日本の医療レベルは”欧米並”?

       「大阪保険医雑誌」平成16年5月号掲載


何ごとにも「イメージと現実のギャップ」はついてまわる。

いつも笑みを絶やさず、村の行事でも先頭に立ってテキパキこなし、
大勢から慕われている老婦人が、家庭のなかでは嫁に辛く当たる一面を持っていたり
する。

また、保健講座などで「ガンを絵にしてください」と村人に言うと、多くの人が黒い
とげ
とげしいものを描く。「ガン=敵」なのである。
 実際のガンは赤い肉の塊で、己の血液とともに体内にある。ガンは、もともと自己

(セルフ)が変容して変化(ガン化)したものなのだが、誰もが、そう認めたくはな
いようだ。
 イメージと現実の最も大きなギャップは、「自分自身」に対してのそれかもしれ
ない。己を知ることは難しい。しかし自分を知ろうとする姿勢なくして、他者との円
滑な係りは結べない。自己認識と他者への洞察は、人間関係を投影する「鏡」の裏表
であろう。


 世のなかには「日本の医療レベルは欧米並」とのイメージが、なぜか定着してい
る。
近年、WHO が発表した「世界保健報告」では、日本の健康寿命は「世界一」とされて
いる。GDP(国内総生産)に対する医療費比率はOECD(経済協力開発機構―いわゆる先進
国グループ30カ国)の20位あたり。少ない医療費で「効率よく」国民が生きながらえ
ているから世界一、との見方である。
 だが、日本人の寿命が長いのは、食事や生活習慣、衛生環境、戦争や犯罪の発生率
などさまざまな要素が複雑に絡んでの結果だ。医療制度だけがもたらした果実ではな
い。
現実に周囲を見渡してみると、医療を提供する側も、患者さんの側も「欧米並」とは
とうてい思えない現象が次々と起こっている。医療への「満足度」、つまり患者さん
の「ニーズに対する充足度」は、年々下がっているような気がする。
 その根底には、絶対的な医療従事者の少なさがある。前回も書いたが、OECDで日本
の医師数(人口1000人当たり)は27位。下には韓国、トルコ、メキシコの3カ国のみ
だ。
「医療現場は人手不足。小児科、精神科、救急……そして一般内科が特に足りな
い」。
 この現実が「イメージの壁」に阻まれ、世のなかに理解されにくい。
臨床研修のローテートによって、ただでさえ医者の数が足りない現場は、大混乱を呈
している。にもかかわらず、『財政危機の中で、政府の新年度予算には臨床研修への
補助金として171億円が盛り込まれた。約1万人の新研修医たちはその重みをかみしめ
てほしい』『患者の症状はもちろん、その性格や家族のことも理解して診察にあたれ
る医師が求められている。その養成をめざす今度の改革をぜひ定着させたい』(朝日
新聞4月14日付・社説)と、世のなかは医療費削減下の「大改革」といったイメージを
現場に期待する。


どうしてイメージばかり先行して、医療現場の実際が伝わりにくいのだろうか?
 友人のノンフィクション作家は、こう語る。
「医療の国際指標や、OECDのデータを山のように並べても、一般の日本人が、お医者
さん、病院に抱いているマイナスのイメージは変わらないでしょう。イメージという
のは、水もので、それ自身、生きている。中医協の贈収賄事件、あれ一発で、これま
で善意の医師たちがコツコツ積み上げていたプラスのイメージが吹っ飛ぶ。なぜな
ら、一般の人は、あの種のスキャンダルが氷山の一角だと直感するからです。ああ、
やっぱりな、と」
 では、医療現場のほんとうの現実を社会に訴えるにはどうすればいいのだろうか。
「もしも医療事故で肉親を失った人たちが、その病院や医師個人を告発すると同時
に、背景にある医師の絶対的な不足、地域による著しい偏りにまで踏み込んで、本来
的な『改革』を訴えるなら、世間は聞く耳を持つ。そのような声が上がるなら、医療
側も真剣に彼らと提携して現状を訴えればいい。しかし、医療事故は告発された瞬
間、加害と被害の構図に絡みとられ、ふたつのレールは交わらない。医療側はミスを
認めるかどうか、防戦一方。本質論に入るまえに『二度と起きないよう反省』して終
止符。2本のレールをどう繋げるかは、メディアの役割が大きいけれど、メディアも
目の前の現象に引きずられる。
 まともな発信者と医療側、患者側がネットワークをつくることが大事ですね。中医
協のような受益者だけのお手盛り組織はもう限界です。本来的な意味で『公益』代表
である医療消費者=賢明な素人を議論の場に加えなければ、医療の信頼は回復できな
いでしょう」と友人は言った。
 

 財政危機を根拠として小泉政権下、医療制度改革が断行されてきた。しかし、そも
そも財政とは「公」の財布であり、人々の「ニーズ」に対してお金を出すものだ。
ニーズとは生きるために「必要不可欠」なことであり、切羽詰った要求である。
 中医協のあり方なども含めて、この「公」の役割について、もっと議論されるべき
だろう。その際、先人の智慧を範としたい。
 たとえば長野市を東西に流れる犀川の河川敷の真ん中には川と平行して1本の細い
道がある。この道を境に川側を「北割」、堤防側を「南割」と呼ぶ。昭和30年代ま
で、この南北の「割地」には川に対して直角に細長い短冊型の畑が区切られ、農民が
共有し、均等に割り振っていた。
 洪水になれば、川に沿って(平行に)畑が浸食される。川に直角な細長い畑をつく
り、安全度の高い「南割」も均等に分配しておけば、特定の農家に被害が集中するこ
とはない。土地の滅失対策、「公共」の智慧である。
 川の氾濫は甚大な被害を与えるばかりではない。水が引けば、新しい肥沃な堆積地
ができている。これを「起返(おきがえり)」といい、そこを開墾すれば地力の優れ
た農地が得られる。「禍転じて福となす」である。その際も土地は均等に振り分けら
れた。
 川がもたらす被害も恩恵も共有する者たちが均しく分かちあう。それが「地割慣
行」という「公」の制度の屋台骨であった。現在、医療に最も欠けている視点なの
ではないだろうか。

inserted by FC2 system