医学生の実習報告書より

実習先:長野県南佐久郡南相木村(2002年8月、3泊4日)

指導医:南相木村国保直営診療所長 色平(いろひら)哲郎ドクター


1)南相木(みなみあいき)村について

長野県南佐久郡南相木村は、南佐久郡の東南・群馬県境に位置し、
標高800mから2000mに広がる緑豊かな山間の村。
千曲川支流の南相木川が村の中心部を流れ、
南相木川とその支流が作り出した渓谷には、県の名勝に指定されている
“御三甕(おみか)の滝”をはじめとした7つの滝が見られる。

気候は内陸性高冷地気候で、夏季でも冷涼であり、
冬の積雪量は少ないが寒さは厳しい。

平坦な土地は少なく、山林原野が村域の92%を占める山村である。

村の人口は約1300、世帯数750余り、
65歳以上の高齢者は全人口の35%を超える(2001年現在)
過疎指定地域である。


2)色平 哲郎医師の略歴

1960年神奈川県横浜市生まれ。東京大学中退後、
世界を放浪し、医師を目指し京都大学医学部へ入学。
90年同大学卒業後長野県厚生連佐久総合病院、
京都大学付属病院などを経て長野県南佐久郡南牧村野辺山へき地診療所長を務める。
98年より南相木村の初代診療所長となる。内科医。
外国人HIV感染者・発症者への‘医職住’の生活支援、
帰国支援を行うNPO“佐久地域国際連帯市民の会(アイザック)”
の事務局長としても活動を続ける。
こうした活動により95年、タイ政府より表彰を受ける。

現在2003年から始まる長野県第4次保健医療計画の策定委員会に
参加するなど幅広い活動をしながら、家族5人で南相木村に暮らしている。

http://home.catv.ne.jp/hh/yoshio-i/Iro/01IroCover.htm



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3)長野県の医療体制

長野県は都道府県別の平均寿命が、男性第1位・女性第4位の長寿県である。

高齢者就業率も高く、都道府県別一人当たり老人医療費は全国最低値の
64万3000円となっている。

老人医療費第1位は福岡県の107万8000円で、以下北海道、
長崎、高知、大阪と続く。対して、下位5県は茨城、
千葉、山梨、山形、長野となる。(平成11年度)

福岡県は、長野県の約1.7倍もの老人医療費を使っていると考えられる。

この大きな格差はどのような点から生まれるのか考えてみたい。

先ほども述べたように、長野県は全国を誇る低老人医療費の県である。
その中でも、長野県厚生農業協同組合連合会 佐久総合病院
が市域の半分以上をカバーしている佐久市が、
長野県のうちでも最も老人医療費が低いという。


*    佐久総合病院について

S.19(1944年)病院開設

総病床数:821床(内、一般病棟600床+ICU20床)

27の診療科目があり、健康管理センター(健診活動、健康教育活動)や
東洋医学研究所、老人保健施設や6つの訪問看護ステーション等がある。

佐久総合病院は、‘農民とともに’というスローガンを掲げ、
医師たちが保健師や看護師達と共に村や町に入り、
地道に医療に取り組んできた。道端で血圧を測ったり、
健康手帳を配るなど住民1人1人が健康に留意するシステム作りを行い、
住民と一番近い所で常に早期発見・予防に力を入れてきた。
低医療費はこうした民間病院の取り組んできた地域医療の結果に過ぎない。


4)南相木村での医療

南相木村では、1998年に色平医師が診療所に赴任するまでの
二十数年間無医村であった。週に三回、午後の二時間だけ佐久総合病院の
小海分院から出張診療が行われていたが、
高齢化が進む村では医師の常勤が望まれていた。

長野新幹線の停まる佐久平から、2両編成の小海線に乗り継いで約40分
で小海駅に着く。そこからさらに車で約30分した所に
南相木村国保直営診療所がある。役場や農協、保育園等の集まる村の
中心部に位置し、デイケアセンターに隣接して建てられている。
当診療所のバックアップ病院には、佐久病院とその分院の小海分院等が存在する。

色平医師が南相木村に来るまでは、小海駅に併設された佐久病院小海分院に、
ちょっとしたことでもこじらせて入院する者も少なくなかったという。
今は、色平医師が自宅の番号も教え24時間いつでも対処できるようにする
ことで、すぐに往診し、内服や点滴で治すことができる。
村の高齢者には入院すると帰ってこられないのではと不安に思っている方も多い。

色平医師は診療所での診察のみならず、往診に走り回り、極力入院をさけ、
自宅療養で病気を治すよう努めている。そして、診療の合間には、
診察後車のない高齢の村人を自宅まで送ったり、
村の家々を回って村人の様子をみたり、村人との語らいの時間を大切にしている。

