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人の「いのち」はレントゲンには写らない

 

医師 スマナ・バルア

 

最先端技術に支えられる素晴らしい医学。しかし、その陰で

「科学さえ進歩すれば、人のいのちは無限に延ばせる」という無意識の考えが

医療従事者にも、一般の人々の間にも広がってはいないだろうか。

バングラデシュ出身の医師スマナ・バルアさんは、「人間として人間の世話をする」と

いう医療の原点を忘れないように、「金持ちよりも心持ちになろう」と若い人々に訴え続け

ている。

 

スマナ・バルア 医師。医学博士。1955年バングラデシュ・チッタゴン生まれ。国立テ

ィトゥミール短期大学卒業後、76年に来日、働きながら日本語学校で学ぶ。79年フィリ

ピン国立大学レイテ校入学、助産士、看護士、医師の資格を階段状カリキュラムで取得。

89年から故郷の医科大学で教えながら地域医療に従事、地元NGOの保健医療コーディ

ネーターとしても活動。93年東京大学医学部大学院国際保健計画学教室に入学、各地の

医学部や看護大学、小・中学校、国内外のNGOで講演活動を続け、96年3月に東京大学

医学部にて修士号、99年3月に同学部にて医学博士号を取得。WHOのコンサルタント、

JICAのPHC研修コースアドバイザーなども務める。

 

 

いつしか「外国人労働者」になっていた

 バングラデシュ生まれのスマナ・バルアさんは、医者になることを夢見て日本へやっ

てきたが、そこで目にしたものは目指していた医学とはかけ離れた「機械の医学」「医

学のための医学」だった。

 

 日本を離れ、地域医療を身体で学び臨床医の資格を取得。縁あって再び来日し、東京

大学医学部に新設された大学院課程で修士号と博士号を取得した。現在は医療・福祉の

専門家を育てる国際医療福祉大学で教鞭を執る一方、日本のODA(政府開発援助)や

国内外のNGO(非政府組織)のアドバイザーとしての活動も続けている。

 

 

 私が子供のころ、親しくしていた村の女性がお産のときに亡くなりました。彼女の家

の門の外で待たされていた私は、母や姉が泣きながら出てくるのを見て、「女性がお産

で死ぬなんて、とても悲しいことだ。よし、将来必ず医者になって村人の健康のために

働こう」と心に決めました。一九六七年、十二歳のときでした。

 バングラデシュの短大で医学部に進学するための基礎を学んだ後、先進医学を学ぼう

と京都の大学で学んでいた兄を頼って、昭和五十一年(一九七六)、二十五ドルをポケ

ットに日本へ来ました。日本語学校で日本語を学んだあと、大学医学部への入学のチャ

ンスをうかがいつつ、いろいろなアルバイトをやって学費を貯めました。中央高速道路

の小淵沢インターチェンジ建設の工事、長野県八ヶ岳の麓でゴルフ場の芝生づくり、静

岡県でお茶摘み、京都の飲食店では皿洗い……、朝の六時半から夜中の二時まで、一日

に七つの仕事をしていたこともありました。真冬の夜中にがたがた震えながら自転車で

アパートまで帰ったことを覚えています。

 

 たくさんの仕事に取り組んだのは、生活費を稼ぐためでもありましたが、同時に、日

本のさまざまな人々の暮らしぶりを身近に学びたかったからです。そして、発展する日

本社会を支える等身大の働く人々の姿から、直接日本について学ばせてもらおうと考え

ました。長距離トラックに乗せてもらって荷物の積み降ろしを手伝いながら東京から山

口県下関まで何度も行きました。冬に北海道の知人の漁師の家を訪ねて、漁船に乗って

仕事をしたのも、人々の働く姿を知ることが、将来医者になったとき役立つだろうと考

えたからです。病気を診るときに医者が患者の日常の暮らしのありように想像を広げる

ことができるのは重要なことです。レントゲン写真やCTスキャンに生活は写りません

から。

 

