつい声を掛けてしまう。そうした私は図らずも「人権活動家」なるものになってしまったのです…。

外国人達が佐久病院のすぐそばでたむろし始めたとき、私はちょっと言葉ができるので「どうしたの?」と声を掛けたら、だんだんいろいろな人間関係ができてきました。タイの女の子達が「先生、仲間が風邪をひきました」と言ってくる。私が診て、「よかった、大丈夫だよ、お薬を上げるから、飲んでね」と言う。するとタイの女の子達がタイ料理とお酒で、大歓迎してくれる。「どうして日本の医者はこういううれしい出会い、楽しい、素晴らしいことをやらないのかな」と私は思ったものでした…(笑)。それは差別・偏見でした。皆さんは決して人権活動家にならなくて構いません。良いことなんてやらなくて構わない。ただ、自分のぶつかりの体験で、誰にどこでお世話になったのかということをちゃんと分かっていれば良いのです。日本国民に対してもそうですよね。皆さんの授業料、医学部で学ぶための数千万円の授業料を誰が払ってくれているかということが分かれば、自ずと自分の生き方が決まってくるのではないでしょうか。


【質疑応答】
司会 ただいまの色平先生のお話、この講演自体も格闘技という感じがいたしまして、皆さんに複雑ないろいろな技を掛けたのではないかなと思います。皆さんの方から掛けられた技に対して、質問やご意見がありましたらお願いします。

質問A 医学部3年のAです。今日は本当に来て良かったと思える講演を聞かせていただきました。そこでお聞きしたいのですが、先生の夢は何ですか?

色平 まあ、夢は実現していますので。へき地みたいなところで医者をやってみようかなと思って、それが実現したので、後はだらだらやっていくのではないでしょうか(笑)。

質問B 僕も医学部3年のBと申します。僕は他の大学に少しだけ行って、医学部に入り直したのですが、先生ほどにいろいろ考えて入ったわけではないなとつくづく思いました。
 今、自分がどういうことをすべきなのかなと考えて学生をやっているのですが、学生のうちに「これはやっておいたほうが良いんじゃないか」ということがあったら教えてください。

色平 海外を回った方が良いですね。それも観光旅行ではない方が良いと思います。

日本の周りの国だと、韓国や中国は行った方が良いでしょう。韓国にはずいぶん友達がいますが、20回くらいは行きました。女房と一緒にも10回くらい行っています。学生のときに出入りしていたことが今に繋がっての友達です。「アジア人が日本をどう見ているのか」ということを、現場でぶつかれたら良いと思います。中国もそうですね。私が中国のかなり田舎に行って、「こんなところは外国人が来たことがないだろう」と思うようなところにも、ちゃんと日本軍の銃剣があるわけです。昔、我々の爺さんの世代は、兵隊として、よくぞこんなところまで歩いて来たな…、と感じてしまいますよ。戦争の傷跡がありますね。

フィリピンもそうですね。フィリピンは虐殺が多かったところです。日本兵もずいぶん死んでいます。タイは対日感情が緩やかですが、日系企業がどういう活動をしているのか、ODA、つまり政府開発援助はどういうものか、向こうの方々の気持ちに即してお聴きになったら良いと思います。

ソビエト・ロシアもアンドロポフ時代とチェルネンコ時代ですけれども、私は2回行って少数民族の方とずいぶん出会いました。ロシア人以外の民族がたくさんおいでになる。中央アジアに行くと朝鮮人がバザールで働いています。スターリンの強制移住の痕ですね。それは日本が朝鮮を植民地化したことの余波でもあるのです。そういうことを、ロシア語ができれば一番良いのですが、そうではなくてもコミュニケーションはできると思います。ポーランドはちょうど戒厳令に入るころでしたから行けなかったのですが、ロンドンで戦闘機乗りだったポーランド人に会いました。彼は祖国がナチス・ドイツとソビエト・ロシアに潰されたときに戦闘機を盗んで逃げ、マルタ島経由で英国に亡命し、ロンドンの上空で戦った人です。当然、81年に私が出会ったときの彼は、戦後共産化された祖国ポーランドへは帰ることが出来ずにいたわけです。89年、東ヨーロッパの民主化実現の報は私にとってもとてもうれしい知らせでしたよ。だって39年の大戦開戦以来祖国を離れ、50年を経た彼ら夫婦がやっとポーランドを訪れることが出来るような世の中になったのですぁw)ゥらね。私の最初のガールフレンドはドイツ人の女性ですし…いろいろな出会いがあると思います。

