東京異聞 第5回
          1月20日

地方に残る「最期の作法」 


村に住もうが都会で暮らそうが、人生の「終末」は、
直面しなければ分からないことが多い。

一般に、病状が悪化して死を迎えるパターンは、三つに大別できる。

まず、若い世代のガンのように、瀬戸際まで日常生活を営んでいるが、
ある時点で急激に衰え、知覚レベルを保ったまま臨終するケース。

二つ目が、高齢者に多い心臓、肺などの臓器不全。
こちらは時々、重症化し、医療設備が整う病院に入院して
専門的な治療を受け、ある程度まで回復して退院する。
それを繰り返し、全身の機能が低下していく。
合併症での多臓器不全になると、治療がどれだけ治癒
につながるかの判断が難しくなる。
心臓の治療をすれば腎機能が悪化したりする場合もあるからだ。
患者自身が治療を望まないといったケースも出てくる。
医師や介護者は、生活を支えるためにどこまで「介入」すべきか、
見極めにくくなるのだ。

三つ目が、認知症(痴呆)や老衰によるものだ。
はっきり「これだ」というような大病を患わないまま、
数年の歳月をかけて体の機能が衰え、亡くなっていく。
意思が比較的はっきりしている状態と痴呆状態が交互にやってくる。
この場合も、本人の意思の確認が難しい。
痴呆に多臓器不全が加わると、ケアをする側にとって、
ますます方向性の見極めが難しくなる。

年をとって具合が悪くなるといっても、そのプロセスが
複雑なのは村も都会も同じ。
ただ、村には最期を見取る時の「作法」がある。
これは都会と異なる点だろう。

例えば自宅でお年寄りが息を引き取った際、
私はその方の肛門に綿を詰め、鼻と口にも詰めて口を閉じるようにする。
からだをタオルで清め、両手を胸のうえで組んで固定。
この一連の「作法」に、居合わせた女性たちや、
あるいは故人を慕う息子たちと一緒に取り組むのだ。
中には台所に隠れてしまう人もいるが、惜別の情を込めて
ご遺体のケアをする村人は少なくない。

九割以上の人が病院で亡くなる都会では、この「作法」
も他人任せになっているのではないだろうか。
 

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