以下、先日、2002年5月29日、
中部大学・高等学術研究所でお招きうけた際の、
国際会議「人間の安全保障」での私の発言部分の日本語訳です


○色平 

武者小路公秀先生、お久しぶりです。
また、サンドラムーティー先生、ありがとうございました。
中部大学の皆さん、初めまして。

私は、今のお話を伺って、「溺れる者は、藁(わら)をもつかむ」と似た表現の
「溺れる者は、ナイフをもつかむ」というフィリピンのことわざを思い出しました。
本日は何語でやるのか事前にわからなかったので、
英語の記事資料を二枚準備し、事務局の方に提出してございます。

私は、鶴見良行先生や中村尚司先生の弟子として、京都大学医学部で勉強をしました。
その間、85年のことですが、まだ政治家になる前のアウンサン・スーチーさん
と京都でお目にかかったことがあります。
この点から、タイ・ビルマの地域と両者の関係についてずっと関心を持ち続けておりま
す。

冬季オリンピックが98年、長野県北部で開催されましたが、
当時の信州におけるタイ・ビルマほかの外国人の労働者女性たちのこと、
そしてタイとビルマの国境線、特にサルウィン川という大河があるのですが、
そこの巨大ダム開発についての話、この二点を今日申し上げたいと感じます。

第1の件です。
90年に医者になりまして、長野県の東部、佐久総合病院で内科医の仕事を始めたとき
、驚くべきことに数百人のタイ人女性が小諸市を中心に働いている状態に出くわしまし
た。
現在の私は、田中知事のブレーンとして、県政に対し提言し叱責できる立場にあります
が、
当時は長野県庁に対して物申す者として、「非県民」扱いでした。
滞在していないはずの人間の病気や怪我をケアするということで、
私は病院の中でも浮き上がってしまいました。

「趣味的な」医療をやって、国民皆保険の恩恵に浴していない人々の世話をするなどと
いうことは、
病院経営にとって必ずしも歓迎されるものではなかったということでしょうか。

トータル1兆7000億円を投資して新幹線や高速道の土木工事を遂行し、
オリンピックが開催されるに当たり、
かなり多くの外国人労働者が使役されました。
しかし開催の1年前、彼らはホワイト・スノー・オペレーション(白雪姫作戦)という
長野県警と入管の摘発強化によってほとんどすべてパージされ、県内から消えていきま
した。

私は当時、武者小路先生の御助力によりまして、事後になってからではなく、
事前というか、事が起こっている最中にこそ介入研究に取り組みたいものだと考えまし
た。

90年から県内の外国人労働者、女性の「医職住」のニーズに対応して生活相談をうけ
ていました。
この支援活動を通じて、タイ仏教のお坊様が日本においでにならないということで、
彼らの生活面で倫理精神的な大きな欠損となっているということを見出しました。

96年にトヨタ財団の援助を受け、タイのお坊様を同じ飛行機に乗って日本にお連れし
、県内を徒歩で行脚していただくという取り組みをしました。
タイのお坊様に出会えて、「身の毛もよだつほどにうれしかった」という感想を、
山梨と長野のタイ女性方がおっしゃっています。

スーチーさんとの関連で申し上げますと、タイのパスポートを持ちながら、
実はビルマ領の出身である方が長野県にもおいでになりました。
つまり、複数の国境を越えて来日し、目の前で患者、相談者として出会うことになった
わけです。

このようなことは韓国でもありました。
93年秋ソウルで、韓国と日本、両国の外国人労働者支援運動団体の初めての顔合わせ
会議の際、
前年国交が回復したばかりの中国(大陸)から東北地方の朝鮮族がソウルに渡って来て
いました。

当時、好況のソウルに滞在する多数のアジア諸国の労働者、そして朝鮮族、
それら双方への支援方途を模索する韓国の支援運動団体はまた、
日本に送り出された韓国人労働者女性のことにも関心をもっていました。
つまり受け入れ国であるとともに送り出し国になっているという、韓国の支援現場と交
流したのです。
そして、中国の朝鮮族居住地のさらに向こう側に、もう一つの国境の川を越えて、
北朝鮮国内の「飢民」と言われる食糧難民の存在があることを私は当時つかみました。

