2004年度版ベスト・エッセイに、選ばれました。


(「人生の落第坊主」文藝春秋 日本エッセイスト・クラブ編 
04年度版ベスト・エッセイ集  、、、プロ、アマ59篇の傑作を収録)

(初出 「文藝春秋」7月臨時増刊号 2003年)


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ケア、人間として人間の世話をすること

佐久総合病院 色平哲郎 いろひらてつろう



「村での大往生は、”死”とは違うのでしょうか?」
と取材においでになった若い女性記者に訊ねられ、私は、一瞬、返答をためらった。
うかつに答えられないのである。

都会育ちの二十代の彼女は、「村」というコミュ−二ティーのありよう、
病院のベッド以外の場所で看取られる「死」のイメージを欠いたままに質問を発し
ているようだった。

言葉だけの説明だけでは、誤解・曲解されるおそれがある。

死に方を話題にする前に、多少なりとも村人の「生」を知ってもらいたかった。

「お時間があれば、村のご老人に会ってみませんか。
その後で大往生についてお話しましょうか」と私は言い、彼女を長老Sさんに
引き合わせた。

実は、村の老人との対話こそ、診療所を訪ねてくる若い医師や看護婦の
卵たちにも課している「実習」の要(かなめ)なのだ。

Sさんは、庭先でワラジをこしらえながら――この技能は村内でも4人にしか伝わっ

いない――戦争や引き揚げの苦難、かつて村をまっぷたつに割って両陣営が竹やり
を構えて行った村長選、四季折々の行事や冠婚葬祭の共同体的な意味について
とつとつと語る。

聞いているうちに、それまで「映画のなかみたい」(ある帰国子女の医学生)だった
村の風景が、若者たちにも現実のものとして認識されてくる。

やがて世代を超えたコミュニケーションに引き込まれる。

人間には誰しも語るべき歴史と「ものがたり」があり、それを受けとめたところから
ケア「向き合う関係」が始まる。

このあたりまえなことが、医学知識で頭がカチンカチンの医学生には逆に新鮮に
映るようだ。

そして彼らが、「人間=タンパク質の塊」とみる現代医学の対極に、もうひとつの
医療現場があることに気づいたら、私たちは死について語り合うことのできる
共通の土俵に立ったことになろう。

日本の医学教育では、「死は敗北、病と闘え」と教えてきたが、そうではなく
「患者と寄り添い、支えあう」、そんな医療が求められている現実に一歩近づく。

私が連れ合いと3人の子どもと暮らす南佐久郡南相木(みなみあいき)村は、
長野県の東南端、群馬県境に位置する人口1300人の山村。

こんな信州の奥山に年間数百人の医学生たちが訪ねてきてくれるのは、村自体が、
山川草木に彩られた独特の「保健・医療空間」を形成しているからだ。

日々、村人の健康は、公と私の接点である「縁側」に気軽に腰かけて
互いの体調を確認し合うような「顔と顔のつながり」、診療所―佐久病院小海分院
―佐久病院本院と二重、三重にカバーするバックアップ体制などで守られている。

医師は、この「安心のネットワーク」の結節点に位置し、村のひとつの役割を担う
ことになる。

こんなケースがあった。

村人はじつによく働く。

夏、命綱である高原野菜の収穫期ともなれば、午前2時ころから畑に出て、
夜の八時、九時まで猛烈な労働をする。

心身ともくたくたになった農家の人が、たまに「先生、点滴打ってくんねぇかな」
と診療所に来る。

生物学的には、5%のブドウ糖溶液、あるいは0.9%の生理食塩水500cc
の点滴は、カロリー計算すれば大したエネルギー補給にならない。

市販のアルカリイオン水を飲めばいいとの見方もある。

山村に赴任したての頃、点滴を打つべきかどうか逡巡していた私に
大先輩の清水茂文医師(前・佐久病院院長)は「村人の気持ちを察しなさい。
点滴は必要なのだよ」と言われた。