 しかし、こうして働いているうちに、私は自分がいつの間にか“外国人労働者”にな

っていることに気づかされました。いまから二十年以上も前の話です。当時の日本には

バングラデシュ人は、大使館員を含めても五十人もいませんでした。ほかの分野ではパ

イオニア(先駆者)になれなかった私ですが、若い私はこのとき“外国人労働者”のパ

イオニアになっていたのです(笑)。

 

 実はこのころの私は、日本で学ぶことのできる医学の意味に疑問を感じ始めていまし

た。バングラデシュの村で村人のために医者として働きたいと願っていたのですが、豊

かな日本で目にした先端の医療技術は、機械を駆使した、もっと言えば機械に頼った医

療でした。バングラデシュの電気の通っていない私の村では使えないし、第一、そんな

機械を買うお金もない。私の理想とする医療像とはかけ離れていることを、残念ながら

感じ始めました。

 

 そこで私は、長野県佐久総合病院の若月俊一博士が提唱された「農村医科大学構想」

に共鳴してつくられたフィリピン・レイテ島のフィリピン国立大学レイテ校で一から勉

強し直して、地域の人々に本当に役に立てる医者を目指そうと考え、いったん日本を離

れたのです。

 

 

 若月博士を中心とする長野県南佐久郡の佐久総合病院は、「農民とともに」を合言葉

に地域住民のための医療を取り戻すべく農民自身の手で創設された日本の地域医療の草

分け。「医学医療は医師から一方的に住民に与えられるものではない」という考えのも

と、「積極的に人々の中に飛び込んで、本当に求められている医療を実践すべきだ」と

いう佐久総合病院の理念は、多くの医療関係者の注目と期待を集めてきた。

 大学病院の医師が、ある特定臓器のスペシャリストであり、往診など患者の「人間」

に出会うような体験が少ないのに対して、地域医療に従事する医師は、患者と、患者を

支える地域を、トータルなものとして見る訓練を受けている。

 

 

 私が学んだレイテ校は、医療従事者の地域からの頭脳流出、海外流出に悩んだフィリ

ピン国立大学が、ユニセフ、WHO(世界保健機関)の援助協力を受けてつくったもの

ですが、その根底には日本の若月先生が一九七八年、マニラの第三十二回世界医師会で

発表し、伝えられた(日本では実現しなかった)「農村医科大学構想」がありました。

保健医療活動は地域住民のために、地域住民の参加の上に取り組まれなければならない

という考え方です。ですから私の大学では、知識の習得だけではなく村に出て実際に村

人と共に働く実習にも力を入れており、週の半分は学校で勉強し、残りの半分は農山村

を歩いて回って活動を行っていました。住民と保健医療従事者とが、互いに近い所に起

居していました。

 

 医師になるために、助産士として、あるいは看護士として、実際に村人の中に入って

仕事をし、評価を頂いてから次に上がっていくという階段状のカリキュラムでしたので

、じっくりと勉強できました。従来のように医師と看護婦の養成コースが初めから別の

ものであるという形態をとってはいません。そしてステップを上がるためには、その都

度、村人たちの推薦を頂くことが必要です。言い換えれば、村人たちが自前の医療従事

者を育てていくシステムであると言えます。ここで私は十年間修業して、二百人以上の

赤ちゃんを助産士として取り上げ、最後に医師国家試験に合格しました。

 

 一九八九年に医師免許を取得した私は、バングラデシュで臨床医として、またNGO

の保健医療コーディネーターとして働きました。医学部の学生たちを連れてチッタゴン

市内の絨毯工場に見学に行ったりもしました。マスクもつけずに換気の悪い埃っぽい工

場で子供たちが長時間働いているところを、実際に自分の目で見てもらいたかったから

です。バングラデシュでも医学生はお金持ちの子供が多く、工場や農村の現実をあまり

知りませんでした。

 

 そうしたら、地元の医師会は「ばからしい取り組みだ」と言って反対しました。学生

の親に「どうしてそんなことさせるんだ」と抗議に来られたこともありました。でも、

その後どうなったか。そうした現場の見学実習が、いまでは当たり前のようにバングラ

デシュの大学医学部一年生の必修カリキュラムになっています。

 