つまり、幾つかの国境を越えて日本列島に至ったその最終の結末のところで、
無保険者ということで、日本人と全く状況が異なった方々をお世話する現場で、
私は臨床医として彼ら彼女らと出会いました。
一人称の死は自分の死であり、われわれには不可知です。

その点で、二人称の死と言えるのかもしれませんが、親しいあなたの死ともいうべきも
のを経験し、
それが決して三人称の、他人としての彼や彼女、
あるいは四人称の、数字としての統計上の死ではないという意味で、
深く心に刻まれる出会いと別れの体験があったことを思い起こします。

日本で出会った彼ら彼女らの心象風景につきましては、
日本公衆衛生学会に招かれて基調講演したり、
国際保健医療学会で発表しておりますので、
私の名前で検索をかけていただきますとホームページが出てきますので、
その中の論文を読んでいただくことが可能です。

次に、タイとビルマの国境線における巨大開発について申し上げます。
日本の国際援助は、ビルマ東部カレン州のバルーチャン・ダムに関連し50年代から賠
償の形で始まり、
ODAのはしりとなっていったわけですが、現在また大規模ODAを再開する予定のよ
うです。

国境の大河サルウィン川上流域に通称アッパー・サルウィンと呼ばれる巨大ダムが計画
されています。
現地ではタサン・ダムというふうに呼んでいますが、
このような大規模開発によって地域の人々の生活と環境にどのような負荷がかかるか、
こそ96年段階での私の関心事であり、財団の援助を受けて予備的な調査を始めました

人々のトラフィッキングやドラッグのトラフィッキングに関して、
このタイ、ビルマ国境は地球規模でも大きな関心を払うべき地域であると感じます。

私は医者ですので、少しの休暇の時間を利用して、93年中国・雲南省、
96年ビルマ内陸部へと踏査旅行に取り組みましたが、いずれも今のところ不十分です

現在、長野県の田中知事と話している内容は、
宇沢弘文先生の「社会的共通資本」(岩波新書)でいうコモンズに関する議論です。
30年ほど前の宇沢先生の名著に「自動車の社会的費用」(岩波新書)があります。
この本では、非常にユーティリティーの高いもの、あるいは「開発」と称して、
皆さんの利益、全体の便益であるとされているものが、実際には、
さまざまな費用コストを外部化していることによって、
見ないで、見積もらないでいることで成り立っているという指摘であると考えます。

同じことが、信州の「無医村」で医者として診療している私にとっても、
長野県での巨大開発プロジェクトとしてのオリンピックについて起こりました。
そして近い将来に起こるであろうタイ、ビルマ国境、あるいは中朝国境におけるさまざ
まな動きに伴って、
HIVだけではないSTDや結核等感染症のモニタリングが必要なのではないか、
予防介入こそ必要なのではないか、と考える次第です。

信州は、米国で言えばモンタナのような山岳州、
マレーシアで言えばキャメロン・ハイランドのような山中のリゾートであり、
比較的住民に定住傾向が強く、キャッチメントとしてはっきりしているところです。
それがゆえに、もしコーホート・スタディーを行ったなら、さまざまな学問的な成果が
出たでしょう。
しかし、意識あるフィールド・ワーカーが地域において非常に浮き上がらされてしまっ
ていて、
今回の田中「市民革命」以前においては、
多くが「非県民」扱いであったということを申し上げて終わりにしたいと思います。


○色平 

私は臨床医でありますので、今回展開されたツールを「上から」地域に下ろすいうこと
ができません。
たまたま出会った外国人労働者や女性のお世話をすることで信頼を得て、
その後当人がたまたまHIV感染者であるということがわかる、とこのようなアプロー
チですので。

しかも、HIV感染が判明した場合、
彼らをタイなりに送り返すことまでも私どものボランティア・ワークにかかっていまし
た。
そして、彼らの一部にHIV感染が存在するいうこともまた、
内密のデリケートなことであって、メディアに流れては困ることであったわけです。

私の学んだ京都大学は世界的なウイルス研究所を付属しておりましたので、
ウイルス学の基本的な知識はございますが、決して生物学的に事態にアプローチする余
裕はなかった、
ということを覚えています。
この間の私の苦悩につきましては、つい先週、ある出版社から私についての本が出まし
たので、
ホームページをあけていただければ、紹介されております。