皆さんは時間があるうちは海外を回った方が良いでしょう。すると日本についていろいろな想いを持った人達がたくさんいることが良くわかるでしょう。別にアフガンに行けと言っているわけではありません。私のところに出入りしている医学生はアフガンに出入りしているのもいますけれど、数百人出入りしているといろいろな人達がいます。

ヨーロッパに行くと、住宅や教育、福祉などがほとんど無料であるという社会のあり方を学ばされるでしょう。日本とは合意形成の回路とありようがだいぶ違うのです。途上国に行けば、日本も昔はそうだったと思いますが、ずいぶん苦労の経験の中で若者が民主化のために闘っている。私は日本の中では学生運動の世代ではないです。しかし、韓国やフィリピンの民主化運動の中に友人達がいましたから、彼らはだいぶ弾圧を受けていて、「お前みたいなおっちょこちょいな奴は韓国なら投獄、フィリピンなら暗殺」と言われていました。それはついこの間の日本の姿でもあるわけです。そういう学生運動が良いと言いたいわけではありません。そういう熱気ある時代が私が若いころのアジアにはありました。いろいろなぶつかりの体験の中で、医者になることをいろいろな目で複眼的に見てみると良いのではないでしょうか。

質問C 私も医学部4年のCと申します。先ほど先生が仰っていましたが、私自身も「こういうふうな医者をやりたい」というイメージが、頭の中に入学のときからあるんです。地域医療ですとか、どちらかというとジェネラリストの道を歩みたいと思っています。具体的にどういうふうに研修を積んでいったら良いのかというのが今のところの疑問点、悩みまではいかない状態なのですが、その点をご教示いただけたらと思います。

色平 人生に正解がないのと同じ様に、医療に正解はないですね。あなたの人生はあなたが選ぶしかないところが人生の面白さであると思います。

ここに『Where There Is No Doctor』という本があります。この本を見たことのある人、あるいはこの本について聞いたことがある方はいらっしゃいますか?これは80数カ国語に訳されていて、『医者のいないところで』という本です。初版は1977年、著者はアメリカ人のデイヴィッド・ワーナーという生物学者です。バイブルに次ぐ世界のベストセラーです。80数ヶ国語ということは、ほとんど世界中の言葉に訳されているということでしょう。日本語にはこの間、私のところに出入りしている自治医大生と私の友人達で翻訳しました。非常に精密に「医者がいないところでどうすれば子供が生きる、どうすれば赤ちゃんが産める、どうすれば骨折を治せる」ということが書いてある本です。「プライマリー・ヘルス・ケアの世界の教科書」と呼ばれるものです。

日本の医者がなぜこの存在を知らないのか、国際保健を語っている人達も知らないのか?それは現場に行っていないからです。イラストが入っているということは、文字が読めないお母さん方のためにも使えるということです。クメール語が話せなくても、クメール人のための本を見て、自分が英語かスペイン語版を見ていれば、絵で察して全部わかります。「こういう薬の使い方はいけません」とか。本に出てくる必須医薬品は数十種類でしょう。日本の場合には1万何千種類からの薬が出回っているようですけれど、数十種類があれば新潟の被災地でも十分に間に合うのです。

このような本が日本語になっていないのは日本の医療のある特徴を示しています。つまり国民皆保険であるということです。皆保険になってから「医者がいないところ」が日本国内には存在しないのかのようになった。でも今後はへき地に医者がいなくなる時代が来るかもしれないし、あるいは被災地ではこういうものの活用が必要になるかもしれない。そういう一抹の危惧を持って、この間日本語に訳したのです。

ご質問に対する答えとしては、日本の中でどういう医者を目指すのかというように枠を狭くしないで、途上国ではどういう医療像が常識的なものなのか、先進国なるヨーロッパのいくつかの国々ではどういうwelfareがあるのか、というように保健・医療・福祉と並べていった場合の、前の保健と後の福祉について考えなければいけません。さらにinsuranceの保険についても考えなくてはいけません。日本人が、どんな技術システムとしての医療システムに支えられているのか。あなたがどんなにがんばって医療技術を高めたとしても、あなたの医療技術は技術システムに支えられている。医療システムが日本では皆保険体制であり、いろいろなところに病院があって、という医療技術そのものとは関係ないところで支えられているということは、何もない途上国に行けばすぐにわかることです。

