目次に戻る 

 

 

     バブ色平

 

これまでに、マスコミなどに報道されたバブと色平の記事7編をまとめて

ここに掲載します。

 

朝日新聞 こころ 金持ちより“心持ち”に

 

発展途上国の医療を研究しつつ説く 医師バブさん(こころ)【大阪】

       1997年05月27日 夕刊 005ページ こころ     写   2366字

 

 「金持ちより“心持ち”になろう」。バングラデシュ出身の医師スマナ・バルアさん

(四二)=通称バブさん=はこう説きながら、発展途上国の医療や保健のありかたを研

究している。バブさんの考え方に触発されて、大病院を辞めてへき地に行ったり、アジ

アの途上国での医療を目指したりする日本の若い医師が生まれた。かれらの姿には「意

味のある生き方」を見つけようとする自分探しの様子も見える。(企画報道室 安村弘

 

 バブさんは今、途上国での保健医療を専攻する東大医学部大学院国際保健計画学教室

(梅内拓生教授)の研究員をしている。当面のテーマはハンセン病の治療と予防システ

ムをアジアの国々の政策や法律にする原案づくりだ。インドネシア、フィリピン、ベト

ナムなどを歩き、世界保健機関(WHO)が各国の政府を通じて送っている薬がちゃん

と届いているかどうかなどを調べた。

 「アジア諸国では患者は地域で暮らしており、差別はあっても日本ほどひどくはない

」という。

 バブさんは長野県南牧村野辺山で三月下旬、講演した。地元の人たちがつくった自主

講座「野辺山広場」の旗揚げに招かれたのだ。よどみのない日本語で「日本では医者と

患者の間に強い壁があり、人間として人間を世話することを忘れています。金持ちにな

りたい医者をつくるよりも“心持ち”になる医者を育てないといけない」と持論を強調

した。

 バングラデシュのチッタゴンで代々続く仏教徒の家に生まれた。十二歳のとき、母や

姉の友人でバブさんもよく知っていた女性が、お産のときに亡くなる。涙を流す母たち

を見て、医師になろうと決意した。

 

 ○25ドル手に来日

 バングラデシュで大学の医学部に入る準備をする学校(短期大学)を卒業。村で役立

つ医者になりたいと、先に京都工芸繊維大学に留学していた兄を頼って一九七六年(昭

和五十一年)、二十五ドル(当時の価値で約七千五百円)をポケットに日本に来た。

 静岡県で茶摘み、長野県で道路工事や牧場の手伝い、京都市で飲食店の皿洗いなどア

ルバイトをしながら日本語を勉強した。この間、知り合った神父の紹介で大学医学部や

病院を見学、先端技術を駆使する診療を見て「こんな立派な機械は私の村には持って行

けない」と気づく。日本で医学を学んでもバングラデシュでは役に立たないとさとった

 知人から知人への紹介で七九年、フィリピン・レイテ島のフィリピン大学医学部レイ

テ分校に入学した。分校は医師や看護婦の海外流出と都市集中に悩んだフィリピンが、

村で保健や医療に従事する人たちを育てようとつくった。週のうち半分は教室での座学

だが、残りの半分は先輩について実際に村をまわり、手伝いながら見習いをする。看護

婦(士)、助産婦(士)、そして医師と階段を上るように学ぶ。

 

 ○「道を示した」

 医師の資格を得て、故郷チッタゴンの応用衛生科学大学の講師になった。同大学の準

教授をしていた九二年、学会のため来日、東京で梅内教授にあった。梅内教授がWHO

の仕事をしていた八二年、レイテで知り合った仲だった。東大に国際保健の教室をつく

るから来てほしいと頼まれた。

 自主講座「野辺山広場」の発起人の一人、南牧村野辺山へき地診療所の医師色平(い

ろひら)哲郎さん(三七)は京大医学部の学生だった八六年にレイテ島で偶然、バブさ

んに出会う。一緒に村を歩いた。「地域の役にたちたい」。そう話す色平さんに、バブ

さんは「日本なら佐久総合病院があるよ」と教えた。

 佐久病院(長野県臼田町)は、若月俊一総長の「農民とともに」を合言葉に同県八千

穂村の全村民健康管理に象徴される地域医療を実践、在宅看護などでは国の政策の先駆

けをしてきた。レイテ分校は、若月総長が提唱したものの日本では実現しなかった「農

村医科大学構想」に共鳴したフィリピンがつくった。

 色平さんはそのころ、佐久病院をよくは知らなかった。

 「レイテで佐久病院に出あった。バブさんは私の道を示してくれたわけです」。大学

を出て佐久病院に勤めるようになり、いまは同病院から出向して診療所に勤務している

 

