「大阪保険医雑誌」連載第一回

「暗夜胸に手をおいて……」


 外来診療においでになった村の古老が、「この冬は、文化六年から明治までの百年
間、わが家に伝わった文書を読み解いている」と、こともなげに語られた。
 私が家族五人で暮らしながら「医療」という役割を担う長野県南相木村は、人口一
千三百人の小さな山村だが、都市では消えかかった「江戸時代」の面影が色濃く残さ
れている。
 診療所のすぐ目の前に、二八〇年の歴史を持つ茅葺きの大きな農家が建っている。
その北向きの奥には「産室」がある。部屋には木の棒が渡してあり、そこにつかまっ
て十世代に及ぶ女衆が赤ん坊を産んできた。
 「実習」で村を訪れる若い医学生たちを「産室」に連れて行き、かつて産婆さんが
うまく赤子を取り上げられず、母子ともに落命した話を語って聞かせると、医学知識
で頭がカチカチの学生たちの顔つきが一変する。
 医療の原点から吹く風が、彼らの何に響いて、何を変えるのだろうか。

「平成の大合併」に問われるもの
 信州のみならず、全国の「地方」は、いま「平成の大合併」で揺れに揺れている。
 この大潮流の源には、国と地方を合わせて「七〇〇兆円余」に膨らんだ大赤字が横
たわる。国は従来のように「地方交付税」や「補助金」で地方をコントロールするこ
とができなくなった。保健・医療・福祉・教育をはじめ、住民に直接かかわるサービ
スは自治体に任せて「国家財政を立て直したい」というのが、国の本音だろう。しか
し、受け皿が「都道府県単位」では、規模が中途半端でサービスが行き届かない。市
町村を合併し、適正規模の新しい自治体をつくり、行政を効率化。職員数も減らして
コストを抑え、サービスの高度化に努めよ、とのシナリオである。明治維新で「藩」
に代わって「県」が生まれて以来の「大変革」が、起きつつあるようだ。
 だが、現実には広域多極合併での主導権争いや、打算、面子、そして名称変更にま
つわる念慮といった、歴史的情念に深く結びついたかけ引きが行われて、簡単には
「成婚」とならない。
 「財政再建」という「お金の話」ばかりを先行させては、大合併はうまくいきそう
にない。市町村が手を携えて新しい自治体をつくるための「共通の理念」ともいうべ
き「接着剤」が不可欠なのであろう。そのヒントは、案外、身近な「歴史」のなかに
あるのではないか。

「惣」による高度な「民主主義」
「惣」という言葉をご存知だろうか?
 鎌倉時代以降に現れた村落共同体の「自治」を運営する機関である。江戸時代にも
「惣村」の呼び名で自治機関として継承され、第二次大戦後までその慣習は残されて
いた。
 惣を貫く大原則は、「寄りあい」に代表される「徹底的な討論」と構成員の「平等」
だった。指導部は年齢階梯制で「おとな(乙名、老)」によって構成され?講堂」
や「辻」で寄りあいが開かれた。そこでは年貢の完納や、犯罪防止、村人で共同管理
する「入会」や「新田開発」などが話し合われている。権力に対して「土一揆」を起
こして抵抗する際も、惣の寄りあいで意思決定がなされた。
 とにかく、とことん話し合ったようだ。簡単に「多数決」で決めたりしていない。
 ときには秩序を乱す者に「村八分」の制裁を加えることもあったが、あくまでも村
民による「協議」が前提であった。自分たちで自分たちの将来を決める高度な「民主
主義」が、惣村では機能していたようだ。
 群盗の襲来におびえる村人たちが、傭兵を雇って対決する物語を描いた黒澤明監督
「七人の侍」も、その背景に惣的な合意がなされていたのではないかと考えながら見
ると、単なるスペクタクル映画ではない深みが感じられる。
 明治政府は、惣の枠組みを壊し、近代天皇制のなかに自治体を再編成していった。
 しかし「村の寄りあい」は、二〇世紀半ばまで、地方では活発に行われている。民
俗学者・宮本常一の名著『忘れられた日本人』(岩波文庫)には、諏訪湖のほとりの
村の寄りあいで「農地解放」について皆がてんでばらばら勝手な自己主張をしている
とき、ある老人が話の糸口をどう見出したかが、次のように記述されている。
 「『皆さん、とにかく誰もいないところで、たった一人暗夜に胸に手をおいて、私
は少しも悪いことはしておらん。私の親も正しかった。祖父も正しかった。私の家の
土地は少しの不正もなしに手に入れたものだ、とはっきりいいきれる人がありました
ら申し出て下さい』といった。するといままで自己主張をしていた人がみんな口をつ
ぐんでしまった。それから話が行き詰まると『暗夜胸に手をおいて……』と切り出す
とたいていの話の緒が見出されたというのである。私(宮本)はこれを非常におもし
ろい話だと思って、やはり何回か農地解放問題にぶつかった席でこの話をしてみた。
すると実に大きなきき目がでてきたのである。どこでもそれで解決の目途がつく」
江戸期自治モデルの再生なるか
 戦後、寄生地主制や家父長制は「封建的」であるとされて農山村に残る伝統が解体
され、中央官庁が集権的に地方をコントロールするための諸制度がつくられていった。
 ところが、半世紀を経て、再び、住民自らが自らのゆく末を決めるために「地方分
権」で適正規模の自治体を再構築しようと潮目が変わってきている。広域多極合併に
よって生まれる自治体数は、最終的に「三〇〇」に集約されるのではないかとみられ
る。
 これは江戸時代の「藩」の数とほぼ同じだ。現代においても住民の「生活圏」の広
さは「藩」と重なるという説もある。懐古趣味としてではなく、自治モデルとしての
「江戸期」のあり様を再認識することは、地域医療に携わる医師にとっても重要な感
覚であると感じる。
 「暗夜胸に手をおいて……」。このような感覚と発想を、信じるべき「倫理」が存
在し得た時代の忘れ形見として、現代に再生させる方途こそ、今に求められていると
感じる。

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