点滴を打ってみて、その意味が理解できた。

顔と顔の安心感は、ウラを返せば互いを監視しあい、共同体内の緊張を高める
ことにもなる。

農繁期、疲労を理由に休んでいると「サボり」と後ろ指をさされる。

しかし精根尽き果てたら労働が続けられない。

その一歩手前で村人は診療所に来て、「合法的に」1、2時間、静かに横たわり、
点滴を受ける。

それは、とても貴重な時間なのだ。

成分分析では推し量れない効果をもたらす。

打ち終わると晴れ晴れとした表情で帰っていく、、、。

この点滴は、医療行為をいうよりは、村の医師が担うひとつの役割といえるだろう。

佐久地方には昔から「ピンピンコロリ」という言葉がある。

大病を患わず、高齢までピンピン元気に働いて、コロリと死ぬ。

理想としての健康長寿を表した言い方だ。

では、ピンピンコロリ、すなわち大往生かというとちょっと違う。

少なくとも「畳のうえ」で家族に囲まれ、安らかに息を引きとってこその大往生であ
る。

全国平均で8割超の人が病院で亡くなっている現在、ここ佐久地方では5割以上
の方が家で死を迎えている(佐久病院地域ケア課統計)。

これは、物理的な条件もさりながら、畳のうえで死ぬことの文化的価値観、
つまり看取りの作法、が地域に息づいているからに他ならない。

たとえば、脳梗塞で本院に入院していた80歳のご老人は、しばしば嚥下(えんげ)
障害(食べ物を飲み下すうえでの困難)を起して気管から肺に食物を入れ、二度、
三度と誤嚥性肺炎を併発。

そのつど、抗生物質のレベルをファースト、セカンド、サード・ラインとグレードを
上げて投与して抑えたが、いよいよ切札の抗生剤も効かなくなった、、、。

「次に肺炎を起したら、どうするか、、、」と本院の担当医から相談された私は、
ご老人を家に戻した。

娘さんもヘルパー資格を取り、看取りに備えていた。

患者を病院から家に帰す時期は、医師の専門的見地からの独断というより、
村人との顔と顔の濃厚なつながりのなかで「そろそろだな」とうなずき合う
「呼吸」によって決まる。

これは、簡単には明文化しきれない。

村人たちは、身近に何人もの老人たちを見送った体験の積み重ねから、
「そろそろ」の判断を下す。

たいていドンピシャリ。

病態を実に正確に把握しているのには驚かされる。

主治医である診療所長は、患者が畳のうえで死を迎えるまで、足繁く往診に通う。

そして、できるだけ痛みをとり、患者の語りに耳を傾ける。

家族からも長く封印してきた戦争体験や、苦難の思い出をうかがうことがある。

その「心の遺言」は、詳細までを口外してはならない。

枕辺に喜寿の祝いで集まった百人もの親族の集合写真を飾って旅立ったおばあさん、
「日本はアメリカの保護国なんだよ」と言い残して亡くなったご老人、、、。

彼らの死こそ「あっぱれ」な大往生として語りつがれ、生きている者は
「わたしもあやかりたい」となるのだろう。

こうして看取りの文化は継承される。

ここでは、”死”は「地域化」されている、といえよう。

最近、都会でも「家庭医」の優れた役割が見直されてきた。

優秀なかかりつけ医が、第一線医療で適切な診断、治療を行えば、
結果として医療費が抑制されるといった文脈で語られる場合が多い。

しかし、それは家庭医への国民的ニーズの高まりの一面でしかない。

大切なのは、患者に寄り添うケアが求められているということだ。

往診体験のない大学医学部の教官が、家庭医療のあるべき姿を学生に
「指導」できるのだろうか、、、。

先日、村を訪れた医学生からこんな感想文が届いた。

「地域医療について学ぼうと思ったときに、ムラ社会に入っていくこと
がこれほどまで重要だとは感じていなかった。

むしろ大病院でないことでの診察・検査・治療上の有利、不利にばかり
考えがいっていた。

毎日、村の人のお宅にお邪魔して、ゆったりとお話を伺うことで、
村人どうしの微妙で濃密な歴史と関係性を感じることができた。

それは”感じる”しかなく、”知る”とか”理解する”という類のものではなかっ
た」

一方、長老のSさんは、こう言う。

「学生と話をしていると昔の記憶が、鮮明に蘇ってくるね。

こないだも、戦後の米や酒、塩なんかの配給切符のことを思い出した。

ボケなくていいよ。

もっといろいろ若い世代には伝えたいことがたくさんあるんだ」

思い出療法、といえようか。

街にも、見えにくいけれど、村に似た地域の原型が残され、
歴史を背負った高齢者が地域に生きている。

彼らに医者はどう向き合っていくのか。

信州の山奥の村だから特殊なのだ、と言われるかもしれない。

だが、その特殊さ、個別性のなかにこそ、人間の普遍性が
脈打っていることもあるのではないか。


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