つまり、アプローチとして、上からのアプローチと
プライマリー・ヘルス・ケア的な私共のようなアプローチとでは、
かなり方法論的な相違があり、相互理解でさえ、かなり困難であると言わざるを得ない
と感じます。

タイ語やタガログ語がわからない私は、タイやフィリピンから友人の女性ケースワーカ
ーをお招きし、
彼らにたくさんのテレフォンカードを渡して、私が診療している間に電話をかけてもら
って、
女性同士の悩みを聞き出し、よき仲間作りをめざして、そこから取り組み始めたことを
覚えています。

また、彼らのニーズの中に、日本語を勉強したいということがありましたので、
病院の近所に日本語学校を設立し、そこに集ってくる言葉ができる方々、
ポルトガル語やスペイン語ができる方々を通じて、
私の働いていた佐久総合病院で医療通訳として活躍してもらったこともありました。

やはり、プライマリー・ヘルス・ケアとも言うべき、
日本の医者が最も不得意とする、保健婦さん的な平らなアプローチこそ、
彼らの信頼を得るために非常に有効であり、いわゆるドクター的な、
病院的なアプローチがなかなか有効に届かなかったということを今思い返します。


○色平 

現場で考えていて、もしこういうアプローチがあったらよかったのに、、、
と私が振り返って考える、そんな内容を今回先生はお話になったと思います。
しかし、それは現場からでは不可能な話でした。
残念な思いがあります。

なぜかと言えば、それは日本人にはカバーされているはずの国民皆保険から落ちていて
、存在しないはずの人々へのアプローチであったがゆえにです。

鼻高く言えば、先生が今日発表になったアプローチのアイデアは、
全部自分で考えていましたので、あとの後半の部分をお聞きしたかったのです。

96年段階で私が考えていたことに、今日付け加えるべき部分があるとすれば、
WTOの動きだと思います。
上からのアプローチについて言えば、さらにその上からやってくるネオリベラリズムの
大波
をどう考えるのかということこそ、根源的に本質的なことなのではないかと感じていま
す。


○色平 

矛盾をはらんだ言い方だと思うのですが、単にウイルスやHIV感染者を追っていった
ら、
私にはこういう仕事ができなかったんです。
つまり、目の前の女性の日常の生活相談を受けていたからこそ、
HIV感染についてのご相談も受ける巡り合わせになったのであり、
もし私がウィルス学の専門家であったなら、
これほど多数の感染者をは出会うことはなかったでしょう。

これは、「無医村」での現在の私の医師としての仕事にあってもそうなのですが、
役目を引き受けることではじめて、矛盾をも含む現実を引き受け得ることになるのです

最初、申し上げましたように、溺れる者はナイフであってもつかむ、
という切実な現実があるわけです。
日本人であればご理解いただけると思いますが、
長野県の、特に郡部では土建自治体ばかりなのであり、
オリンピックについては県庁自身がディベロッパーであったわけです。

この事態を覆すため、ずいぶん苦労させられました。
現在の県庁内における私の力をもってすれば、貴HIAを導入して、
来るべきビッグプロジェクトについてのスタディーを準備することは簡単ですが、
当時は全く逆を向いていたということを申し上げなければなりません。

ストラクチュアルな暴力、構造的な何かがあると感じませんか?

当然これは、被害者たちが自分たちが犠牲者であるかもしれない、
ということに気づいてさえいない状態を差し指しているわけです。
長野県民のうち郡部に暮らす人々も、
あるいはフィリピンやタイの人も含まれていましたが女性たちも同じ状況でした。
上から、あるいは下からというより、むしろ現場からの発想が大事なのだろうと感じま
す。

95年にASEANゲームがチェンマイで開催されたのですが、
当時、以下のような顛末について私は他人事であると思って聞きました。
ビルマ人の労働者をチェンマイの建設現場で使役した後、
ビルマに追い戻してからスポーツの試合をやった。
しかし、同じことを我が日本政府もやったことになりました。
冬季オリンピックで白人のヨーロッパの国々の方々がやってくるその前に、
実際に労働者として働いた多くはアジア人の労働者及び女性たちを、
県警はホワイト・スノー・オペレーションと称して放逐したわけです。

私の取り組みは、92年にNHKがNHKスペシャルで「エイズ」を放映する頃の仕事
であり、
現在のような状況では全くなかったんです。
全く違ったと言ってもいいでしょう。

