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響きあう「いのち」

 

             

苦楽を分かち合う寄り添い人に

             

ドクター・バブの思想と実践

 

 

             須田 治(ジャーナリスト)

 

 

 

★隣人の苦しみ見つめ医師志願

 

スマナ・バルアさん。四十五歳。

ドクター・バブ、あるいはバブさんと愛称で呼ばれ、慕われる。

国際保健の分野でバブさんを知らぬ者は、まずいない。

 

バングラデシュ東部、チッタゴン市郊外の貧しい農村で生まれた。

イスラム教国では珍しい仏教徒の村である。

家系で必ず一人僧侶を出すという習慣がある上座仏教が根づく。

十二歳のとき、近所のおばさんが産褥熱で赤ちゃんと一緒に亡くなった。

貧しい生活の中でまともな医療も受けられずに亡くなってゆく隣人たちの姿を見て、

医師になろうと決意した。

 

叔父マハテロ大僧正(九五年他界)は独立戦争で親を失った子どもたちのために

孤児院を建て、貧しい子どもの教育支援も続けていた。

大僧正はベンガル仏教会最高指導者であり、宗派を超えて敬愛された。

庭野日敬立正佼成会開祖らと世界宗教者平和会議の創設に尽力したことでも知られる。

バブさんは大僧正のカバン持ちとして世界各地、

とりわけ日本に何度も訪れ、その進んだ医療にあこがれた。

 

バングラデシュの仏教は、生者の苦しみを解き放つための教えであった。

《苦しむ人たちに寄り添いなさい。できることから取り組みなさい》

との叔父の教えに従って、バブ少年は孤児たちの体を洗った。

衣類のない子どもがいると、父から

「バブ、おまえの服を一着差し上げなさい」と言われた。

分かち合いの心を叔父や父から体で教えられたことが、

精神形成の原点となった、とバブさんは思う。

 

七六年。バングラデシュの短大で医学部に進学するための基礎を学んだバブさんは、

京都の大学で学ぶ兄を頼って来日した。

そのとき、ポケットには二十五ドル(当時約七千五百円)しかなかった。

学費を稼ぐために働いた。

山梨と長野の県境では高速道のインターチェンジ建設の工事に従事した。

「当時の私は医療ではなく外国人労働者のパイオニアでした」と笑う。

 

静岡では茶摘み、京都ではレストランで皿洗いをして日本語と人々の暮らしを学んだ。

日本での労働は金銭を得るためだけではなかった。

高度経済成長を支える人々の労働の現場に飛び込み、等身大の姿を学ぶためでもあった。

ある時は長距離トラックに乗って荷物の積み卸しをしながら山口県まで旅をした。

極寒の北海道で漁師の舟にも乗った。

患者の日常生活にまで目を配ってこそ正しい医療が行なわれるのだとバブさんは信じる。

しかし、日本の医学部に学んで幻滅したのは、あまりにも細分化され先端化され、

テクニックや機器類を過信する状況だった。

 

「電気も通わず、医療器械を買うお金もないバングラデシュの我が村では役立たない。

私が理想とする医療とはずいぶんかけ離れていた」

と感じたところから、バブさんの物語が始まる。

 

 

★体を診て、心を観る

 

フィリピンのレイテ島はバブさんの医師としての出発点だ。

先端医療に匙を投げたバブさんは、フィリピン国立大学医学部レイテ校に在籍した。

 

そこで行なったのは助産婦ならぬ助産士であった。

十年間で二百十五人の赤ちゃんを取り上げた。

フィリピンでも”頭脳流出”が激しく、医療をいちばん必要とする農村や島々から

若い優秀な若者が外国や都会の教育機関に流れていった。

その流れをくい止めるため、フィリピン保健省はWHO、UNICEFと協力して、

国内のへき地医療を志す若者を育てる場を作った。

これがレイテ校である。

水を得た魚の如く、砂に水が浸みいる如く、バブさんは俄然、力を発揮した。

 

