「論座」2004年10月号掲載  
特集「医師の言葉、患者のことば〜医療に信頼の対話を」の中の一篇として

〜医師の言葉、患者のことば〜
共感こそ、人の心を開く鍵


先日、村の診療所へ実習に来たある国立大学の医学生がこう語った。

「大学病院は、いま、研修医が残らないので危機感を持っています。
先生方は、しきりに二百床以下の市中病院では症例数が少ない
(つまり、医者としての技量を磨けないから大学病院に残れ)とおっしゃいます。
しかし、大学病院が患者さんをノッペラボウにしている現実を誰も認識していない。
顔を持つ、生きている人間としての患者さんに触れることは、たくさんの病気に接する

ことと同じように重要だと思うのですが、そんな空気は大学病院にはありません。
多くの医学生は、ノッペラボウの患者さんしか知らず、医者になっていきます」

「医者の卵」の言葉を、いまさらながら、重く受けとめずにはいられなかった。
医師教育の根幹にかかわる人間観が、この学生の実感に凝縮されているからだ。

今春から医師免許を取ったばかりの新人医師への二年間の臨床研修が、
必修となった。
従来は新卒者の約八割が大学病院を研修先とし、すぐに各診療科の「医局」
に入っていたが、余りに早くから専門化すると、基礎的、総合的な診療能力を養えない。

そこで、複数の診療科を回る新制度が始まった。
できるだけ「守備範囲」を広げた地点から医師人生をスタートし、
患者さんの「ニーズ」に応えよ、というわけだ。

具体的には新卒の医師は、自分が行きたい、好きな研修指定医療機関に研修希望を出す。

その人が、医療機関側が提示した条件を満たしていれば「マッチング成功」。
両者のお見合い成立となって研修病院が決まり、採用される。

一見、合理的なようだが、このシステムの導入で、都会の「人気の高い市中病院」
に希望者が殺到。
警戒感を強めた大学医学部は、医学生に大学病院に残れと圧力をかける一方で
人手不足に備えて市中病院に派遣していた医師たちを引き揚げる。
いわゆる「医師はがし」が行われる。
ただでさえ医師が少ない地方に、ますます医師は定着しなくなる。

日本はOECD(経済協力開発機構)加盟三十ヵ国で下から四番目という
医師数の少なさだが、さらに地域による医師の「偏在」という難問が深刻化してきた。


確かに総合的な診療ができる医師の養成は、急務だ。
多くの国民が求めているのは、症例が限られる稀(まれ)な難病に対応できる
専門医よりも、一般的な病気を診られる医師だろう。

しかし、医師の技量とは、病院の症例数の多寡でのみ決定づけられるものではない。
技術の習得プラスアルファの重要な要素がある。
患者さんに向き合った「人間としてのケア」が行えるかどうか、だ。
医療への信頼は、この姿勢を保てるか否かにかかっているといっても過言ではない。
いくら名医を呼ばれる人でも、人体に永遠の生命を吹き込むことはできない。
医療技術がどれだけ進歩しようと、死は不可避である。

この人類共通の運命に向き合おうとしたら、医師は一対一のコミュニケーションに
根ざした「人間として人間のお世話に取り組む」というケアの原点に立つしかない。
医師は、まず患者さんに平らな関係のインタビュアーとして向き合う。
あらかじめ「医師の言葉」「患者の言葉」が峻別されているわけではなかろう。
「共感」こそ、人の心を開く鍵なのだ。
やがて言葉のやりとりが始まり、「病気を治す=どう生きるか」という共通の目標
に向かって、歩みだすことができる。
それは、患者さんをノッペラボウとして扱う大学病院の効率主義の対極にある。

冒頭の医学生は、村でいきいきと生活する老人たちと語り合い、触れ合って初めて、
大学病院とは違う「もうひとつの医療」があることに気がついたようだ。
私もまた、村に来る若者たちとの交流から「もうひとつの医療」の大切さを
再認識することになった。

ある郡部出身の看護学生は、村に来て、カエルの声を耳にしながら懐かしそうに言った。


「あの声は蛇に襲われた悲鳴です。
あ、あれは恋人が見つかって喜んでる声。
朝、あんな鳴き方をしていたら、日中はカンカン照りでも、必ず夕立が降ります。
わたしの育った村では、カエルの鳴き声の意味がわかる人は珍しくなかった。
でも、都会の看護学校で一緒になったクラスメートに、この話をしたら、
まったく通じませんでした。
宇宙人を見るような目で見られました」

カエルの声を聴き取ろうとする彼女は、生命の連鎖に敏感に生きていたことだろう。
カエルにも意思がある。
まして人間ともなれば、、、。
豊かな自然に育まれた彼女の完成は、現在の医療や介護の場に最も欠けているものだ。

相手が何を求めているか、彼女は、本能的に感知する力を備えている。
人工的な環境で育った都市生活者が失った自然の感知力である。
人が年齢を重ね、そして老いていくとは、生命としての自然に直面することだ。
そんな現場では、この感知力が大きくものを言う。

村を訪れる若者たちの感性から学ぶことは多い。
「もうひとつの医療」を志す若人が、少しずつだが着実に増えているような気がしてならない。
このうねりに大いに期待申し上げたい。

inserted by FC2 system