 ○“赤ひげ”に

 北海道寿都町、道立寿都病院外科医長の藤戸収作さん(三五)は、虎の門病院(東京

都港区)の医師だった九四年、医学雑誌に載ったバブさんの「途上国の地域医療には持

続的な住民の健康管理と衛生環境の整備が重要。関心のある人にはプログラムを用意す

る」との呼びかけを読んで生き方を変えた。

 バブさんに会って、夜明けまで話し合った。虎の門病院を退職、バングラデシュ、イ

ンド、ネパールなどを三カ月かけて見てまわった。

 藤戸さんは旭川医科大学を出て虎の門病院の医師になった。「“赤ひげ”のような医

師になりたいなとあこがれてたけど、どんどん違う方へ行ってるように思えた」。悩ん

でいたころにバブさんを知った。アジアを見て帰った後、奄美大島・名瀬の病院勤務を

経て、現職についた。

 

 ○外国人支援も

 兵庫県尼崎市、井上真智子さん(二四)は今年四月から阪大病院で研修医をしている

。まだ京大医学部の学生だった三月、バブさんの世話でインドの医療現場を見た。以前

からアジア、アフリカでの保健医療に関心があり、一昨年にはケニアの難民キャンプに

行ってきた。

 「働いているうちに考え方は変わるかもしれないけれど、アジアで医療に従事するの

もいいかなって思っています」

 バブさんがこれまで世話した日本人の学生や医師は約八十人にのぼる。「人間として

人間の世話をするのはお釈迦(しゃか)さんの教えです」。根っこにある考えをそう話

した。

 色平さんらとともに非政府組織「佐久地域国際連帯市民の会」を七年前に結成。日本

に来ている外国人労働者や女性の支援をしている。

 

 【写真説明】

 「できることから始めましょう」と話すバブさん=長野県南牧村で

 

 

 

------------------------------------------------------------------------------

--朝日新聞 医学生ら、地域医療の現場で学ぶ

 

「原点が見える」 信州大の医学生ら、地域医療の現場で学ぶ /長野

       1997年08月27日 朝刊  ページ 長野      写   909字

 

 信州大学で医療や看護を学ぶ学生たちが二十七日まで、南佐久郡の町村で合宿し、地

域医療の現場を訪ねている。いずれもへき地での医療や看護、外国人労働者の健康に関

心を寄せる学生で、「夏場は高原野菜で忙しいといった地域の特色が健康にも反映して

いることが分かる」と、学内では得がたい現場体験に意欲を燃やして取り組んでいる。

  

 参加しているのは、信大のサークル地域医療研究会の会員六人と、東京の東邦大医療

短大の一人。南牧村診療所と同村の野辺山へき地診療所の医師を兼ねる色平(いろひら

)哲郎さん(三七)と、東大国際保健計画学教室の大学院生スマナ・バルアさん(四二

)の仲立ちで実現した。

 一行は南牧、川上両村の診療所や、小海町の佐久総合病院分院で医師の往診に立ち会

い、町村の保健婦に話を聞いている。さらに、川上村文化センターをはじめ地域の施設

を訪ねて、建設の狙いや住民の利用状況を尋ねている。

 二十五日は、南牧村が無医村だった二十八年前から保健婦を務めている菊池智子さん

(五二)を囲んだ。

 菊池さんは、妊娠中絶や子供の病気への対応で悩む母親のために若妻会を作り、その

後に婚前学級作りにもかかわった経験を説明した。学生たちが、時代と共に子供たちの

変わりようについて質問すると、「時代は変わっても、健康についての住民のニーズを

引き出し、行政に提言する保健婦の役割は変わらない」と語った。

 この合宿について、信大グループの医学部三年生、鈴木伸さんは「大学病院や大きな

医療施設は、学内の実習や研修医として学べるが、へき地の診療所や保健婦の働く現場

を訪ねる機会は少ない。今回の訪問で、地域の実情を理解することなく医療や看護は行

えないことも分かった」と語る。

 信大生から相談を受けた色平さんとバルアさんは、東北、九州など各地の学生の地域

医療見学を面倒みている。今年はすでに三十人を超えている。色平さんは「村に来れば

、医療でも看護でも原点がよく見える。医療協力で途上国に出たいと考えている学生た

ちも、保健婦の地域での活動は参考になるはずだ」と語っている。

  