 ここで私は、人間はなにかにぶつからないと本当のことがわからない、ということを

言っておきたいと思います。

 

 五年ほど前、神戸で大きな地震がありました。この悲劇の地震が起こる一年ほど前、

私は神戸の高校の先生方の前で講演をしました。スライドを使って、アジア各国の子供

たちの生活の様子をお話しし、きれいな水の大切さを訴えました。

 

 講演のあと、一人の教頭先生が立ち上がって、「日本人はそんなに頭の悪い者ではあ

りません。一時間の講演で四十分間も『お水は大切なものです、お水は大切なものです

』と、繰り返す必要はありません」とおっしゃいました。私はお答えができずに困って

しまいました。

 

 そんなことがあって、大地震のあと、三週間ほど経ったある晩、私の自宅に電話がか

かってきました。最初は、「だれかなー」とわからずにいました。「高校の教師ですが

、バブさんですか? 実は、きょうは謝りの電話です」「えー、先生なんのことですか

?」「私は去年のバブさんの講演会のあと、意見を言わせてもらった者です、覚えてい

らっしゃいますか? きょうはバブさんに謝りたい。私はこれまで毎日お風呂に入って

いましたが、あの地震のあと今日までの三週間、お風呂に入れずにいます。いま、本当

にお水が大切であることをよく理解できました。きょう、やっと電話が通じたので、ま

ずバブさんに電話して謝りたいと思いました」とのことでした。私はびっくりして、「

先生、お身体は大丈夫でしたか? ご家族はいかがでしたか?」と、お尋ねしました。

 

 つまり、人間はなにか困難にぶつからないと気づかない、わからない、ということで

す。病気になって初めて健康のありがたさがわかる。交通事故に遭わないと事故の怖さ

がわからない。

 

 私は、友人で長野県南佐久郡南相木(みなみあいき)村診療所長の色平(いろひら)

哲郎医師らと協力して、アジアのいくつかの国々で小学校を建てたり井戸を掘ったりす

ることにボランティアで取り組んでいます。フィリピンやバングラデシュといった国々

の農村に、寄付していただいたお金で井戸を掘りました。村人は、井戸からきれいな水

を汲んで飲むのがよいのだ、ということにあまり理解がありません。先祖代々ずっと川

の水を飲んできたのに、なぜいまになって井戸水を飲んだほうがいいと言われるのかわ

からないのです。私はじっと我慢して、十数本の井戸を村々に掘りました。

 

 あるときサイクロン(台風)が来て大洪水になり、井戸のない村々では下痢の患者さ

んが多数出て大変なことになったのに、井戸水を使う村では、ほとんど病気になる方が

出ませんでした。最後には、私の言う「お水は大切なものです」ということを村の方々

に理解していただきましたが、それは、大変不幸な大洪水が起こったあとのことでした

。これも、人間は困難に遭って初めて気づきの機会を得る、という教えなのです。

 

 医者として、私はこのような公衆衛生学的取り組みを村レベルで行っていくことは、

とても大切であると考えています。しかし、残念なことに私は周囲から非難されました・

一般の開業医の先生方にしてみると、私のやったことは下痢の患者さんの数を減らし

て彼らのお客さんを奪ってしまうことだったからです……。

 

 バングラデシュで働いていたころ、東京大学医学部の梅内拓生教授が声を掛けてくだ

さったことがきっかけで、再び日本に来ることになりました。梅内先生が私に求めてい

らっしゃったのは、アジアの保健医療活動の現場の経験を、これから活動に携わろうと

する志ある日本の若者たちに伝えていくことでした。私の経験を最も活かせる場を与え

てくださろうとする、そのお気持ちが嬉しかった。そして私自身も、日本の進んだ医学

の勉強をあらためて学んでみたかったし、日本は私の第二のふるさとでもありますから

。若い人たちをサポートすることは、私をこれまで元気づけ支えてくださり、さまざま

な貴重な体験をさせてくださった日本の方々への恩返しでもあると考えたのです。

 

人間として人間の世話をすること

 

