色平(いろひら)ファミリーの子育て日記


ポピーママ(お母さん情報誌)二年生 
2002年4月号、5月号、6月号


4月号

信州の山の村に暮らして6年


子どもに正直な自分自身を見せながら

わが家の「長男」は、実は私


地域医療に心をくだく夫が「無医村の医師になりたい」と言った時、
「よし、私は野菜を作ろう」と自然に思えた。
都会育ちの私にとっては、生活面で不自由なこともあるかもしれないが、
楽しいことだってあるはず。
どうせ暮らすのなら、そこでしかできないことを楽しく経験しなければ…。

そんな山の村の生活の中で、私の教育方針は、
「明るく元気に」「のびのびと」「友達と仲良く」「いじめない」「うそをつかない」
。しかし、そう思っているのは親ばかりのようだ。
山の村に暮らし、子どもは、確かに明るく元気にのびのびと育ってはいるが、
友達とけんかはするし、悪さをして学校の先生から電話がかかってくることもしばしば
。友達の家に謝りに行ったこともある。
親の思い通りに育つはずもない…。

そのたびに、子どもと真剣に向き合い、話をしてきた。
子どもには子どもなりの言い分がある。
子どもと話していると自分が子どもだった頃のことを思い出す。
自分にも同じような事があった。
そして叱られた…。
きっとこれで良いのだろう。
友達とけんかをしながら、けんかの仕方を覚え、
自分も傷つきながら心身ともに成長して行くのだろう。

育児なんてこれで良かったのか悪かったのか…。
結果が出るのは、ず〜っと先の事だから、そのぶん恐い。
今すぐ善し悪しがわかるのであれば、やり直す事もできるのにと思う。
悩んではみるけれど、結局、私には私のやり方しかできない。

時には子どもから意見されたり、指摘されることもあり、
子どもってこんな風に思い、考えているんだ、と感心させられることもある。

私は子どもに、正直な自分自身を見せながら、
長い人生を付き合って行きたいと思っている。

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妻に言わせれば、わが家の、実質的な「長男」は、私らしい。
子どものために食べやすく作ったおかずを食べてしまうし、
子どもに焼きもちをやく万年反抗期の子どもなのだそうだ。
自分の衣類の場所もわからず、本当に手がかかり、
次男が世話をしていることがあるという始末。
とは言われても、私だって立派に父親をしていると思っているのだが……。





5月号

旅の思い出


象に乗ったことが忘れられない息子

子ども連れの旅行はもっと楽しい


先日、久しぶりに卓郎と公民館で卓球をした。
ラージ卓球という大き目の球を使う卓球だったが、卓郎がうまいのでびっくりした。
同居してはいても、普段忙しさにかまけているので、
子育てに参加しているとはいえないのかもしれない。
子どもの成長を知るいい機会となった。

思えば8年前、彼の3歳の誕生日は飛行機の中で迎えた。
この旅では、家族3人で2ヶ月ほどかけて、韓国、中国、タイ、バングラデシュ、
インドネシアの友人・知人の所を回った。

息子はタイでの旅で、短い距離だったが家族みんなで象に乗ったことが忘れられない。
彼は日本語の「象」より、タイ語の「チャン」のほうを先に覚えた。
チャンがゾウさんのことだと知った彼は、
ゾウさんの歌を歌うことに夢中になったものだ。

日本に帰ってきてからも、動物園やテレビ番組で象を見ると彼は乗りたがる。
息子にとってチャンは見るものではなく、
乗って楽しい歩く自動車のようなものだっただろうか。
問題は彼が象について話しても、友達と会話が食い違うことだ。
日本では象は動物園にいるか、テレビや写真の中の動物だろう。
その象に乗ったという彼の話で、
彼は「うそつき」になってしまったようで、残念なことだった。

タイでは、南方仏教の山の寺に友人の黄衣の僧を訪ねた。
村の聖(ひじり)となった彼のめい想は、
蓮(はす)の花咲く池の四阿(あずまや)で行われる。
彼を見ると、物質的には豊かであるが忙しすぎる北の国々での
「常識」が洗い落とされるようだ。

タイの農村では、何もないところに寺だけがポツンとある。
アンコールワットなどへ行って、遺跡の方を向いて、
美術品がすばらしいと言うのはフランス人と日本人だ。

タイ人やカンボジア人は、粗末な寺で修行する僧侶の、
その後ろ姿の向こうに2500年前のブッダの姿を見て拝んでいる。
彼らにとって、お坊さんの存在こそ生きる拠り所、
善悪の基準の要になっているようだ。

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あの時の旅行は、本当に楽しかった。

韓国から中国に渡る船に、私たちはお金を両替するのを忘れて乗り込んだ。
船中では中国のお金しか使えない。
お腹は空いてくるしどうしようと思っていた。
卓郎は退屈の余り船底の客室を走り回っている。
お客さん達も退屈なのだろうか(?)、
卓郎を相手に遊んでくれている。
きっとうるさい子どもが走り回っていると、迷惑だった人もいただろう。