 【写真説明】

 南牧村の保健婦、菊池智子さん(左)を囲んで話し合う学生たち=南牧村役場で

 

 

 

------------------------------------------------------------------------------

--朝日新聞 JICAが初の国内研修

 

地域医療の実績、途上国で活用を JICAが初の国内研修 /長野

       1999年02月12日 朝刊  ページ 長野      写   832字

 

 住民主体の地域保健・医療活動「プライマリ・ヘルス・ケア」の専門家を養成して途

上国に派遣しようと、国際協力事業団(JICA)が十一日まで、佐久地域で初の国内

研修を実施した。この分野で途上国に先行している日本の実績をそのまま生かせるわけ

ではないが、「足元の歴史や現状を知らずに途上国でいい仕事はできない」との考えか

ら、半世紀にわたる農村医学の実績がある佐久が研修の場に選ばれた。

 研修は九日から始まり、初日は無医村で妊娠中絶や子どもの病気に悩む女性のために

若妻会を作り、婚前学級にもかかわった南牧村の保健婦菊池智子さん(五四)の体験を

聞いた。参加者は海外での活動を希望する医者や薬剤師、臨床検査技師ら七人で大半が

三十歳代。保健婦の柴田貴子さん(三〇)は「若い保健婦が性の問題を掲げて地域に入

って抵抗はなかったのかどうか関心を持ちました」と語る。

 十日は「レタス王国」として知られる川上村の藤原忠彦村長が、農村に文化を根付か

せることの大切さを軸に話した。南相木村診療所長の色平哲郎医師は、地域とともに生

きる姿勢を貫いてきた臼田町の佐久総合病院の実践を報告した。

 日本は一九七三年以来、アジアやアフリカを中心に二十一カ国に公衆衛生や母子保健

などプライマリ・ヘルス・ケア分野の専門家を派遣してきた。途上国ではこの分野の需

要が年々高まっており、研修を企画したJICAの山形洋一・専門員は「日本の保健や

医療の足跡には、途上国で役立つものがあるはずだ。それを学びとってほしい」と狙い

を語る。

 参加者は今月下旬から、フィリピン大学保健学部での研修に入る。同大でプライマリ

・ヘルス・ケアを学び、今回の研修で講義もするスマナ・バルアさん(四三)=東大国

際保健計画学教室=は「この分野の専門家は人材育成が大切な仕事。志が伴えば必ず役

に立てる」と話している。

 【写真説明】

 「無医村の保健婦は何でも屋だった」。地域医療の話に聴き入るプライマリ・ヘルス

・ケア研修の参加者たち=9日、川上村で

 

 

 

 

------------------------------------------------------------------------------

--朝日夕刊 編集長インタビュー バブ

 

医師 スマナ・バルアさん(編集長インタビュー)

       1999年04月03日 夕刊 007ページ 夕刊経済特集  写   1706字

 

 ――ODA(政府の途上国援助)を使って日本から途上国に派遣する専門家の事前研

修プログラムで、コースアドバイザーをされていますね。

 「一九七八年にWHO(世界保健機関)とユニセフが、旧ソ連のアルマアタで会議を

開き、『二〇〇〇年までに世界のすべての人々に健康を』と宣言しました。そして目標

を達成するために、住民主体の地域保健・医療活動であるプライマリ・ヘルス・ケア(

PHC)を推進することで合意したんです。でも、ユニセフの調査では、今も途上国の

保健・医療関係予算の八五%が病院を中心に使われ、その恩恵を受けているのは人口の

一〇%にすぎません」

 「今まで日本は、例えば公衆衛生関係のプロジェクトだと、大きな病院を建てるとか

してきたんですね。でも、これからはもっと現地で活躍できる人材を育てようというこ

とで、一昨年の秋、JICA(国際協力事業団)から私の教授の梅内拓生先生に相談が

あったんです。でPHCの関係なら君がやりなさいと」

 ――PHCに従事するようになったきっかけは?