 バルアさんのことを、周囲の人々は「バブさん」「バブ先生」と呼ぶ。

 バブさんは、東大医学部大学院で学ぶかたわら、WHOのコンサルタントとしてイン

ドネシアやベトナム、ミャンマーでハンセン病対策国家プロジェクトに参加したり、J

ICA(国際協力事業団)のPHC(プライマリー・ヘルス・ケア)専門家養成コース

の研修アドバイザーやPHCのガイドライン作成委員などを務め、今年三月、国際保健

学の博士課程を修了した。

 

 十月一日から栃木県大田原市の国際医療福祉大学の医療経営管理学科で講師として教

え始めたバブさんは、その最初の授業で学生たちに、開口一番、こう語りかけた。

「みなさん、世界の国々の実情を知ってください」

 そして、スライドを見せ、自己紹介代わりにと、自分のたどった足跡を語り始めた。

「私が小学生のときに、お産をした女性が亡くなりました」「日本に来ても労働者にな

ってしまいました。けれども、そこから私の自分探しの旅が始まったのだと思います」

「フィリピンのレイテ島のことを知っていますか? 戦争の舞台になった所です。だれ

が悪かったとかではなくて、事実を知ってください」……。

 

 バブさんを国際医療福祉大学に招いた紀伊國献三教授は、「日本の外の世界で五十億

の人々がどうやって生きているのか、どうやって生きていけばいいのか、本当の意味で

の『国際化』とはなにか、そういったことを学生に考えてほしくて、バルア先生に来て

いただきました」と期待する。

 

 

 私が若い人たちに望むのは「人間としてしっかりとした生き方をする」こと、そして

「人間として人間の世話をする」ことです。金持ちよりも「心持ち」になってほしい。

 

 いまの日本はいろいろなモノが溢れ、とても便利になっていますね。でも便利になり

すぎて、苦労をして生きていくことを忘れてしまいました。この素晴らしい日本を築き

上げてきたおとうさん、おかあさん、おじいさん、おばあさんがどれほどの苦労をして

あなたを育ててこられたのか、それを忘れてしまってはいけません。ときには自分が生

身の人間であるということすら感じにくくなってきています。そう、生きている実感に

乏しい社会になりつつあるんです。そして、この現象は日本だけではなく、経済発展し

た日本を目標としているほかのアジア諸国においても都市部から農村部へと広がってい

ます。「発展」という名前の「病気」が「伝染」しているのです。だから、「伝染」し

ないように「予防」しなければなりません。そのためには、「病気」の発信源である日

本で「予防」のための取り組みを始める必要があります。

 「内面の豊かさ」の重要性について気づいていただきたい。だから私は、日本で日本

の若者が本当の豊かさについて考え始めることを期待しているのです。

 

 いまは電子レンジで「チン」とやればあたたかい食べ物が出来上がりますが、昔は竈

の前で火吹き竹を吹いて火をおこし食事を作ったものです。しかし、こんなことは想像

もつかない若い人々、写真でしか竈を見たことのない人々が日本にも、ほかのアジアの

国々にも増えてきました。昔の人の生活の苦労も、生きていくための知恵も技も、なん

にも残らない。確かにサイエンス(科学)は大切ですが、サイエンスに負けてしまって、

使われてしまっては駄目なんです。

 

 私がいたフィリピン大学医学部では、どんな病気なのかを「聴心器」と聴診器だけで

八〇パーセントは診断できるようにならなければ卒業できませんでした。「聴心器」と

は、もちろん患者さんの訴えを十二分にお聞きすることです。そして、聴診し、触診し、

打診した上で、一人の人間としてじっくりと接するように教育を受けました。

 

 ところが、日本の病院では「頭が痛い」という患者さんには、すぐレントゲン写真と

CTスキャンです。そして、異常が見つからないと「痛み止めを出しておきましょう。

では、お大事に」で終わり。お酒の飲み過ぎだったのかもしれない、奥さんとけんかを

したのかもしれない、会社を解雇されたのかもしれない、せっかく手に入れた土地をだ

まされて他人に取られてしまったのかもしれない……。そんな個人の背景はまったく考

慮されずに機械の出した診断結果だけで判断されてしまう。これも完全に機械に負かさ

れて、判断を預けてしまっている状態です。

 

 そんな話を医学生たちに話したあと、「お金持ちになりたくて医者になるのですか?

