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読売新聞 平成16年4月20日

ムラの豊かさ 守りたい
支える きもち


地域医療の第一線で活躍  色平哲郎さん 44
長野県南相木村の国保直営診療所長





「ここでは、人々が先祖の代から背負った人生と向きあい、人間として接していくし
かない。医師という役割は、あとからついてくるんです」

無医村だった南相木村(みなみあいきむら)の初代診療所長として、妻と三人の
子どもと一緒に赴任したのは、一九九八年春。
村の人口千二百四十四人のうち、38%が六十五歳以上。
標高千メートルの畑では、レタスなどの高原野菜が育つ。

もともとは東京育ち。赴任のきっかけは、研修医として勤務した佐久総合病院(長野
県臼田町)での恩師、若月俊一医師(現名誉院長)との出会いだ。「農民とともに」
をうたい、生涯をかけて地域の健康教育を続けた若月医師のもとで、同病院は「へき
地医療」の代名詞に。長野県も、老人一人当たりの医療費と寝たきり老人数が全国一
少ない県になった。

「若月先生に、『君、深沢七郎さんの楢山節考を読んだことあるかい』と聞かれまし
た。息子が年老いた母親を背負い、お山に捨てに行く昔の寒村の話です。その時、
先生が言った『僕はお山を認めない』という言葉が心に響きました」

診療所に赴任して以来、地域のお年寄りたちの存在感に圧倒されてきた。

代々の家を守るため働きづめに働き、百年前の木製の機(はた)織りを使いこなす
おばあさん。従軍で視力をなくしたのに、戦地で会った中国人やロシア人の優しさを
語り、日本の行く末を憂えるおじいさん……。

「土地に根をはやして生きる知恵やたくましさがある。自然、歴史、人間あっての豊
かさは、金で買えるものではないんです。医師として、それを支える手伝いをした
い」

   ※

外来診療だけでなく、約三十人のお年寄りを数日おきに往診して話し込み、元気づ
ける。保健師たちと協力して健康講座を開き、役場やケアマネジャー、ヘルパーと、
お年寄り一人一人が、満足し、納得して最晩年を迎えられる環境を考える。
診療所の上の階は、デイケアセンター。都会に多い専門分化した医療や介護は、
村ではあまり意味をなさない。

自分のやり方が、他の村や都会でも通用するのだろうか、と自問する。

 「全国的に、病院がお年寄りたちを“捨てる”お山になりがちなのが現状です。
その一方、重症なのに『病院の利益にならないから』と入院やその延長を拒まれる
ケースも減らない。確かに、お山はなくならないのかもしれないが、現場が最善を
目指してあらがい続けることがすべてでしょう」

    ※

色平医師を慕って、医学生や看護学生が年に約百五十人も見学に訪れる。
彼らに「社会的な弱者ではない、元気で、格好いい」お年寄りの存在を実感させる。

「ここでは、自分で相手の心に踏み込まないと、何も聞き出せない。
それどころか、自分のほうが見られる側で、都会の病院での医師と患者の関係
とは立場が逆転する。その経験を将来に生かしてほしい」

重症の患者は、佐久総合病院に紹介する。同病院は、病院を核に福祉拠点や
学校、商店街などが連携して地域活性化に取り組み、若者の雇用を維持する
構想を打ち出している。自分もその一翼を担うつもりだ。

「みんなで、ムラを死なせない道を探ることが大切です。
お年寄りたちのムラは、日本の未来を映し出す鏡でもあるのですから」
(鈴木 敦秋)

色平医師の活動を著書などについては、同医師のホームページ
http://www.hinocatv.ne.jp/~micc/Iro/01IroCover.htm

〜〜〜〜〜〜

佐久総合病院 : 1944年開設。翌年から、出張診療活動を始め、戦後は
他病院に先がけて病院患者給食を導入するなど、地域に根ざした「患者本位」
の医療を実践してきた。現在は約820床で、長野県東部の中核病院の一つ。

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