インタビュー「こんにち話」


「国際医療協力」
ODAはお金から志へ重点移すべき

スマナ・バルアさん (WHO医務官)


日本の若い医学生らを育てるために、
国際協力事業団(JICA)などの専門家研修コースのアドバイザーとして、
働いてきました。
医学生たちに現場の経験をさせたかったのです。

私が十二歳のとき、村で若いお母さんがお産で亡くなりました。
母や姉、村人も泣いていた。
それを見て悲しかった。
この「ぶつかり」があって、私は医者になることを志しました。

「なぜ医者になるのですか」と聞くと、多くの日本の学生が答えられない。
ぶつかりの中で、まず自分の足元をつくるべきです。
私が担当する研修コースは現場です。
マニラのごみの山を歩いてもらいます。
「ここで生き方の夢を見つけて下さい」と言います。

日本の若い人たちはしかられたことがない。
私は研修ですごく怒る。
学生時代にいろんな先生と出会ってあちこち人生の壁にぶつかりながら、
どういう医者になりたいか探る。
ある時期には、しかってやることが重要です。


ーー十数年、日本の医学生らの海外研修にかかわり、
強い影響力を発揮したーー

日本の政府開発援助(ODA)は、カ(金)キ(機械)ク(車)中心でした。
これからは「健康(ケ)で、志と心根(コ)」のある若者を育てなければならない。
カキクからケコに重点を移すことが必要です。

私は最初、バングラデシュの自分の村に戻り、医者になった。
しかし、アジアの村々を歩いていると、
ふるさとと同じような村をたくさん見つけました。

アジア人の8割はそうした貧しい農山村に住んでいる。
志ある仲間づくりが重要です。
私一人で頑張っても何もできない。
国際医療協力で、日本の若者たちにハッパをかけました。

同時に日本への留学生の世話もしてきました。
私は昔、長野県を中心に全国でゴルフ場の草を植えたり、牧場で働いたり、
高速道路を建設したり、飲食店で皿洗いしたりと、
さまざまな仕事をしながら、勉強する医学校を探した。
気付いたら外国人労働者の「パイオニア」になっていました。


ーー日本で青春時代の三年間を過ごし、日本語を習得した。
そのときの出会いが人生の基礎になったーー

日本の医学部は教科書や機械を中心に専門化が進んでいるが、
私は自分の空(から)の手に技術をつかみたかった。
フィリピンのレイテ島で学校を見つけ、十年間、
自分の夢通り、地域で働く医者になる勉強をしました。

患者も医者も同じ人間です。
医者が現場に入らなければ、患者を人間としてお世話できない。
そこには心理的な壁ができます。
国家試験に受かると「先生」と呼ばれ、知らず知らずに「白衣の壁」もできます。


ーー白衣の壁をつくるな、と諭した教え子の医師や専門家は二百人を超え、
三十数カ国で活躍しているーー

経済発展とともに技術がどんどん進んだ。
人力車から新幹線のスピードになりました。
しかし、人力車の時代の人の気持ちはとても温かかった。
それがなくなった。
精神面でむしろ後退しているのが悲しい。
この社会の「病気」は日本からアジアに広がっている可能性が高い。
この病を予防するのも私の仕事です。

WHO医務官としては、アジアのハンセン病と結核の対策に取り組みます。
駐在するマニラでは、人材育成の仕事も続けます。
何かあれば、週末には日本に帰ってきますよ。

(聞き手は共同通信編集委員  小川明、写真 小島健一郎)

SUMANA BARUA  誕生日は1955年5月5日



SUMANA BARUA 
1955年バングラデシュ生まれ。76年来日。
フィリピン大学レイテ校で医師資格を取得。
92年に再来日。東大で医学博士。
東大医学部の非常勤講師や国際医療福祉大講師を経て、
ことし4月から世界保健機関(WHO)医務官として
アジア・西太平洋37ヶ国の地域保健を担当。

出身地はバングラデシュ・チッタゴン


「レントゲンですべては写りません。
機械で人間を診るよりも、心を診る医者が必要です」
と語るスマナ・バルアさん
=東京都港区の共同通信で

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