」と尋ねるんです。「人間として人間の世話をするのが目的でないのなら、あしたから

もう医者を目指すのはやめなさい。経済学を勉強したほうがいい」と言ったこともあり

ます。私は、学生たちは気分を害しただろうなと思っていたのですが、その年のお正月、

二百人ほどの受講生のうち八十人から年賀状を頂きました。きっと、なにかが伝わっ

たのだと思います。

 「白衣の壁」という言葉をご存じですか?医師の診断に対して患者はなにも言えない。

これが「白衣の壁」。もう一つの壁は、近所の「○○ちゃん」も医学部を卒業して医

者になると「○○先生」と呼ぶことになってしまっている。医師の権威が人と人の隔て

になるんです。

 

 こうした心の壁に気づいて、それを低くするためには、医学教育を根本から変えて、

医師を目指す若者の意識を変えていくしかありません。

 

 いま医学教育には三つのことが欠けています。

 

 一つは人間学です。医者も患者も同じ人間で、社会の一員です。ですから人間という

ものがわからなければいけない。人間の弱さ・ずるさも含めて、深いところで人々を理

解しようと努めることが重要になります。そうしなければ人間として人間の世話をする

ことができません。だから医者を目指す人には人間学としての社会学を勉強してもらい

たい。

 

 二つ目は哲学です。

philosophy of life(生きる意味)、individual philosophy

自分で選びとった生き方)が大切です。ほかの人々の生き方、考え方を深いところで受け

止めて学び、理解するための哲学と洞察力が必要です。

 

 それから、あえて三つ目に挙げるとすればボランティアのこころです。

voluntary spirit

(ボランティアの精神)、mission(使命感)がなければ、

せっかくの人間学も哲学も活かしきれないでしょう。

 医学にも科学技術にも、残念ながら人間としての哲学・精神の光が欠けています。だ

から、政府のODAなど外国への開発援助の場面でも「お金だけ渡せばいい」「モノだ

けあげておけばいい」という形だけの援助になってしまい、内面の「開発」にまで届い

ていかないのです。

 

 あるとき、小学校での講演で、カンボジアの子供が鉛筆一本をもらって手を合わせて

感謝しているスライドを見せました。そして、「私も竹を削ったペンでバナナの葉っぱ

に字を書いて勉強したんです」と話すと、後ろで聞かれていた一人のお母さんが「鉛筆

がないのなら送りましょうか」と質問されました。

 

 私が伝えたかったのは、自分のお子さんに物を大切にすることを教えていただきたい

ということです。カンボジアやバングラデシュの子供たちがそうやって暮らしているの

は現実です。しかし、「モノを送って援助」という発想が先に出てしまうんですね。一

緒になってなにかに取り組んでいこうという意識が、そこにはありません。

 

 レイテ島にいたとき、日本の学生さんたちを受け入れて、現地の人々と一緒になって

トイレを作ってもらいました。みんなで木を切ったり竹を割ったりセメントをこねたり

しながら、一つずつ手作りのトイレを完成させていく。すると、学生さんたちの胸に「

自分たちで作って、みんなの役に立った」という達成感が残ります。これがNPO(非

営利組織)の本当の姿です。村人にとっても、だれかがやってきて勝手に作っていった、

という援助ではなく、日本人たちとの大切な思い出になっています。

 

 私の好きな、こんな詩の一節があります。

 「本当に優れた指導者が仕事をしたとき、その仕事が完成したとき、人々はこう言う

でしょう。われわれ自身がこれをやったのだ、と」

 

 医師にも、ボランティアにも、政治家にも、この感覚が大切なのだと思います。

 

一人ひとりのためのプライマリー・ヘルス・ケア

 

