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--朝日夕刊 編集長インタビュー 哲郎

 

長野県南相木村診療所長 色平哲郎さん(編集長インタビュー)

       1999年01月30日 夕刊 007ページ 夕刊経済特集  写   1686字

 

 ――診療所長を務める南相木村は、昨年赴任されるまでは無医村だったそうですね。

 「二十年ほど無医村だったところへ家族連れで入ったんです。往診して、老人が方言

でしゃべる昔の話を聞くのが仕事です。兵隊の時の苦労、峠を越えてお嫁に来た時の話

。孫にも伝えられないでいることをどんどん話してくれるから、バンバン聞く。僕は日

本の村がかつてどんな社会だったのか、本気で知りたいから。ものがたりを聞いてくれ

る先生だって、評判は結構いいんです」

 ――最初から無医村の医者をめざしたのですか。

 「大学三年の時、このまま行くと企業の研究者になるだろうと。その道はいやだった

んで、家出したんです。自分の道を求めてあちこち放浪して、いろいろぶつかりながら

、いろんな人に世話になった。そして、こんなに世間が広く、学校と違うところでこん

なに多くの人が生きてるんだったら、その大海原に入っていきたいと思った。それには

医者がいいと、医学部に」

 「医学生のころ、フィリピンのレイテ島で、保健婦のような地域活動をしていたバン

グラデシュ出身のバブに出会ったんです。彼は二十三年前、医者を目指して日本に来て

、先端技術を駆使する日本の医学はバングラデシュでは役に立たないことをさとった。

そこで地域医療では先駆的な佐久病院(長野県)を訪ねた後、フィリピンに移っていま

した。僕はレイテで彼の話を聞き、彼の現場を見て、地域の中で働くっていうイメージ

がやっと固まってきた。日本で同じように仕事をするなら佐久病院へ行けと言われ、じ

ゃあ行ってみようと」

 ――NGO(非政府組織)の佐久地域国際連帯市民の会(アイザック)事務局長とし

て、外国人労働者らの支援活動も続けています。

 「九年前に佐久に来てたまげましたよ。あっちこっちでタイ語が話され、タイ人の女

性が妊娠して子供を産み落としちゃうまで放置されていたから。実は長野五輪の開催が

決まって、関連の土木工事のために、山の飯場で外国人の男の人が働き、町のスナック

で外国人の女の人が働いていた。アイザックは、こうした外国人たちの医職住の生活相

談から始まったんです」

 「外国人の医療相談を受けるというのが口コミで広まって、一九九四年に国際エイズ

会議が横浜であったとき、アイザックは、外国人のHIV(エイズウイルス)感染者を

日本で最もたくさん経験した団体になってました。アフリカ人の体格のいいおじさんが

HIVに感染して体重が半分になり、鼻血を出しながら結核の治療で入院したときは、

初めてのエイズ患者だったから、看護婦はパニックですよ。何なんだあの医者は、とい

うことになる。佐久病院だから抱えててくれたけど」

 ――放浪体験も影響した?

 「シベリア鉄道で一週間旅したり、アジアの国をしょっちゅう回ってました。庶民が

どっこい生きているという中で、人々に大変お世話になった。僕はそうして医者になっ

たから、技術をどこで使うかと言ったら、外国人の労働者のためであり、売春婦のため

だと思ったんです。七百人いたタイ人も今では百五十人ほどに減ったけど、僕いろんな

ことに気づきましたね。外国人労働者問題なんてなくて、日本社会の問題なんだって。

日本社会が偏ったり、ずれてたりするから、異分子が入ると鏡になって、わかりやすく

なるだけなんですね」

 「いま、毎年百人からの医学生、社会人を引き受けて、日本の村をお見せしてます。

そしてどしっと座ったクマ撃ち名人の老人に、あなた方は今何を見るのか、と問うんで

す。百姓は、文字通りすべてのことができる。山仕事から家だって建てちゃう。でもG

NP換算すれば、そんなのマイナスになっちゃうわけですね。そのかっこよさ、すさま

じさ、パワーは、僕がお伝えする以外ない。だから僕は、十年後もへき地の医師でいた

い」

 (滝本裕)

 *

 いろひら・てつろう 東大中退、京大医学部卒。内科医。90年佐久総合病院で研修

医、京大病院勤務などを経て96年野辺山へき地診療所長(長野県)。98年6月から

現職。この間、外国人HIV感染者らの生活支援、帰国支援に取り組む。39歳。

 (写真・長沢幹城)

 

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