助産士のあとは地域で働く。

村人の推薦をもらって再び学校に戻り、正看護士の勉強をする。

学びを村の医療で実践し、もう一度、実践から得た課題や疑問を学び直し、

最終的に医師になるという”階段状”カリキュラム。

村人、患者がいちばんの教師なのだ。

聴診器を体に当てることだけでなく、心の中を聴く「聴心器」の大切さを学んだ。

 

「体を診て心を観る。

一人称の○○さんとして接することを心がける医療です」

 

日本では、少しでも異常を訴えるとレントゲン、さあCTスキャン…。

患者は倒産寸前の中小企業の経営者かも知れない。

人間関係がこじれたり、リストラにあっているサラリーマンかも知れない。

そういう人生の背景に思いを馳せず、医療機器の示す数字だけが一人歩きする。

「レントゲンに人のいのちは写りません」とバブさんは力を込める。

 

「村で最初にするのは全体を見渡すこと。

この村には何があるのか。

学校は、井戸は、水質は、みんなの所有物は、トイレは…」

 

お母さんたちと一緒に、手洗いや水を沸かして飲むことこそ

病気にならない一番の方法だということを学びあう。

医師がいなくなってもお母さんたちが自ら取り組めるように指導するのだ。

 

レイテ島といえば、戦時中、多数の島民が日本軍に殺された。

日本の医学生を研修に受け入れようとしたバブさんに、ある日、

村の男性が怒りをあらわにした。

「生きているうちは日本人の顔を二度と見たくない」と。

バブさんは十回男性のもとへ通い、「この不幸な関係を作り直しましょう」と伝えた。

男性の怒りは続いていた。

一週間、日本からの医学生が研修した。

帰り際、男性は学生一人ひとりと握手し

「戦争のことは忘れましょう。友達になりましょう」と言ってくれた。

国際協力は、人と人との架け橋だと、バブさんはしみじみ思うのだった。

 

 

★人々の中へ、人々と共に

 

座右の銘がある。

 

《人々の中に行き、人々と共に歩み、人々を愛し、人々から学びなさい。

しかし本当に優れた指導者が仕事をしたときは、その仕事が完成したとき、

人々はこう言うでしょう。我々がやったのだ、と》。

中国の教育者、晏陽初の詩である。

 

レイテ校の教育に、そのひな形があった。

教師は学生の後ろでじっと議論を聞き、大事な時にアドバイスする。

村に入った医学生は縁の下の力持ちであり、主役は常に村人だった。

村人たちが健康な生活を手に入れると、

それは村人自らの力によるものだという喜びがあった。

教師も学生も喜びを分かち合った。

 

バブさんはフィリピンで医師のライセンスを取得。

東京大学医学部の大学院で国際保健を改めて学ぶため、再び来日した。

現在は、妻のスリティさん、そしてインターナショナルスクールに通う愛娘のピナちゃん、

ピウちゃんとともに東京の練馬区内に暮らす。

 

昨春、医学博士号を取得した。

学位論文は「ビルマ(ミャンマー)におけるハンセン病への対処プログラム」。

医療経営や社会福祉の専門家を育てる国際医療福祉大学の講師として教壇に立つ傍ら、

ODA(政府開発援助)やNGO(非政府機関)のアドバイザーとして、

しばしばアジア各地へ足を運ぶ。

 

長野県南相木(みなみあいき)村診療所の色平(いろひら)哲郎医師はバブさんの盟友

だ。

医学生の時、アジアを旅していた色平さんは、レイテ島でバブさんと出会った。

以来、二人はコンビでボランティア活動にも取り組む。

外国人労働者・女性の生活実態を調べるため、

年齢制限がなく普通車自由席に一日中乗り放題できる「青春18切符」を利用して東北、

甲信越一円を歩いた。

病気への不安を聞き、市民グループを組織し、できうる手を打つ。

 

