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バブさんの講演(仏教と医療)

 

バブさんの紹介

 

スマナ・バルア博士(四十四歳)は過去二十数年にわたり、故郷バングラデシュの

農村地域で、また医学生として過ごしたフィリピン・レイテ島他の各地で、女性の健

康と出産、そして寄生虫学に関する地道な研究支援活動に、継続的にとりくんできた

医師です。

特にレイテ島に於ては、フィリピン国立大学医学部レイテ校に在籍しながら助産士

として働き、村々を廻って二百十五人の子どもたちの出産を介助する診療活動に従事

しました。外国人として初めて、大学所在地パロ市の名誉市民として表彰されていま

す。

一九九三年、東京大学医学部大学院国際保健計画学教室に在籍してからの数年間は、

論文執筆の傍ら日本各地(埼玉県、長野県、神奈川県等)で外国人労働者女性への

「医職住」の生活支援活動に、医療ボランティアとしてとりくみました。彼が副代表

を勤めるNGOアイザックは、一九九五年タイ政府外務省から表彰を受けています。

研究者としては、国連機関

WHOのコンサルタントとしてアジア各地(インドネシ

ア、ミャンマー、ヴェトナム、ネパール、もちろんバングラデシュ)の現地を歩き、

農山村で働く保健婦や助産婦への指導を通じて、村でのヘルスワーカーの育成にあ

たっています。

この点でプライマリー・ヘルス・ケアの実践者として、「母子保健」分野と感染症対

策の現場で確かな足跡を残した、との評価を研究者仲間から得ています。

一九九九年、東京大学医学部より取得した博士号の論文テーマは「ミャンマーに於け

るハンセン氏病への対処プログラム」です。

現在日本各地の医科大学や看護学校他で学生や研究者向けに日本語と英語で教育講演

し、アジア各国の母子保健の現状と展望についての理解を一般に広げることに努めて

います。二〇〇〇年四月からは国際医療福祉大学で講師として勤務する一方、東京大

学医学部大学院国際地域保健学教室で非常勤講師を務めています。

 

 

 

 

 

               

バブさんの講演

 