 「十二歳の時、大好きだった叔母さんが難産でなくなりました。電気もない村です。

それで、大きくなったらこの村で医者として働きたいと。京都の大学に留学していた兄

の世話で、七六年に日本に来ました。でも日本の大学の医学部を訪ねると、最先端の医

療機械が並んでいました。電気がない、きれいな水もないところで機械は動きません。

結局、日本では三年間、外国人労働者のパイオニアというか、中央高速道路の小淵沢イ

ンターを造ったり、田んぼや畑で仕事したりして学費をため、フィリピンのレイテ島で

PHCの実践的な教育をしていたフィリピン国立大学レイテ校に入ったんです」

 「レイテ校は入学試験がありません。高校までに村の活動にかかわった若者を、村人

の推薦で入学させ、お金は大学が出します。学校での勉強と地域実習を繰り返しながら

保健、助産、看護、医師とステップを上がっていくのですが、その都度、村人の推薦が

ないと次に進めません。学校には、大きな建物も近代的な医療機械もありません」

 ――日本のODAは、額の大きさほどは評価されていない、との指摘もあります。

 「私は日本で小学校に呼ばれたとき、子供たちにスライドを見せます。カンボジアの

子供が一本の鉛筆を持って、ありがとうございました、と手を合わせてる写真です。私

自身も子供のころバングラデシュの村で、母に削ってもらった竹でバナナの葉っぱに字

を書きました。子供たちにそんな話をすると、後ろに座ってるお母さんたちから『鉛筆

足りないんですか。集めて送りましょうか』と。従来の日本の援助とよく似てます。で

も、大切なのは、自分の子供たちに鉛筆を大事にするように教えることなんです」

 「レイテ島にいたとき、日本の学生さんたちを受け入れて、村のトイレ作りに参加し

てもらいました。八十軒の村に、二十軒しかトイレがないんです。そこで外からお金を

出してトイレを作ってあげるのではなく、村人にも参加してもらって、みんなで順番に

トイレを作りましょうと。フィリピンと日本の学生、村の若者が一緒になって竹やセメ

ントを運びました。そうすると学生たちは『あの村でトイレを作ったよ』と言って、い

つまでも忘れません。村の若者も『自分たちでトイレを作りました』と満足です。モノ

とかお金だけでなく、こうした支援が必要なんです」

 ――人材育成が重要だと。

 「私の大好きな詩に、こんな一節があります。『本当に優れた指導者が仕事をしたと

きは/その仕事が完成したとき/人々はこう言うでしょう/我々自身がこれをやったの

だ、と』。援助する人とされる人、みんなが主役になれるODAであってほしい。その

ために、私も、日本やアジアで、志のある若い人材を育てたい。それが私の役目ですか

ら」

 (滝本裕 写真・大友良行)

 *

 Sumana Barua 東大医学部大学院研究員 バングラデシュ・チッタゴン

生まれ。76年に来日。79年フィリピン国立大学に入学し医師の資格を取得。89年

故郷に戻り、地域保健医療に従事。93年4月から東大大学院国際保健計画学教室の研

究員。医学博士。43歳。

 

 

 

 

------------------------------------------------------------------------------

--朝日夕刊 編集長インタビュー 哲郎

 

長野県南相木村診療所長 色平哲郎さん(編集長インタビュー)

       1999年01月30日 夕刊 007ページ 夕刊経済特集  写   1686字

 

