原点への回帰 「医者のいないところで」 

                 メディカル朝日 年始めエッセイ 05年1月号掲載


先日、いつものように村人と向き合って診察している私のところに
『医者のいないところで』の翻訳が完成したという連絡が入った。
この本は、私が「地域医療」に目覚める原点になったものだ。

”Where There Is No Doctor”の邦訳『医者のいないところで−村の健康管理ハンドブック』である。
翻訳を担当したのは信州在住の友人で河田いこひさん。
当村に出入りする自治医科大学の学生たちが、医療的見地から翻訳作業を支えた。
私は、両者の橋渡しをする形で邦訳プロジェクトに参加した。
原著者、デービッド・ワーナーの「営利目的の出版にはくみしない」との意向から、
現在、百数十部を印刷し、加えて私のHP上での無料公開を準備中である。


言うまでもないが、『医者のいないところで』は、文字どおり、山間へき地や孤島など、

医者がいない場所でどのように病気やケガ、出産、公衆衛生などに対処すればいいかを記した
プライマリー・ヘルス・ケア(PHC)のバイブルである。
世界中で、聖書の次にたくさん読まれているらしい。
文字が読めない人にも理解できるようにイラストがふんだんに使われ、
これまでに八十数ヶ国語に訳されている。

初めて原著を手にしたのは、20年近く前。
まだ医学生の頃だった。
実際に医師のいないところでは、生命を守るためにケア、
つまり「人間として人間の世話をする」ことに自前で取り組まざるを得ない。
これこそ、医療の本質だと思った。
しかし、わが身を振り返ると、「医学」の専門的知識で頭をコンクリート詰めにするような日々。
何か違うなぁと感じつつも、ニッポンの医学生としての生活に埋没し、いつしか原著のことも忘れかけていた。

あれは1986年のことだった。
文化人類学的な関心から、フィリピンのレイテ島に渡った。
この島は、第2次大戦末期、日本軍と米軍の激戦地となった場所である。
ジプニーに乗り、熱帯の花々が咲き乱れる道路から密林を切り開いた一角に入った。
高床式のお寺に似た建物があり、木造の階段で、若者たちが地元の人たちと何か話していた。

「フィリピン国立大学医学部レイテ校(IHS)」。
建物は地域の「保健センター」としても使われていた。
ここで、生涯の友となるスマナ・バルア医師(現在、WHO医務官)、愛称「バブ」と出会った。
バングラデシュ出身のバブは、「現場」からのたたき上げで、医師を目指し勉強していた。
バブと一緒にイカダで川を渡り、村に入った。
バブが村人たちと接する姿を目の当たりにして、激しいショックを受けた。
彼は、保健師さん的な振る舞いで健康相談や簡単な投薬を行っていたのだが、
何を問診し、どんな薬を与えているのか、私にはさっぱり理解できなかったのである。


医学生の実習がそのまま地域ケアであり、医療行為だった。
同じように医師を志しながら、知識はあっても、まったく無力な自分自身に愕然とした。

そして『医者のいないところで』が現実に息づいている世界があることを知った。
レイテ校でのバブとの出会いが、「地域医療」に目覚める原点となった。


『医者のいないところで』は、第1章「家庭医療と俗信」から始まる。
「役に立つ家庭医療」「人を回復させることのできる信念」「妖術−魔術−邪視(凶眼)」と、

ケアのイロハから書き起こされる。
現代の日本では、多くの人が「貧しい第三世界、遠い国のこと」と思うかもしれない。

しかし、ふだん「国民皆保険」や医療機関への「フリーアクセス」を当たり前と感じていても、
いや、恵まれた医療システムを空気のように感じているがゆえに、
大きな天災や事故に遭遇した現場で、人々は、無力なまま放り出される……。

私の故郷新潟県では、いまだ余震が続いている。
全国の皆さまからの暖かいご支援に、心から感謝申し上げたい。
中越地震の発生直後、『医者のいないところで』を必要とする状況が各所に出現した。

同時に、私たち各人が、いざとなれば「医者のいないところで」どう行動すべきか、心しておかねばならないのだ。


一方で近年、医療界への「市場原理導入」が急ピッチで進められている。
「病院は株式会社経営で効率化、質の向上が図れる」との経済界の主張こそ、
市場万能主義に毒された「俗信」ではないか。

医療の本質は、ケア、つまり「人間として人間の世話をする」ことである。
そこに「利益追求」を持ち込めば……経済的余裕のない患者さんは、間違いなく切り捨てられる。
ニッポンを、日常的に「医者のいないところで」を必要する社会に後退させてはいけない。

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皆さま、よいお年とりを いろひらてつろう拝  長野県南佐久郡南相木村診療所長 色平哲郎

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