 佐久総合病院の若月先生、現院長の清水茂文先生をはじめ、色平先生ら私たちが、現

場で取り組んでいるPHCというもの、それは、人々の健康の問題を、治療医学だけで

なく生活や環境のレベルで捉え、予防、健康増進、治療、社会復帰といったトータルな

意味での保健システムとして、地域の中で住民参加を前提にして考えていこうとする取

り組みです。要するに、これが「人間として人間の世話をする」実践なのです。

 

 このような考え方は、昔の日本人の暮らしの中にも活かされていましたが、いつから

か技術的な治療医学を志向するようになりました。それはそれで大切なことで、多数の

人々の生命を救うことができました。大成功でした。しかし時代は移り、いま再び、こ

のPHCの必要性が叫ばれるようになってきました。それは、高齢化が進み高齢者に適

切な保健システムを身近な地域にこそ確立する必要が出てきたこと、あるいは結核など

激減したと思われていた病気がいままた広がり始めていることなど、従来からの治療医

学だけでは対応しきれなくなってきた事態が原因としてあるでしょう。また、現代医学

が失った「医療の原点を取り戻す」という大きな意味が、国民の期待としてのPHCを

求める流れには含まれています。

 

 この「地域重視」という世界的な潮流は、一人ひとりを人間としてお世話しようとい

う姿勢が病院医学では稀薄になってきてしまっていることへの反省からでもあろうと私

は考えています。

 

 例えば、お年寄りが自分の話をだれも聞いてくれないと感じている。自分は世間から

忘れられた価値のない存在だと感じてしまっている。そんなお年寄りが、精神的に活発

に前向きになって地域づくりに進んで参加してくれるようになるためには、どうしたら

よいのか? 彼や彼女の苦労話、「ものがたり」に耳を傾けて、心の響き合う関係を築

くことのできる人が必要になってきます。

 

 自分から相手に挨拶をすれば、次に会ったときは相手から挨拶を返してもらえるのと

同じように、だれかに人間として人間の世話をすれば、いつか自分にも人間として人間

の世話をしてくれる人が現れるでしょう。そういう「おたがいさま」の気持ち、「ここ

ろね」が通じ合うようなヘルス・ケアの考え方が、今後ますます重要になってくること

を期待します。

 

 いまの日本では地域の人々のご自宅におじゃましてお話をうかがうチャンスは少ない

でしょう。学んでほしいのは、日本の地域だけではなく、海の向こうの人々の生き方に

ついてもです。ですから若い方々には、時間のある学生のうちにどんどん、いろいろな

国に気楽に出掛けてもらって、どんな状況のときになにが必要になるのか、どういうや

り方が求められているのかを身体で体験してきていただきたいのです。

 

 バブさんの家には、来客が絶えない。地域医療を目指す医学部の学生、訪問看護婦を

目指す看護学生、ボランティアに取り組みたいと考えている若者、NGOのグループ…

…。なにをどうやって進めていけばいいのかわからない人々の相談相手を務めている。

そんなときバブさんは深夜まで語り合いながら「この人を紹介しましょう」「それでは

長野県へ行って日本の村の人々の生活のありようを見てきてください」と具体的にアド

バイスする。バブさんと出会って「自分の道を見つけた」と言う医療関係者や学生は少

なくない。

 

 

 JICAのPHC専門家養成コースの研修アドバイザーとして、現在三コースが終了

し、二十六名の修了生が諸外国で活躍してくれています。ラオス、ネパール、パキスタ

ン、フィリピン、インドネシア、ザンビア、グアテマラ、ハイチといった国々で保健医

療協力活動に取り組む若者こそ、将来の日本のODAの姿を変えていくでしょう。いま

は、その種蒔きをしているところです。

 

みんなが「共に」生きていた

 

 バブさんは熱心な仏教徒の家庭に育った。超宗派による世界平和活動に邁進、全世界

仏教者会議を招集し、世界宗教者平和会議創設理事を務め、マハトマ・ガンジー賞(ノ

ルウェー)、アジア平和賞(モンゴル)などを受賞して九五年に亡くなったバングラデ

シュ仏教界の最高峰ヴィシュダナンダ・マハテロ僧正はバブさんの叔父に当たる。孤児

院や教育施設を設立し、インド亜大陸の社会福祉の先駆者として知られるマハテロ僧正

の「鞄持ち」として、世界の指導者と接する機会が多かったことも、現在のバブさんに

大きな影響を与えている。

 