長年にわたり、世界の数多くの宗教について詳細に観察する機会を得て、私は次のこ

とに気付かされ学ぶことがございました。それは、それら全ての宗教にわたって、傷

つき悩める衆生への、同朋としての奉仕の心が重要である旨、教えの中でくりかえし

くりかえし強調されている、という事実であります。

私はバングラデシュで二十四代続いた、歴史ある仏教徒の家に生まれました。子ども

の頃から、叔父にあたる世代の高僧につき従うかたちで、地域的また世界各国での国

際的な多宗教間の会議に出席する機会をもちました。このような会議は若い私にとっ

て、仏教以外の諸宗教についても、直接に学ぶ機会となったわけです。

しかし本日は、世界の多様な諸宗教についてというより、日本仏教と患者ケアとの関

係について、論点をしぼっておはなしいたしたく考えております。と申しますのは、

本日の聴衆の方々が日本の方々であり、本論が日本語で話されるからです。

一九三六年のこと、世界的に有名な仏教哲学者、鈴木大拙師が京都で講演した際、師

は日本人の生活や習慣に仏教伝来が与えた影響について、こう語っています。

「もし仏教思想とその伝来とが日本文化に与えた歴史的意味づけを知りたければ、試

みに宝物殿と御文庫を含めて国内のすべての仏教寺院を焼くなりして消し去ってみれ

ばよい。こうした時日本の歴史に一体何が残るであろうか。先ず絵画と彫刻、また伝

統的音楽と演劇は消えてしまう。次に芸術の発露たる派生的な諸芸――造園、借景、

茶道、華道等、日本的なるもの、はもちろん消失する。医療活動や湯治、薬草園とそ

の運営の知恵を含む今日社会サービスとしてとらえられるであろう諸活動の全てが、

その起源を七世紀の初期仏教徒らの活動におくのであろうと考えると、呆然とする思

いである。」

今を去る六十余年前、大拙師により指摘されたこのような事実――近代化して変貌著

しい日本社会の根底に流れる宗教的価値の位置づけ、について私はこの場で特に訴え

たいと感じています。

医師や看護婦、他の保健医療スタッフの人間集団――なかでも特に若い世代の方々に

再認識していただきたい。何故なら、医師や看護婦の役割というものは、単に患者に

注射をしたり薬を与えたり、というものではないからです。技術的に解決し得るもの

を乗り越えた「期待と要請」が常に伴っている、ということに考えを致してほしいの

です。

一人の人間としての医療者が、他者としての病者の人間存在に対置し、面と向って受

けとめてケアの責にあたる場面を考えてみます。これは本当の意味での患者ケアが

「全人的アプローチ」を通じてはじめて到達し得るものであろうことに、気付かされ

る契機となりましょう。

一方で仏教には、四つの昇華された原理に分類される「本当の智恵」(ブラーマ・ビ

ハーラ)への到達を目指す、という教えがあります。四つの原理とは人間の道徳的精

神的な基本条件をつくりあげる教えです。同時に、平安な気持と幸福な生活の根源と

してとらえられている諸原理です。

四つの原理とは、中国語の「慈」「悲」「喜」「捨」にそれぞれ訳出されているもの

で、

(1)

「慈」愛しむ心(メッター)

これは、単に他人を助けたいという(欲求に伴う)善意、といわれるものよりもずっ

と深く広いものです。同朋の福利のために自己犠牲をもいとわない態度であり、仏典

メッター・スートラには「母の如く、自らの生命をもかえりみず子を愛し、守り育て

る態度。この普遍的な愛の態度は人をして全宇宙への愛と理解へと導く。」と紹介し

てあります。

この原理は、単にお喋りをするための情感としてではなく、私たちが日々実践すべき

目標として、医療者の眼前にそびえています。

(2)

「悲」共感する心(カルナ)

これは他者に奉仕の手をさしのべる際、その苦悩苦難に接して湧きおこる自己の内的

な共感の心です。サービスの受け手(患者)の本当の苦悩を、正確にサービスの送り

手(医療者)がとらまえ認識し得た時にのみ、この原理が実践可能でありましょう。

(3)

「喜」他者が幸せになることを、よろこびとしてとらえる心(ムディター)

苦悩への対応としてなされた奉仕の実践活動、その所産への満ち足りた心をさしま

す。

(4)

「捨」平静な心の落ちつき(ウッペカー)