松本市のエイズ騒ぎに引き続いて皆さんが影にびくついていたそんな時代に、
感染者や発症者の相談を受けていた私は、現実をどういうふうに扱ったらいいのか、
悩みに悩んだことを思い出します。
HIV感染が現在するということを、こうやってマイクを通して話すことさえ
躊躇された時代もあったということです。

なぜ所詮死ぬ病である彼ら、彼女たちの世話をしたのか。
それは、決して「要らないから送り返す」ということではなかった。
向こうに帰れば、少なくともお父さんお母さんには会えるでしょう。
会えないまでも、日本にタイのお坊さんが来れば、「身の毛もよだつ」ほどにうれしい
という、
そういう仏教的なスピリチュアル・ケアを差し上げたかった。

しかし、これは日本国の過去へのリフレクションでありました。

私は80年代のアジアを旅する中で、軍隊慰安婦の存在をすでに知っていました。
韓国やフィリピンの元従軍慰安婦の方々の存在を存じ上げていました。
89年に韓国がビザを自由化したとき、当然彼らが日本にやってくることが予想できま
したし、
92年には実際にお招きする任にあたりました。

けれど私は、過去の60年前の日本の軍隊、
先ほど武者小路先生のおっしゃった軍隊における女性の問題、
性の問題を今になって日本人が知り得たということで、過去の反省をするだけでは足り
ないだろう。
現代の日本で進行中のタイ人、あるいはフィリピンのティーンエイジャーの女性たちを
、今後30年して、21世紀に入ってまた同じように日本にお招きして証言いただくこ
とになってしまってはいけないと感じて取り組みました。

私が現場で医師として取り組んだのは、単に現場で出会ったからであり、
このようなアプローチは決して上、下ということではないのでしょう。
現在進行形の事態を止められるかどうかということこそ、本来我々臨床医に課せられた
責務であって、
目の前の事態に取り組むことで、明日を少しでも変えたいものだ、
と考え取り組むのが臨床医の有り様なのでしょう。

ネオリベラリズムによるストラクチュアル・バイオレンスとWTO交渉のいっそうの進
行は、
いよいよ状況を悪化させていると感じられますので、
UNレベルで提言されるのであれば、ネオリベラリズムの暴力について、
またWTOの「歯止めのない商品化」と呼ばれるような状況に対しての提言をぜひ期待
したいと感じます。

○色平 

人間の安全保障、、、
私は、若月俊一先生という今年92歳になる名誉総長の下で医者をやっていますので、
そういう言葉遣いが通じないムラの人々をよく知っています。

つまり彼らは、身体を粉にして働いてきた百姓の子孫です。
彼らに、病気になったら医者にかかってもいいんだよ、と訴えるところから始めた若月
先生の実践は、
現在アジアの途上国におけるプライマリー・ヘルス・ケアの端緒となったものだと感じ
ています。
彼らにヒューマン・セキュリティーの感覚が届くのはいつの日のことなのか。

医者語という言葉とムラ語という言葉はほとんど翻訳不能なのです。
私は、ムラ語を解する医者でありたいと思って日夜努力していますが、
同じように行政語とムラ語であっても翻訳不能に近いと感じます。
同じ日本語であってもまったく違う。
ヒューマン・セキュリティーは、日本語にしても行政語にとどまっていて、
それが村人に何をもたらしているのかということについて、、、簡単には翻訳しきれな
いですね。

村人の思いをお伝えしようと思い、
私の村では年間200人ほどの医学生の合宿を引き受けています。

ちょうど明日の早朝になりますが、衛星第2テレビで20分間、
私の診療風景をNHKが流します。
診療そのものについては、全く入り口にすぎません。

日本のムラの有り様を知らない医学生たち、
医者語のプロを目指して勉強している若者たちがどういうふうに感じて、
ムラ語のおじいさん、おばあさんたちと語り合い、何を感じ取るのか。
例えば「ヒューマン・セキュリティー」をムラ語での具体的有り様に翻訳するとどのよ
うになるのか。
私も日々学びつつありますが、彼らもまた模索している。
そういう映像を明日の衛星放送でごらんいただければと思います。

ホームページをのぞきますとたくさん出ていますので、
手前みそで申しわけありませんが、ごらんください。

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