 ――診療所長を務める南相木村は、昨年赴任されるまでは無医村だったそうですね。

 「二十年ほど無医村だったところへ家族連れで入ったんです。往診して、老人が方言

でしゃべる昔の話を聞くのが仕事です。兵隊の時の苦労、峠を越えてお嫁に来た時の話

。孫にも伝えられないでいることをどんどん話してくれるから、バンバン聞く。僕は日

本の村がかつてどんな社会だったのか、本気で知りたいから。ものがたりを聞いてくれ

る先生だって、評判は結構いいんです」

 ――最初から無医村の医者をめざしたのですか。

 「大学三年の時、このまま行くと企業の研究者になるだろうと。その道はいやだった

んで、家出したんです。自分の道を求めてあちこち放浪して、いろいろぶつかりながら

、いろんな人に世話になった。そして、こんなに世間が広く、学校と違うところでこん

なに多くの人が生きてるんだったら、その大海原に入っていきたいと思った。それには

医者がいいと、医学部に」

 「医学生のころ、フィリピンのレイテ島で、保健婦のような地域活動をしていたバン

グラデシュ出身のバブに出会ったんです。彼は二十三年前、医者を目指して日本に来て

、先端技術を駆使する日本の医学はバングラデシュでは役に立たないことをさとった。

そこで地域医療では先駆的な佐久病院(長野県)を訪ねた後、フィリピンに移っていま

した。僕はレイテで彼の話を聞き、彼の現場を見て、地域の中で働くっていうイメージ

がやっと固まってきた。日本で同じように仕事をするなら佐久病院へ行けと言われ、じ

ゃあ行ってみようと」

 ――NGO(非政府組織)の佐久地域国際連帯市民の会(アイザック)事務局長とし

て、外国人労働者らの支援活動も続けています。

 「九年前に佐久に来てたまげましたよ。あっちこっちでタイ語が話され、タイ人の女

性が妊娠して子供を産み落としちゃうまで放置されていたから。実は長野五輪の開催が

決まって、関連の土木工事のために、山の飯場で外国人の男の人が働き、町のスナック

で外国人の女の人が働いていた。アイザックは、こうした外国人たちの医職住の生活相

談から始まったんです」

 「外国人の医療相談を受けるというのが口コミで広まって、一九九四年に国際エイズ

会議が横浜であったとき、アイザックは、外国人のHIV(エイズウイルス)感染者を

日本で最もたくさん経験した団体になってました。アフリカ人の体格のいいおじさんが

HIVに感染して体重が半分になり、鼻血を出しながら結核の治療で入院したときは、

初めてのエイズ患者だったから、看護婦はパニックですよ。何なんだあの医者は、とい

うことになる。佐久病院だから抱えててくれたけど」

 ――放浪体験も影響した?

 「シベリア鉄道で一週間旅したり、アジアの国をしょっちゅう回ってました。庶民が

どっこい生きているという中で、人々に大変お世話になった。僕はそうして医者になっ

たから、技術をどこで使うかと言ったら、外国人の労働者のためであり、売春婦のため

だと思ったんです。七百人いたタイ人も今では百五十人ほどに減ったけど、僕いろんな

ことに気づきましたね。外国人労働者問題なんてなくて、日本社会の問題なんだって。

日本社会が偏ったり、ずれてたりするから、異分子が入ると鏡になって、わかりやすく

なるだけなんですね」

 「いま、毎年百人からの医学生、社会人を引き受けて、日本の村をお見せしてます。

そしてどしっと座ったクマ撃ち名人の老人に、あなた方は今何を見るのか、と問うんで

す。百姓は、文字通りすべてのことができる。山仕事から家だって建てちゃう。でもG

NP換算すれば、そんなのマイナスになっちゃうわけですね。そのかっこよさ、すさま

じさ、パワーは、僕がお伝えする以外ない。だから僕は、十年後もへき地の医師でいた

い」

 (滝本裕)

 *

 いろひら・てつろう 東大中退、京大医学部卒。内科医。90年佐久総合病院で研修

医、京大病院勤務などを経て96年野辺山へき地診療所長(長野県)。98年6月から

現職。この間、外国人HIV感染者らの生活支援、帰国支援に取り組む。39歳。

 (写真・長沢幹城)

 

 

------------------------------------------------------------------------------

--アエラ 21世紀の30代50人

 

総合30人 注目の若者を選び聞いた 21世紀の30代50人

       1998年12月28日 週刊 011ページ アエラ     写   8919字

 

 30代の大半は、熱気あふれる1960年代の生まれだ。

 育った時は高度成長、青春時代はバブルとその崩壊だった。

 彼ら、彼女らは、何を考え、どう生きようとしているのか。

 活躍の「総合30人」と一芸の「特別20人」が登場する。

 (編集部 矢田義一 ライター阪東恭一、千葉明日香、河合秀洋、西瑞恵、小野寺美

) ◆総合

 服部真澄(文学) 根井雅弘(経済) 枝野幸男(政治) 大西順子(音楽) 藤沢

久美(経営) 岩井俊二(映画) 野田聖子(政治) 林芳正(政治) 志々田浩太郎

(政治) 出縄良人(経営) 折口雅博(経営) 伊藤穰一(経営) 岩井俊雄(メデ

ィアアート) 伏見憲明(社会) 佐藤綾子(経済) 木村剛(経済) 飯尾潤(政治

学) 中村直人(法律) 松川公浩(環境) 色平哲郎(医療) 米谷三以(法律) 