全ての人間が本質的に公平に平等である、との達観に導かれる心です。各人の行為と

その結末(カルマ)迄を、冷静に見つめつづける実践が含まれています。

以上掲げました四つのブラーマ・ビハーラの目標は、自分の中で深く考えて、「光」

をみつけ、将来へのすばらしい道を見出すことにあります。

四原理はまた、それぞれ医師―患者関係の諸相にあてはめて説明することが可能で

す。

医療者はその初期の教育課程にあって先ず、無私なる愛の態度(メッター)をはぐく

むことが必要です。何故なら彼や彼女は一生涯を通じて、何らの差別の心なく、病者

悩める者をケアする任にあたることになるからです。この「愛しむ心」の実践にあ

たっては、他者の立場からの、苦悩への洞察力(カルナ)が欠かせないでありましょ

う。そして一旦この認識に達したならば、正確な診断と簡潔な処方、適切な手技をな

す為に医療者が職業人として最善をつくす際の大きな力づけとなるにちがいありませ

ん。これは「共感する心」の実践であります。患者が快方に向うとき、医療者はその

途上によろこびを共有することができます(ムディター)。もし不幸にして快方に向

わない経過をたどる時も、内省的に心をつくすことができるでしょう(ウッペ

カー)。

平静な落ちつきこそが、医療者の最高の心のもちようである、といわれるゆえんで

す。

私の叔父は自身で運営する孤児院で千数百人の孤児の世話をしていました。或る日、

中学生であった私は叔父のところへ行って、「何の技術も持っていない若い自分では

ありますが、何か人のためにお役に立ちたい。」と言ったのです。彼は私に三人の子

どもを示しました。彼らの全身は疥癬におおわれていて、大変臭く、誰も彼らに触れ

たがらない状況でした。「身体を洗ってあげなさい。自分の身体を洗うのと同じよう

に丁寧に洗ってあげなさい。」これは私にとってチャレンジングな経験でした。子ど

も時代のこの体験は、後に私が医療者となるについての心の原点となっております。

智恵の光(パンナ)は仏陀の教えの、別の側面を示しています。これは世界をあるが

ままに、その本態に従って理解することを意味しています。

Bodhisattvaがあらゆる

方法を使ってこの世の知識すべてを整理収集しようととりくんだ際、彼は自らの知識

をひけらかすところがありませんでした。自分が知らない分野がある、ということに

恥じ入ることなく、自分の知り得たものは「皆が自由に好きなように使ってよろし

い。」と言って、率直にその知識や技術を人々に開示し授けたものです。この教えに

従うなら医師は自らの知識や経験技術を他人に伝えまた施すにあたって、人間の本質

を深く正しく見きわめてとりくむことが必要となりましょう。どの人もどの患者もそ

れぞれに異なるのであって、まさに「人を見て、法を説け。」という教えの実践とな

ります。

ここで私は一九九四年四月、名古屋で開催された日本医学会総会に於けるいくつかの

発言について想い起こしました。会頭の飯島宗一教授は、「医学は永遠に未完成であ

る。」「医療行為は、人格と人格の出会いの場でのできごとである。」「現代医学の

人間観とは何か!」と発言しています。大江健三郎氏はその講演を次のように締めく

くっていました。「医師の方々が一堂に会している折角の機会であり、是非考えてい

ただきたいことがある。我々の社会で、本当に人間らしい正義とはどういうことかと

いうことを、医師の立場から皆さんが発言することを強く願っている。」

以上、現代医療に関する諸家の提言をふまえた上で再び鈴木大拙師の講演に戻りたく

考えます。京都での講演の締めくくりに際し師は「供養」(プジャ)について語って

います。もともとこの言葉は「畏敬の念、敬意、敬慕。」を意味していました。現在

では仏教でも、

精神的な先師への畏敬の念を、師へのささげもので表現しています。通常これは物質

的に何かを奉げるかたちをとります。「供養」とはまた、死せる者に対して食物や

香、花、ろうそく等を奉げることを意味します。読経他の宗教的行事に伴って、この

世を去った霊魂に宗教的な慰めを与える儀式を意味するものとして、一般にはとらえ

られています。

日本で、虫や筆や花に対してさえ供養(プジャ)がなされる習慣があることを知る

と、この行為が仏教的文脈で、敬うべき対象に対するささげものとして行われている

ことが分かります。そして日本人の心の奥深くに根づいている仏教的感性に気付かさ

れるのです。

例えば、画家の絵筆について。絵筆が人の手によって作られた、生命のない道具にす

ぎないことに疑問の余地はありません。魂のない物体にすぎません。しかし私たちは

知っています。或る場面の画家の絵筆には、画家の腕の延長としての生命が与えられ

ています。日本的文脈で考えるとき、画家はこの入魂の絵筆を使って自らの作品に魂

をこめることができるのです。

大拙師の言説に基づいて考えるとき、現代の医療者は自らの聴診器やメス等の機器

についてこう考えることができましょう。救いを求めて医療者の就を訪れる悩み苦し

む同朋のために取り組む際、、、この手の中の機器が、心をこめてさしのべる救いの

手、その手の延長たりうると。

御静聴ありがとうございました。

出典

1)

Suzuki, D.; Buddhist Philosophy and its efforts on the life and thought

of the

Japanese people; 1936; Kokusai Bunka Shinkokai, Kyoto, Japan.

2)

Gard, R. A.; Buddhism; Prentice- Hall International; 1961, London.

3)

Thera Piyadassi; The Buddhas Ancient Path; 1964; Rider and company,

London

4)

Thittila, Ashin: Essential Themes of Buddhist Lectures; 1992;

Department of Religious Affairs, Yangon, Myanmar (Burma).

著者

スマナ・バルア

医師

Dr

. Sumana Barua

バングラデシュ・チッタゴン生まれ。76年に来日。79年フィリピン国立大学に

入学し、医師の資格を取得。89年故郷に戻り、地域保健医療に従事。45歳。

 

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