また、色平医師は、家族で南相木村に定住しており、
診療のない時には一人の村人として、村の草刈や運動会を始めとし、
寄り合いや酒の席にも必ず顔を出すという。

村では70歳を過ぎても現役で農作業をし、1人で暮らしている高齢者も多い。

佐久地方には、‘ピンピンコロリ’という言葉があるという。
80歳になっても元気でピンピン働き、最期は苦しまないでコロリと死ぬこと
を指している。色平医師は、村の歴史に詳しい村の先達たちから、
苦労話や人生のものがたりを聞くことで、村人の生活や背景を知り、
村人の声に耳を傾けてきた。


5)実習内容

*第1日目(8月21日)

小海診療所に採血検体を持ってきた色平医師に、
佐久病院小海分院内を案内して頂く。

隣町の南牧村の往診に同行する。

その後、南相木村内の診療所、隣接するデイケアセンターを見学し、
今後2日間でお世話になるお宅を紹介して頂きながら、村の大まかな地理を学ぶ。

色平医師の活動を記録したビデオを見た後、色平医師とディスカッションする。


*第2日目(8月22日)

C.K.さん(82歳、女性)宅で一日中お世話になる。南相木村祝平。

村の名家(上の本家)の出で、元村長の夫を昨年亡くしたばかりであり、
現在は1人暮らしをしている。
広い畑や山の仕事をすべて自分1人でこなしている。

Cさんは、南相木村に50年以上住み、最近は村から出たことがないという。

昔の話を聞きながら、機織りを習う。
その後、ブルーベリーや様々な野菜を育てている畑やわさび田を見せてもらい、
歩いて行ける距離にある‘おみかの滝’にも案内して頂く。
夕方、色平医師とディスカッションを行う。


*第3日目(8月23日)

S.N.さん(83歳、男性)宅で夕方までお世話になる。南相木村加佐。

奥様と息子さんと暮らしている。
足半(あしなか)草履の作り方を習い、
その後戦争の話や村の歴史についてお話を聞く。

Sさんは、村の歴史や村内の類戚関係を詳細に記憶し、研究している。

馬が林業の担い手であった戦前、また軍馬を育てることが主産業
であった戦時中からSさんは馬の種付け業をし、蹄鉄作りの名人だったという。

その後、M.S.さん(ご夫婦)のお宅を見せて頂く。南相木村中島。

S〈苗字〉家は、280年以上も続く大きな旧家で、代々神官を務めてきた。

馬屋、鶏小屋、作男の部屋を広い土間が仕切り、表座敷や奥座敷、台所、
茶の間などに分けられている立派な民家。
また、校長を四代続けたという教育者の家である。

旧家での女性の立場について等のお話を伺う。

夕方から、F.N.さん(87歳、女性)宅に伺う。南相木村和田。

Fさんに村の昔話や、Fさんが子守奉公に出た頃の事など
生い立ちのお話を伺う。

1人暮らしで、週に数回デイサービスに通う。
村社会の代表のような方で、これまで村で起こった出来事や、
村人についてかなりよく知っている。

夜、色平医師とディスカッションを行う。


*第4日目(8月24日) 実習中にお世話になったお宅を回り、
お礼を言って帰る。


以上のように、今回の実習では、色平先生の実際の診療場面は、
初日の南牧村への往診で見せて頂いたのみである。
しかし、色平先生の行っている地域医療というのは、
単に医療現場を見るだけではわからないし、
‘地域医療とは医療という側面に留まらず、地域に暮らす人々
の中に自ら入っていくことの実践である’ということを知る体験
であったという事を後になって実感した。


6)色平先生とディスカッション内容

色平先生に「僻地で地域医療を行うというのはどういうことか」
ということを教えていただいた。以下にまとめてみたが、
とても繊細で難しい問題であるためうまく伝えられないかもしれないし、
誤解を与えるかもしれない。
色平先生に教えていただいたことの私なりの解釈ということでお許し願いたい。

地域社会とは、ムラ社会・共同体が未だ厳然と存在し、
深い地縁・血縁関係、厳格な家同士の関係があり、
村内のことは村中がつぶさに知っているような社会である。
そこでは暗黙のうちに、目立つこと、“しきたり”を破ることはタブー
とされている。

この中でヨソ者が医療を行わなければならない。
しきたりを守り、いたる所にあるタブーを犯さないようにしながら、
ムラ社会に入っていく。失敗はできない。
失敗したら村にいられなくなる。ヨソ者を村中が監視しているので、
誰一人として敵に回すことなく「全方位外交」でやっていかなくてはならない。

ムラの中に入っていけるのは医師の業があるからであり、
このおかげでヨソ者という傍流でありながら、
村人たち主流の動きを見ることができる。
そうしているうちに“交差する家”(神官の家、村長の家、
上の本家、下の本家、小作人の家、などの家の関係)など
より深い村内での関係を知ることができるようになる。
それぞれの立場でのことを聞いても決して口外してはいけない。
それは医者であってしかもヨソ者だから聞けることである。
この人には弱い面を見せてもいい、見せることができる
と思わせたらしめたもの。
こうしてムラ社会の中で信頼を得て、よりよい医療を行えるようになる。

ムラ社会の中に入っていかないと満足な地域医療は行えない。

気のおけないヨソ者=「あの先生はダメだ」で村中が固まってしまう。

ムラ社会に入っていかねばならない。
ムラの外の広い世界を知ったうえで、それを村人に気取られることなく、
ムラの狭い(が深い)社会に入っていく(ムラに合わせる)ことが必要である。

『広い視野と低い視点』をもって地域医療に携わることが重要。
ムラ人(特にキーパーソン)に認められなくてはならない。
悪い評判ほどではないにしろ、いったん「いい先生」と言ってもらえれば
その評判は広がるのだ。

その地域に医療を外から持ってくるのではなく、
地域の中から医療体制を作りだしていくべきである。

地域医療は“医療の一分野”というより、“地域の一役割”なのだ。


7)感想

*医学部4年 I.K.