三谷幸喜(脚本) 馳星周(文学) 庵野秀明(映画) 仙頭武則(映画) 佐藤美枝

子(音楽) ホンマタカシ(写真) 福田美蘭(美術) 樹なつみ(漫画) とよだみ

き(造園)

 ◆特別

 梅田竜二(スポーツ) 常盤響(デザイン) 赤坂真理(文学) 坂田和人(スポー

ツ) 福田正博(スポーツ) 山田美幸(スポーツ) リック吉村(スポーツ) 熊田

しのぶ(デザイン) 鈴木裕美(演出) 山田千恵(デザイン) 松井きみ子(工芸)

 松原忠(工芸) 荒野真司(美術) 井出保夫(経済) 池本美香(社会学) 齋藤

安弘(経営) 藤村道代(経営) 桃井和馬(写真) 東儀秀樹(音楽) 磯尾克行(

出版)

 

◇色平哲郎(いろひら・てつろう) 医師 38歳

 外国人HIV感染者、発症者への生活支援、帰国支援に取り組む。95年タイ政府よ

り表彰される。

 ○1960.1.29○AB○横浜市○東大中退、京大○短気、単純、短足○金持ち

より心持ち○飢餓と飽食○ムシュー・カムドゥシュ○田中秀征○9時間。妻苛め

 ●家族5人で長野県の無医村の医療に取り組んでいる。赴任以来人情の厚さに感謝し

ている。10年後も無医村医を続けたい。

 ●女性の時代になる。村の時代にも。地域社会の温かさや素朴さを皆が楽しむ時代に

知足の人生を送りたい。

 

 

 

------------------------------------------------------------------------------

--朝日新聞 へき地医療原点に国際貢献を

 

長野県南相木村 へき地医療原点に国際貢献を 色平哲郎(地域通信)

       1998年11月04日 朝刊 004ページ オピニオン   写 Y 713字

 

 色平(いろひら)哲郎

  

 長野県の東南部、人口千三百人の南相木村。週に三回、医者が半日通ってくるだけだ

ったこの村で、今年六月から初代診療所長として家族五人で暮らし始めた。

 鉄道も国道もない村では、自家用車が普及するまで、人は最寄りの駅まで三里(約十

二キロ)の山道を歩いたという。養蚕と炭焼きなどの山仕事しか現金収入のなかった時

代だ。今は村営バスが走り、農作業も機械化されたが、患者さんのほとんどは、そんな

村の歴史を知るお年寄りたちだ。

 診療の合間に、その口から語られるのは遠い記憶である。今はない分校に子どもたち

の歓声が絶えなかったこと。足ることを知り、隣近所が支え合った暮らしぶり。今も村

に残るそんな人情味は、かつて放浪し、へき地医療に取り組むきっかけとなった東南ア

ジアの村々をほうふつとさせた。

 そんなことから日本の農山村を理解することが、途上国への真の国際貢献につながる

のではと考え始めた。高価な医療機器も高度な技術も、貧しい村ではすぐには意味をな

さない。献身的な「心持ち」の人々の協力が村を魅力的なものにしている。

 南相木村の隣村で診療を始めた三年前から、五、六十人の医学生や看護学生がへき地

医療を知ろうと毎年泊まり込みでやってくる。その多くが女性だ。長かった無医村時代

、地域に密着して献身的に日夜格闘していた村の助産婦や保健婦たち。ボランティアの

原点といえる、そんな人たちの話が学生の胸を打つ。タイやブラジルなどから視察に来

た医師らと彼らとの交流もいくつか生まれた。聞けば、学生たちの半数はアジアの国々

の農村保健に関心があるという。村で得た体験をもとに、彼らがアジア各地へと飛び出

していくことを願いたい。

 (医師)

  目次に戻る inserted by FC2 system