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朝日新聞社「論座」ロッキングチェア(12月号)の連載より


第二回 真の豊かさはどこにある

先月号で、今年の夏は長雨だったので「雨が降ったら、
カネが降る」とマツタケの大量収穫に期待が膨らんでい
ると書いた。だがしかし、秋本番、フタをあけてみたら
とんでもない不作。壊滅状態だ。長雨の後の「日照り」
がいけなかったようだ。急に干魃(かんばつ)になってしまい、松林
の菌糸が干からびた。村の暮らしは一寸先が闇というべ
きか、地球規模の異常気象が信州の山の村にも影響を及
ぼしているのだとしたら、、、と心配になった。

とはいえ村人が意気消沈するわけではない。
「(他県から採取権を侵して)盗み採りに来る奴もいねぇ
だろうから、見回りをしないで楽だいな。その分、山道
の普請でもしようか」と泰然と構えている。何世代にも
わたって厳しい大自然と向き合ってきた彼らは、決して
悲観論には沈まない。過酷な自然を生活レベルで受けとめ、
マイナスをプラスに転じる術(すべ)を知っている。
 
この、生活を工夫し質を高める発想こそ、二十一世紀
の日本を成熟社会に生まれ変わらせる鍵になり得るので
はないか、と感じる。自然あっての豊かさ、歴史あって
の豊かさ、人間あっての豊かさといった、お金に換算で
きない新たな豊かさは、人々の身近な暮らしの中にこそ
あるのではないか。

例えば、私が日々村人たちと接する診療所は、冬の訪
れとともに内壁の結露で悩まされる。そのつど拭きとっ
たりしているが、結露部位で露点(ろてん)に達しているわけで、
当然周辺はカビの発生領域。院内感染を持ち出すまでも
なく、これで健康によいわけがなかろう。古びた病院建
築ともなれば、築十年のわが診療所よりもっとひどい情
況かもしれない。改善の余地が大いにあるのではないか。

このような身近な「療養環境」の在り方について、百
数十年も前に明快な指針を打ち出した人物がいる。ナイ
チンゲールだ。一般には看護婦たちを率いてトルコの戦
地に赴き、献身的な働きに取り組んだことから「クリミ
アの天使」のイメージが強いが、彼女の本質は、政治
的な動きも辞さない、病める人々の立場に立った療養
環境改良家、社会運動家であった。

ナイチンゲールは『病院覚え書き』にこう記している。
「病院が備えるべき第一の条件は、病院が病人に害を与
えないこと」「病気のうちの多く、それも致命的な病気の
多数は病院内でつくられる、ということに注意深い病院
当局者たちは、それぞれの経験から気づいていないのだ
ろうか、、、」。医療事故の多発する昨今、現代のわれわれ
医師の心をグサッと突く言葉だ。

さらに主著『看護覚え書』では「(患者が日常利用する)
ベッドがソファーより高くてよいわけがない」と言い切
った。元祖・福祉住環境コーディネーターとして彼女は、
新鮮な空気、陽の光、暖かさ、静けさ、清潔、規則正し
い食事、そして気分転換と安心を与えつつ、その人らし
さを尊重し傷つけないように言葉や動作に気を配ること、
これらの配慮こそ回復に不可欠であるとし、広い意味で
の暮らしの環境を整える努力を力説している。

この話を看護大学の大学院で講義したが、皆、きょと
んとしているばかり。自分がケアされる側に回った経験
がないので、病院という空間が本来、患者さん方の側の
発想でデザインされねばならないことに気づいていない。
この点は、多くの医師も同じだ。病院が建設される際、
モダンで見栄えのいいデザインは熱心に議論されるが、
空間の熱、湿度、光、音、振動など療養環境にかかわる
建築物理学的考察が俎上(そじょう)に載せられることはまずない。

現代日本の医療・福祉施設で、ナイチンゲールが掲げ
た条件をクリアしているところがどれだけあるのだろう。
特別養護老人ホームでは市販の「パイプカッター」が必
需品だという。ベッドの脚を切って、ご老人がベッドを
利用しやすいように改良するためだ。ベッドにして、こ
のありさま。新鮮な空気、部屋と壁の真の清潔さにおい
ては、院内環境はじつに心もとない。結露とカビ、ダニを
まるで冬の「風物詩」としかねない状況だ。

これは医学の三分野、身体医療、精神医療、環境公
衆衛生学のうち、公衆衛生が一時(ひととき)の役割を終え、顧みら
れなくなった昨今の在り様もあるのだろうか。厚労省の
外郭団体である国立保健医療科学院の研究者にうかがっ
たところ、欧米には基本的人権のひとつとして住空間の
あるべき姿を定めた「住居法」が存在するが、日本には
これにあたる法律がないとのこと。建設する側の論理だ
けで、公共の建造物が供給されてきた観は否めない。

一説にはコンクリート建物の結露には建物の外側を
厚い断熱材で包む「外(そと)断熱工法」が有効だとか。コンク
リートは石と同じように熱をためる性質があり、躯体(くたい)の
温度が室温に同調するので、冬の結露が防げるとのこと
だ。しかし、このような建物は、国内に極めて少ない。

学問の縦割りに横串を通して、医学部のアレルギー学、
医動物学と工学部の建築物理学を連携する学際研究が、
活発に行われる近未来を期待したい。


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