南相木村での色平先生のお話はとても刺激的なものだった。
地域医療について学ぼうと思ったときに、村社会に入っていくこと
をここまで重要なものだと思っていなかった。
もちろんその地域の人たちとよい関係を築かなければならないと思っていたが、
それは街中の病院内で患者さんに対するように親切に接すればいいという
くらいのものだった。それよりむしろ大病院でないことの診察・
検査・治療上の有利、不利ということばかりに考えがいっていた。

色平先生の診察風景などはほとんど見なかった。
毎日村の人のお宅にお邪魔して、昔のお話を聞いたり、
畑に出たり草履づくりや機織を教わって、村の生活を体験した。
するとそこでは今まで感じたことのない、村人どうしの微妙で
濃密な歴史、関係を感じることができた。
それはそこで“感じる”しかない、
“知る”とか“分かる”とかいうたぐいのものではなかった。

初日には何を言っているのか、いまいちよく分からなかった色平先生のお話が、
村で過ごすうちにだんだん分かるようになった。
そしてそれはその後、他の地域医療を考える上でも、
ここで学んだことが通用するし、
地域を理解する上での素晴らしい助けになっている。


*医学部4年 Y.H.

東京で多くの年月を過ごしてきた私にとって、
南相木村における村社会や血縁・家同士の関係が根強く残る社会は
今まで触れたことのない世界であった。
今回お世話になった村の方々の間にも血縁や多面的な家関係が存在していた。

地域医療と一言でいっても、地域社会に本当の意味で入っていくことは、
多大な努力と年月を要する。色平先生は、現在では多くの村人に受け入れられ、
最期を看取って欲しいといわれるまでに信頼されているが、
先生の御人柄と共に、村の歴史・人間関係、村へ入っていくためのルール
を詳細に把握しているからこそ村人の心の奥底まで入っていくことを
可能にしたように思われる。
村で医師として生きていくためには、村人のニーズを知るだけでなく
人間関係の洞察や守秘、時には主張も必要であると知った。

色平先生は御家族と5人で診療所の隣の家で暮らしておいでになり、
1人の村人として村の会合やPTAの集まり等にも積極的に参加している。
村人として受け入れられるにも、それなりの決まりごとがあるという。
例えば、村の男衆の集まる寄り合いでも、言ってはいけない事といい事という
暗黙のルールがある。
こうした村における外部の者からは見えないルールを色平先生は「地雷」
と呼んでいたが、村にはルールがあると知ることのない医師がやみくもに
村に入ろうとしても地雷を踏みかねず、村人の心の中に入っていくことは
決してできないであろう。
未だきっかけを掴んだに過ぎないが、同時に、目線を変えて自分の置かれて
いる立場を知ることの重要さを学んだ様に思う。

今回、色平先生に実際にお会いして、
ここまで地域に入りこんだ医療を行っていることに驚いた。
色平先生の熱意を感じると同時に、村の先達に村の歴史や人生を聞こうとする
姿勢は人間そのものに対する興味と思いから来るもののように思う。
地域医療を行うことで、医療を超えた人間と人間同士の関係・
顔の見える関係を築いていけたらと思う。

南相木村では、色平先生をはじめ、様々な村の方が見ず知らずの私達学生を
温かく受け入れてくださった。一日や半日という長い時間を自分の
祖母や祖父と同じ位のおじいちゃん・おばあちゃんと過ごし、
人生についての話を語ってくださったことは私にとってかけがえのない経験
となった。
村にはしきたりが残る一方で、村人同士の助け合いの精神と温かさや
やさしさがあった。村では各々が青年団や消防団に参加し、村を皆で
支えていく役割を持つことが当然の役目であったという。
以前の日本では当たり前に存在した地域共同体が、
高齢化社会において見直されつつある中、南相木村から学ぶことは多い。
地域医療において、医師は医療を行うだけではなく、
住民の健康作りと共に地域のコミュニティー作りを促進することも
可能なのではないだろうか。

南相木村で経験し、色平先生から学んだ多くのことにより、
私の中でこれまで考えていた地域医療に新たな道が導き出されたように思う。
村で学んだ地域への考えは、他の地域にも応用でき、
村の方々との温かい触れ合いから人間として学んだことも多かった。
色平先生から“苦手なことをやる”という言葉をいただいたが、
学生のうちに苦手な事に挑戦し人間として成長していきたいと思う。

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