この間、私は中村哲先生(ペシャワール会現地代表)と小一時間雑談をしました。帰りがけになって分かったことがあります。「水がないところなので、井戸を掘るために、僕は重機の運転手になっちゃったよ」と中村哲ドクターは言いました。皆保険じゃないところで医療をやっていたのだということがわかりました。若月が言っていたことを思い出します。日本が国民皆保険になる前、金のない農民達にどういう医療をやっていたのかと似ている。それから40年が経ったら、皆保険の有難さをみんな分からなくなってしまった。そのくらい、当たり前に慣らされてしまっているということにも気付かされます。そして、今、我々はその皆保険制度が空洞化してきつつあるという、また全然違うステージ領域に踏み込みつつあります。

皆さんはいろいろなところに出かけていろいろな人の話を聴いてください。日本語だけではない友達をたくさん作ってください。そして、日本の医療がどういう姿をしているのかを知ってください。日本は皆保険であるが故に混合診療が禁止されていて、事実上の国営医療なのです。国営医療ということは国が責任を持ってやっている。その国営医療の中でいろいろな不満が出てきています。しかし、国が責任を持って医療費を全部統制してやっている割には、その苦情を国で引き受けるところはないのです。どこかに電話したら医療一般に関する苦情を引き受けてくれる、そういった相談場所がない。あるいは医療事故についても、事故があると思っても、思わなくても、訴えかける先がありません。

皆さんは医学生のうちにこそ、医師としての立場性を背負う前にこそ、医療被害者である人々の気持ちを聴いてまわってください。皆さんが医学生であるからこそ本音を語ってくれるはずです。薬害の被害者のところ、あるいは水俣にも足を運んでください。そういう体験をすると、大学の中には居づらい医者になってしまうかもしれない。私みたいに札付きになってしまうかもしれない(笑)。しかし現場をまわって皆さんの体験を増やしていくことが今こそ必要でしょう。その上で自分のキャリアを決めていく方が面白い出会いがあるのではないでしょうか。

質問D 私は医学部ではなく、法学部で法律を勉強しているDと申します。私は司法書士を目指して勉強しているのですが、今日お話を伺って人が相手の仕事である部分ですごく参考になりました。ただ、私はすごくおしゃべりで自分からはたくさん話はするものの、人の話を聴くというのが苦手なのです。先ほどの映像にもあったのですが、人と話をして話を聴くということの訓練として、どんなことができるのかというのをお伺いしたいと思います。

色平 それは私も不得意ですね。しかし自分をできるだけローギアに入れてトップギアに入れずに、相手の言い分、相手の思いを聴き取るようにしています。そうすることで、大いに勉強になりますし、また、人が人によってどれくらい救われるのかということも実感できます。

先ほどのべてるの「爆発救援隊」もそうでしょう。彼らは一病者に過ぎません。誰かが爆発しそうになっているところに彼らが行って何ができると思いますか?人の話を聴くことです。その人がどう思ってどういうふうに怒っているのかを聴き続ける。「熱心に聴いてもらえて私は助かった。私が助かったんだから、今度は彼女・彼の話を熱心に聴いています」という救援隊なのです。「気持ちが通じ合って自分の中の気持ちをぶちまけることができれば、ずいぶん人間は収まるものだ」と彼らは言っていました。我々医療者は、技術に頼って注射をしたがるわけですが。

別にあなたが医者にならないからとは関係ありません。むしろ学生時代に共に過ごした仲間と、今後どういう医療をともに築き上げていくことができるか、どういう社会をともに作り出していくことができるのかが大切なのではないでしょうか。

