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朝日新聞社「論座」ロッキングチェア(新月号)の連載より


第三回 村の「お宝」



山あいの村には、さまざまな「お宝」が眠っている。
優れた書画骨董の類ばかりではない。
貴重な「昭和の記録」が手つかずのまま残されていたりもする。

先日も隣村の土蔵から、毛沢東が岡野進こと野坂参三に宛てた書簡が見つかった。
野坂は、一九三一年、コミンテルン日本代表として旧ソ連に入り、その後、
中国の延安に移って岡野進の名で反戦活動などに従事。
終戦後、十五年ぶりに帰国し、共産党中央委員、党第一書記、議長などを歴任した。
一説に「五重人格」と評される野坂は、延安時代に国民党の蒋介石とも通じていたと
いわれる。
四九年に中華人民共和国が成立し、蒋介石は台湾に退いた。
激動の戦後史のなか、この書簡がどのような経緯で農家の土蔵に納まったのか。
おそらく日本共産党指導部内の権力闘争と無縁ではあるまい。
現代史に関心を抱く者として、そのあたりのディテールが気になりはするが、
あらめて強く思うのは「中国の分裂が、日本の戦後復興を早めた」という皮肉な歴史
的事実である。

終戦直後、アメリカ政府内では、日本から近代的な工業施設を取り去り、
貿易も制限して純農業国とする「ハード・ピース(厳格な平和)」路線が支持されて
いた。
が、中国情勢の変化によってワシントンは態度を変えた。

日本をアジアにおける共産主義の防波堤とすべく、規制を緩め、
工業化によって発展させる「ソフト・ピース(寛大な平和)」路線を敷いたのであ
る。
生産設備の撤去にストップがかけられた。
朝鮮戦争が勃発し、米軍からの特需で日本の基幹産業は息を吹き返した。

冷戦という「構造」は、その後、高度経済成長をさらにつよく押し進めた。
では、冷戦が終焉を迎えた現在、世界はどのような構造に支配されているのだろうか


「先生、知ってるか? 
日本はアメリカの保護国なんだ」

往診のたびにその爺さんは言った。 
胃がんの病名で私が「最期の診断書」を書いた方だ。
明治末年生まれ。
九一歳で逝った。
彼は二十歳で召集され、朝鮮北部の国境警備の任務についた。
一旦、村に戻って生活した後、再び召集。
青春の十四年間を外地で暮らした。

彼の観察では「保護国」と「植民地」は次のような存在らしい。

「フィリピンのマニラに転戦して、民衆から激しい抵抗を受けた。
それはな、フィリピンがアメリカの保護国だったから。
役人、軍人、警察官はフィリピン人であって、アメリカに保護され、独立を目前にし
ていた。
日本軍が占領しに来たと感じて、抵抗したんだ。
でもインドネシアでは、現地の人から歓迎されたよ。
民衆は、オランダの植民地支配から脱して、独立しようとしていたから、
蘭印軍を降伏させたわれわれを解放軍として迎えてくれた。
植民地では、外国から役人や軍人が入ってくることに慣らされているんだ」

また、こうも言った。

「朝鮮は日本と合意して国を併せたとずっと思ってきた。
そう教えられてきたからな。
だが、最近の新聞が従軍慰安婦問題を書き、朝鮮が日本の植民地だったという。
おかしいなぁ。
よくよく考えた。
わかったよ。
二十歳の俺自身が中朝国境の守備についたとき、兵卒は日本人ばかりだった。
なぜ、朝鮮人が自国を守らなかったのか……植民地だったのさ。
騙されていたね。
ところで、いまの日本はなんだ。
独立国じゃねぇな。
完全にアメリカの保護国だな」

冷戦終結後、市場経済への完全な移行とともに
世界を単一マーケットとするグローバリズムの構造が生まれた。

「競争こそ大切だ」とのかけ声で、医療分野にも「市場競争」の波が押し寄せてい
る。
その源に巨大な合衆国「大米帝国」が位置するのは間違いない。

ここに内包される「支配の構造」を、
現代の私たちも冷静に私たちも観察したほうがいいのではないか。
 
十年前、佐久病院での研修生活を終えて大学に戻る私に、
「一兵卒の軍医」としての戦争体験を持つ若月俊一院長(当時)が、送別の宴を開い
てくれた。
その席で先生は、『どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ/三日二夜の食もなく/
雨降りしぶく鉄兜……』と哀切に歌った。
厭世的曲調で軍部が禁止した『討匪行(とうひこう)』なる軍歌だった。
歌の後、突然「君、深沢七郎さんの『楢山節考』は読んだかい」と訊かれ、戸惑っ
た。
息子が年老いた母を「お山」に背負って捨てに行く話だ。

「文学ならともなく、歴史的存在としての『お山』を僕は認めない。
君はどう考えるか?」

この時、私は乗り越えるべき対象としての「お山」を心のなかに刻んだ。
その後信州に戻り、村医者となった。

わが南相木村にももうすぐ厳しい冬がやってくる。
道路が凍結し、往診に骨が折れる季節だ。
それでもお年寄りたちの肉声を聴きたくなる。
とくに医師としての使命感に燃えているからではない。
庶民の声なき声が体現する「ものがたり」にこそ現代史を読み解き、
未来を考えるうえでの「お宝」が潜んでいると感じるからである。


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