六年前、神戸市で高校教諭を対象に講演を行なったときのことだった。

スライドを使って、アジアではいかに水が大切なものかを訴えた。

講演後、一人の教師が反論した。

 

「日本人はそんなに頭の悪い国民ではない。

一時間の講演で四十分も水は大切ですとくり返す必要はありません」

 

バブさんは言葉に窮し、その場を去った。

そして一年後、激震が神戸市を襲った。

しばらくしてバブに一本の電話があった。

 

「神戸で一年前にバブさんの講演を聞いた教師です。

地震以来、三週間一度もお風呂に入っていません。

水がいかに大切か、今ようやく理解できました。

やっと電話が通じたので、バブさんに謝りたいと思いました」

 

「先生、お体は大丈夫ですか。ご家族はいかがですか」

とバブさんは見舞いつつも、こう思うのだった。

人間は困難にぶつからないと、気づかない、また分からない。

 

 

★心持ちの世界こそ

 

子どものころ、雨期になると背丈ほどにもなる水の中を歩いて学校に通った。

二人の姉は水の中を歩いて学校へ行けないので、

バブさんが帰宅後、姉たちに勉強を教えた。

鉛筆も買えなかった。

だから母親が竹を削ってペンの形を作り、それでバナナの皮に文字や数字を書いて学ん

だ。

ボランティアでカンボジアへの教育支援も行なうバブさんは、

日本各地の小学校で、講演で一枚のスライドを見せる。

一本の鉛筆を握りしめ、合掌するカンボジアの子どもたちの姿だ。

 

しかし、日本の母親たちは手を挙げて、こう言うのだった。

「カンボジアの子どもたちに鉛筆を送りましょうか」。

一緒に聞く子どもたちに問えば、みんな十数本も持っていて、

まだ十分使える鉛筆を捨てているのだった。

「従来の日本の途上国援助に似ています。物を大事に使うということが先決です」

とバブさんは言う。

「大切なのは、自分の子どもたちに鉛筆を大切にするように教えることなんです」

 

一見、便利で豊かに見える日本だが、

「一人ひとりのいのちがかけがえなく、響きあっているのだろうか」と問う。

貧しいアジアの農村に、バブさんが惹かれるのは、

金持ちよりも”心持ち”を大切にする人々の魂にふれるためだ。

 

ベトナムの農村でハンセン病の調査をしている時、

地雷で左足を失った男が手作りの木製の義足をひきずり農作業をしていた。

妻と娘は地雷で即死。

内戦では二度目の地雷で右目を吹き飛ばされた。

さらにハンセン病を発病して両手指先を失った。

しかし彼は米を作り、息子と自分の分を残して、他の米を村人に分かち合っていた。

 

「妻、娘と一緒に死んでいたら、なにもなりませんでした。

でも私は今、こうして生きている。

満足です、幸せです」

 

地域の中に溶け込みながら生き、そして地域も彼の生を尊重し、支えていた。農作

業をする姿がまぶしかった。

 

途上国や日本国内を歩く中で、自分は何をすべきか、と振り返る。

そしてふと、祖母が幼いバブさんに諭してくれた言葉を思いだす。

「朝は早く起きなさい」と言われ、早く起きるようになると今度は

「兄弟たちを起こしてあげることが次に大事なことだよ」と教えられた。

 

幼いころは、よく理解できなかった言葉だが、今やっと身にしみて実感する。

自分が何かをできるようになったら、

それを次の世代や多くの人々に伝えることがおまえの仕事だよ。

祖母の優しい眼差しを思い浮かべながら、バブさんは

「金持ちよりも心持ち」の生き方を、と確認する。

バブさんは、無数のいのちに寄り添う旅人である。

 

 

 

写真説明

 

女子短大で途上国の実状を講演。

そのあと学生から質問を受けるバブさん。

 

「アジアの国々に目を向け、人々と付き合うと、本当に心豊かになれますよ」

 

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