今日は学生さんが多いようですから一言言いますと、皆さんが親の援助、親のお金で医学部なり学校なりに来ているということは、(日本では、むしろ当たり前なのかもしれないけれど、)あなたがそれを当然のことだと思っているようだったら、恥ずかしいことだ、と思いなさい。それは世界ではおかしなことだからです。皆さんが英語がうまくて「どうやって医学部に行きましたか」と聞かれたときに「親のお金で行きました」と答えたら、あなたは半人前どころか、ほんの子供ですと自分で語っているに等しいのです。メディカルスクールは、外国ではアメリカに限らず自分のお金で自分の奨学金を勝ち取っていこうとするものですよ。医学部の学生が勉強しないという悩みは、日本以外の国にはないのです。まともな講義をしなければ「おまえ二度と来るな」と医学部の教授を叱るのが医学生です。それが日本の中にないとすれば、恐るべきことです。法学部でもそれがないとすれば、やはり恐るべきことです。プロを目指すということは、非常に厳しい中で自分の身を削ったお金で学校に来ているということです。あるいは(将来返す必要こそないけれども、)みな何かを背負って、人・u梵カをかけて勉強しているわけですから。

村のことを話しましょう。皆さんが村で育った人ならば話す必要のないことです。もしあなたが村的なことが分かっていれば、どういう場合には口を噤まないといけないのか分かってくるはずです。もしも故郷があるのだったら、そこに行って自分の従兄弟達の話を聴いてください。そうすると、いかに発言することができないでいる、自分と同世代の人間達がいるのかということが分かります。村では60歳代はまだ小僧っ子で、70歳代にならないときちんと人間として扱われない。あなた達は消防団に入って、ペーペーから始めて、私の歳になって分団長をやって、それで村で一人前になる最初のところにようやく付くことができるのです。

村では「長男は利口に育てちゃいけないよ」と言われています。あなたが長男だとして、あなたが利口者でいろいろな自分の意見を言ったとします。利口者というのは村では浮いてしまう。だから家にとってもあなたにとっても可哀想なことになってしまうから、「長男は利口に育ててはいけない」と「親心で」言っているのです。村では意見を言ってはいけません。自分の意見なんかないのです。一人前じゃないから、女は人間ではないから。そういう意味では酷いですよ。そういう立ち振る舞いは、あなたが外孫だったら知らないはずです。

次・三男や娘は都会に出ます。都会に出た娘達は「故郷を捨てることが最大の贅沢です」と仰います。故郷はありますがときどき――正月とお盆だけ――外孫として自分の娘と息子達を連れて帰って、おじいさんおばあさん達の良いところだけを見ることになるのです。いいとこ取りです。おじいさんおばあさんは優しく、故郷は美しい。しかし、日常的に嫁姑関係のドロドロを見ている内孫、つまり長男の息子、特に娘達は、こんなところに残るなどとは考えられない。あなたがもし外孫であるとすれば、自分の故郷に帰って、同じ大人としての立場で、内孫達、いとこ達の気持ちを聞いたらすぐに分かります。

質問E 先生は第一線の医療機関である診療所でお働きになっていて、最近、大学ではそういうところで仕事ができるお医者さんを増やしていきましょうという政策までできました。一方でこれまで同様、専門分野を持ったお医者さんというのを作ります。その間、日本にしかないようないわゆる中小病院、地域で入院施設を持っていてそこで働くお医者さんというのが育成できないシステムになってきていると思うのです。先生は今後、日本の医療制度としてそういうところで働き活躍できるお医者さんというのをどんなふうに作り出していけば良いのか、あるいは作り出す必要性があるのかということを含めてお話を頂けるとうれしいです。

色平 まず先進国の中で、日本にはもともと医師が少なくて、病床数が多すぎますね。「プライマリーケア Primary Care」という言葉を臨床研修医の必修科で使うようになりま
したし、ずいぶん憧れている医学生が多いと思います。しかし、プライマリーケアという言葉が一体何を意味しているのかが分かりません。Primary CareとはPrimary Medical Careのことなのか、Primary
Health Careのことなのか。

Primary Medical Careというのは、医者がいる一次医療のことです。病床のない、私のいるような診療所のことで、佐久病院は、これを関連で7つ持っています。Primary Medical Careの次はSecondary Medical Care、これは二次医療です。
私を支えてくれる先輩や後輩達が100床の病院を受け持っています。これを中小病院と言うのでしょうね。そしてTertiary Medical Care、三次医療。これは1000床ある佐久総合病院がそれに
あたり、南相木村からは23km北の地にあって、あらゆる医療に取り組んでくれています。ご質問の一次医療機関である私の診療所のようなところや、佐久総合病院のような大きな病院で働く医者は増えるが、二次医療機関であるところのお医者さんは少な目になるかもしれないということですよね?

