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--朝日夕刊 編集長インタビュー バブ

 

医師 スマナ・バルアさん(編集長インタビュー)

       1999年04月03日 夕刊 007ページ 夕刊経済特集 

 

 ――ODA(政府の途上国援助)を使って日本から途上国に派遣する専門家の事前研

修プログラムで、コースアドバイザーをされていますね。

 「一九七八年にWHO(世界保健機関)とユニセフが、旧ソ連のアルマアタで会議を

開き、『二〇〇〇年までに世界のすべての人々に健康を』と宣言しました。そして目標

を達成するために、住民主体の地域保健・医療活動であるプライマリ・ヘルス・ケア(

PHC)を推進することで合意したんです。でも、ユニセフの調査では、今も途上国の

保健・医療関係予算の八五%が病院を中心に使われ、その恩恵を受けているのは人口の

一〇%にすぎません」

 「今まで日本は、例えば公衆衛生関係のプロジェクトだと、大きな病院を建てるとか

してきたんですね。でも、これからはもっと現地で活躍できる人材を育てようというこ

とで、一昨年の秋、JICA(国際協力事業団)から私の教授の梅内拓生先生に相談が

あったんです。でPHCの関係なら君がやりなさいと」

 ――PHCに従事するようになったきっかけは?

 「十二歳の時、大好きだった叔母さんが難産でなくなりました。電気もない村です。

それで、大きくなったらこの村で医者として働きたいと。京都の大学に留学していた兄

の世話で、七六年に日本に来ました。でも日本の大学の医学部を訪ねると、最先端の医

療機械が並んでいました。電気がない、きれいな水もないところで機械は動きません。

結局、日本では三年間、外国人労働者のパイオニアというか、中央高速道路の小淵沢イ

ンターを造ったり、田んぼや畑で仕事したりして学費をため、フィリピンのレイテ島で

PHCの実践的な教育をしていたフィリピン国立大学レイテ校に入ったんです」

 「レイテ校は入学試験がありません。高校までに村の活動にかかわった若者を、村人

の推薦で入学させ、お金は大学が出します。学校での勉強と地域実習を繰り返しながら

保健、助産、看護、医師とステップを上がっていくのですが、その都度、村人の推薦が

ないと次に進めません。学校には、大きな建物も近代的な医療機械もありません」

 ――日本のODAは、額の大きさほどは評価されていない、との指摘もあります。

 「私は日本で小学校に呼ばれたとき、子供たちにスライドを見せます。カンボジアの

子供が一本の鉛筆を持って、ありがとうございました、と手を合わせてる写真です。私

自身も子供のころバングラデシュの村で、母に削ってもらった竹でバナナの葉っぱに字

を書きました。子供たちにそんな話をすると、後ろに座ってるお母さんたちから『鉛筆

足りないんですか。集めて送りましょうか』と。従来の日本の援助とよく似てます。で

も、大切なのは、自分の子供たちに鉛筆を大事にするように教えることなんです」

 「レイテ島にいたとき、日本の学生さんたちを受け入れて、村のトイレ作りに参加し

てもらいました。八十軒の村に、二十軒しかトイレがないんです。そこで外からお金を

出してトイレを作ってあげるのではなく、村人にも参加してもらって、みんなで順番に

トイレを作りましょうと。フィリピンと日本の学生、村の若者が一緒になって竹やセメ

ントを運びました。そうすると学生たちは『あの村でトイレを作ったよ』と言って、い

つまでも忘れません。村の若者も『自分たちでトイレを作りました』と満足です。モノ

とかお金だけでなく、こうした支援が必要なんです」

 ――人材育成が重要だと。

 「私の大好きな詩に、こんな一節があります。『本当に優れた指導者が仕事をしたと

きは/その仕事が完成したとき/人々はこう言うでしょう/我々自身がこれをやったの

だ、と』。援助する人とされる人、みんなが主役になれるODAであってほしい。その

ために、私も、日本やアジアで、志のある若い人材を育てたい。それが私の役目ですか

ら」

 (滝本裕 写真・大友良行)

 *

 Sumana Barua 東大医学部大学院研究員 バングラデシュ・チッタゴン

生まれ。76年に来日。79年フィリピン国立大学に入学し医師の資格を取得。89年

故郷に戻り、地域保健医療に従事。93年4月から東大大学院国際保健計画学教室の研

究員。医学博士。43歳。

 

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