 父も、叔父と同じように社会福祉的な生き方をしていました。自分の土地を売って、

そのお金でほかの家の子供を学校に行かせたり、必要なものを買ってあげたりしていま

した。あるときなど、学校へ行っているはずの時間なのにブラブラしている少年がいた

ので、その理由を尋ね「着るものがないので行けない」との答えに、私に向かって「お

まえはシャツを何枚もっている? そのうちの一枚をこの子にあげなさい」と言うんで

す。私は子供でしたから泣く泣くあげました。そのときは、自分の使っていたものを他

人にさしあげることの意味をわかるはずもありません。でも、いまはすごくよかったと

思っています。分かち合いながら生きてきたんですね。また、それが父の教えだったん

だと、いまはわかります。

 

 昔の日本もそうでした。晩御飯のおかずを隣近所にお裾分けするとか、たくさん採れ

た野菜や魚を分け合うとか、村の子供は村全体で叱り育てるとか……。「共に」生きて

いました。

 

 いまは、お年寄りたちの互いに響き合う昔語りをお聞きしたり、山や海に生かされて

いた時代の生きるための知恵や技を学ぶ機会も少ない。お父さんは仕事で忙しいから、

その埋め合わせに子供たちにファミコンを買って与える。道でだれかが苦しそうにして

いても、車椅子の人が困っていても、知らないふりをしてしまう。金持ちの人はいるけ

れど「心持ち」の人は少ない。そして、こういうことすべてが、機械に頼った医療と同

じ根っこをもっているような気がします。

 

 日本に暮らすアジアの人々の間でも、バブさんの名前は知られている。外国人の労働

者や女性への日常の生活支援活動の評判が口コミで広がって、見知らぬ人から電話がか

かってくることもある。

 

 ある日、群馬県に住む外国人男性がうち(埼玉県三郷市)へ電話をかけてきたんです

。腹痛がひどいらしくて、本当は救急車を呼びたいんだけれど、「不法滞在」なので呼

べない。どうしたらいいかわからず私に連絡してきたんです。それで「タクシーをつか

まえて○○病院へ行きなさい。病院にはこちらから連絡しておくから」と答えて、病院

へ行ってもらいました。

 

 それから一カ月ほど経ったころ、退院して元気になったその人が、「お礼を言いたく

て近くまで来ているんだけど道がわからない」と電話をかけてきました。運悪く、私は

どうしても外せない用があってちょうど外出するところでした。それを伝えると、その

人は悲しそうな声で「わかりました。残念だけど、帰ります」と言って電話を切りまし

た。そして私はバスに飛び乗って松戸駅へ向かいました。

 

 すると、二つ三つ先のバス停からフィリピン人らしい人が乗ってきました。「フィリ

ピンの方ですか?」と話しかけると、その人は、「病気になったときにいのちを救って

くれた恩人にお礼を言うために来たんだけれど道がわからず、電話をしたけれど忙しく

て会えなかったんだ」と残念そうに話し始めました。私が「それはバブさんのことです

か。私がバブですよ」と言うと、目の前の男性は「ワッ」と泣きながら抱きついてきま

した。

 

 二十三年前、バブさんは富士山に登った。そして、こう感じたという。

「一所懸命、頂上まで行ったのに、ここは息がしにくいんだ」

 これは、現代の医学の在り方を問うバブさんからのメッセージである。

「一所懸命、医学の頂点を目指したのに、そこには人間のいのちを人間としてケアしよ

うとするものはなかった」

 バブさんは決して高い山へ登ろうとせず、肥沃な「平地」に「心持ち」の種を蒔き続

けている。

 

3つのポイント

@人間は、困難にぶつからないと本当のことがわからない

A現代の医学にも科学技術にも、人間としての哲学・精神の光が欠けている

B日本の若い人々こそ金持ちよりも心持ちになってほしい

   

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