Primary Health CareというのはPHCといいますが、HealthということはMedicalがないということです。イタリア語に限らずラテン語の系統語ではmedicoというのは医者のことですから、Primary Health Careはゼロ次医療、つまり
医者が居ないところでの医療です。医者が居ないところというのは、そこでは住民だけでがんばるか、あるいはPublic Health Nurse、PHNという保健師が中心になって、住民の自分達の力を
引き出して医療活動なるものをやらなくてはいけない。だからPrimary Medical CareとPrimary Health Careというのは、違うどころかまったく対極の概念なのです。医者
がいないところで内発的にがんばるのがPrimary Health Care、医者がいるからそれに頼ることができ、リーダーシップを発揮してもらいたいというのがPrimary Medical Careです。

二次医療機関で働きたいという動機付けをどう育てたら良いかというご質問ですが、日本ではまだ見えていないところがあります。無医地帯に行って、医療が必要だけれど医者がいないところではどの様にがんばっているのかというのを絶対に見なければいけない。それからTertiary Medical Careのところで、医者としての基本的な経験を積まなければな
らない。Primary Medical Careのところに行くと、「地域の有象無象との心理的な格闘技」になってしまって、もうほとんど医療とはいえない世界になってくる。それを後ろで引き受けるのはSecondary Medical Careです。ここは私
の感覚からすると、相当、遣り甲斐のある仕事です。佐久病院がうまくいっている例だとは言いたくないですけれど、佐久病院の若手はやりたいと言っている。地域診療所が困難を極めているのは皆が知っている。なぜなら村の中、いろいろな人達がいる中に一人で入っていくのは本当に大変ですからね。でも、Secondary Medical Careのところは、佐久病院の職員という中
で、そういう困難さも垣間見つつ、医療そのものの修行もできるので、すごく人気が高いです。今後Secondary Medical Care を担う医師が足りなくなるかもしれないことを前提にして
も、私なりに医学生達を騙しているつもりがあります(笑)。

ここ(Primary Medical Care)の現場に入るのが困難であるということは分かったと思う。見た目は良いのだけれども、大変な心理的格闘技があります。すると、そういう大変な心理的格闘技を垣間見ながら医療の修行もできるというのは、実は二次医療機関なのです。先輩もいるし後輩もいるし、相談もできる。私のようなヘボ医者にならないですみます。他のスタッフもいます。いかがでしょうか?

司会 本日はどうもありがとうございました。
(2004年11月3日に実施)

(いろひら てつろう、長野県南相木村国保直営診療所長、長野県厚生連佐久総合病院医師)

※演者より付言:
医療事故報告については2005年1月31日付「日経」の記事に以下があり、国が直接に、ではないが公的な対応ははじまっているようで、大いにもてているようだ。

「医療事故報告、月に十数件・医療機能評価機構」

病院の診療体制を審査し、一定水準以上を確保しているか評価、認定している財団法人



「日本医療機能評価機構」(東京)が昨年7月に始めた医療事故の報告制度で、報告が毎月
十数件に上っていることが30日、分かった。報告をもとに認定継続の是非を決める同機構
は、審議を終えた分の半数以上は病院の安全管理などに問題があったと判断。一定期間内
の改善を求める「条件付き認定」に“格下げ”するなどの対応を取った。

続々と寄せられる事故報告に審議が追いつかないため、同機構は今年4月から、報告内容
を具体的に検討する「医療安全部会」のメンバーを15人程度に倍増する方向で検討を始め
た。認定の扱いは同部会が上部組織の「評価委員会」に提案、審議・決定してきたが、4月
以降は比較的判断しやすい案件は実質的に同部会で決定できる仕組みにし、処理件数を増
やす方針。

関係者によると、昨年7月以降、新たに発生した医療事故の報告書は毎月おおむね10件以
上、多い月で19件が全国の病院から提出されている。

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関連するインターネットのサイト一覧

・色平哲郎先生「信州の農村医療の現場から」
  http://www.hinocatv.ne.jp/~micc/Iro/01IroCover.htm

・パッチ・アダムス氏の作った「ゲズントハイト・インスティテュート」
  http://www.patchadams.org/home.htm

・べてるの家
 http://www.tokeidai.co.jp/beterunoie/index040701.htm

・読売新聞「医療ルネサンス」
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/renai/20040727sr11.htm

・『医者がいないところで』英語版
http://www.healthwrights.org/books/WTINDonline.htm

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