でも、私達は卓郎が走り回ってくれたおかげでとても助かった。
卓郎が、一周回って来ると手の中には、国際色豊かな食べ物が一杯。
私達は、空腹から救われた。
そしてまた、一周回ると食べ物が一杯になるという状態だ。

他にも、卓郎を通じて知り合った人たちとも親しくなり、
船が天津の港に着いた時も、北京までタクシーの相乗りをさせてもらった。
おまけに手ごろなホテルまで紹介してくれた。
あの時ほど、卓郎に感謝したことはない。

子どもと一緒の旅は、確かに大変だけれど、貴重な体験もたくさんさせてもらった。
夫婦2人の旅行も楽しいが、子ども連れの旅行はもっと楽しい。
いつになるかわからないが、今度は、3人の子どもと一緒に旅がしたい。





6月号

手伝い


生活していく上で大切な勉強

手伝いは総合学習の始まり
 

「今日は、ご飯を作りたくないよ〜」
という私の叫び声に、反応したのは麻衣美。
「しょうがないなあ、で、お母さん、今日は何を作るつもりだったの?」
「ハンバーグと野菜サラダとお味噌汁」
「わかった。私と吾郎がサラダを作るから、後はお母さん頑張って作って。
さあ、吾郎やるよ。」

麻衣美が「キャベツは、五万切りでいい?」と訊く。
五万切り…?
きっと千切りのことだ。
その口調は自信たっぷりで。
「いいよ。五万切りで…」。
トントントンと包丁の音が聞こえてくる。
私が、台所に行くと、サラダの器に2人で一生懸命切った野菜を盛り付けている。
歯ごたえありそうなキャベツや、みじん切りになったキャベツと、
形も様々で、どの野菜が私の口に入るのか、楽しみなような、恐怖なような…。

「できた。マイゴロミックスサラダ(麻衣美と吾郎のミックスサラダのことらしい)」
。麻衣美が嬉しそうに私に見せてくれた。
サラダの出来栄もなかなかだけれど、ネーミングがなんておしゃれなんだろう。

台所の手伝いが大好きな子どもたち。
泥団子の要領なのか、おにぎりも上手に作れるようになった。
遊び半分でやっているうちにいろいろな事ができるようになったのだろう。

私の誕生日には、卓郎と麻衣美が焼そばとフルーツゼリーを作ってくれた。
「お誕生日なのに、こんなのでごめんね。」と、
卓郎は言うけれど、私にとってこんなに嬉しいことはなかった。
「来年の誕生日には、もう少しレベルアップするからね」と、言っている。
これからの誕生日が楽しみだ。

今の子どもは忙しくて一緒に料理を作る時間もなかなか持てないが、
一緒に手伝いたいと言う子どもに、
「先に宿題やって来て」と、つい言ってしまうのは、私たち親の方だ。
時には、宿題は後でもいいから、一緒にご飯を作るのもいいんじゃないかなあと思う。

机の上の勉強だけでなく、家の手伝いも生活していく上で大切な勉強だ。    
子どもが大きくなってから手伝わなくなると親は嘆くけれど、
子どもが本当に手伝いたい時に
「今日は急いでるから、また、今度手伝って」と、言ってしまうのは、親だ。
そんな優しい気持ちを踏みにじり、子どものやる気を無くさせてしまったのは、
幼い時に言ったそんな言葉が原因になっているのかもしれない。

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人の五つの感覚は、人類みんなが共通に持っている。
不幸にしてその一つが欠けていても、その分、
ほかの感覚がより鋭敏になっているものだと聞く。

たとえ子どもであっても、五つの感覚は育っている。
だからこそ、ふだん接する味や音が一生の財産にもなろうし、
一生の重荷にもなるのではないだろうか。

特に味覚については、各家庭それぞれ、毎日の食事を通じてなじみになっている。
贅沢に慣れてもいけないのだろうが、
「違いのわかる」少年少女が輩出することを望みたい。

聴覚なら音楽だろう。
いろいろな世界のニュースや各国の映像に接することが勉強になるのはもちろんだが、
言葉よりもむしろ音楽を通じて、地球人社会の多様性を知るところが大きいの
ではないだろうか。

触覚はスキンシップだ。
兄弟姉妹の数が今より多かった時代、子どもは、子どもの中で自然に育っていた。
子どもの生きる力を育てなければ…というテーマがあるが、
大人の側の発想自体がおかしなもののような気がする。

子どもは、集団の中で育っていく。
日々の手伝いの体験が、子どもたち自身の創意工夫が試される機会になれば楽しいだろ
うし、
「総合学習」が身近なところにも始まったことになるのではないだろうか。

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