東大新聞  2002年6月11日

未来予想図・医師編
82年理T中退

地域医療に携わるということ


長野県南佐久郡の南相木(みなみあいき)村、人口約1300人。
色平さんは鉄道も国道もないこの村のただひとりの医師である。
「地域医療とは、互いに助け合うムラ社会で、
どうしても不足する役割のひとつを担っていく」こと。
診療では「現代史の生き証人」から苦労語を伺ったり、
患者さんから教えていただくことも多い。
文字通り、山や川、畑で取れた物をもってきてくれることもあり、
「松茸は食べ飽きてしまうほど」だそう。

無医村だった南相木村に家族5人でやってきて4年、
「村人それぞれの個別性を尊重し、納得が得られる医療」を実践してきた。
医療機器で観察した患部がたとえ同じであっても、
人によって感じ方はまったく異なる、当然対応も変えていかねばならない。
そのうえで、村民から「先生に任せるよ」という顔の見える関係性を築いていきたい。
それが、色平さんが目指す「痛みの分かる医療」なのだという。


在宅で死を看取るということ

医師という職業は、死を目の前にする。
日本では宗教者が人の臨死の場面に立ち会わないので、
看取りは医療だけの役割になっている。
一人の死をどのように受け止めるのか。
色平さんは語る。
「患者さんの死は、結局のところ一人称の自分の死ではない。
その意味で、死はいつも他者の死です。
しかし単なる他者の死、三人称の死であっては不足です。
いかに親しい人の、二人称の死として感じ取れるかが重要です。
そして、死を看取ることで、
自分自身の死生(ししょう)観が試される機会にもなるわけでしょう」。

色平さん自身、村の最高齢の女性を在宅で看取った経験を持つ。
99歳、百人以上の孫、ひ孫、そのまた子どもたちまで、
その頂点に立つ彼女の枕元には一族があちらこちらから集まってきた。
彼女の「一族の長としてのカッコよさ」に尊敬の念を抱くと同時に、
「結果は残念だけれども、しっかりと医師として見守ることができてよかった」
と納得したという。

ムラの歴史や文化、生活する村人のひととなりや立ち居振舞いに関心を持ち、
理解しようと努める。
その結果として見送った死は、『医者語』としては敗北であっても、
『ムラ語』ならピンピンコロリの理想であったりするのだという。


医師に違和感を感じた高校時代

「なぜ、医者という人種はあんなに偉そうなのだろうか」。
高校時代には医師という職業に違和感があったという。
世界人類の歴史に関心を持って、とにかく雑多な本を読み漁っていた。
その傾倒ぶりは友人の多くが「色平は当然、文Vに進む」
と考えるほどだったが、色平さん自身は
「歴史は趣味。職業にしたらつまらない」と、理Tに進学した。

その後、大学での自分のありようにも違和感を持ち、国内外を廻る旅に出た。

「実際に道を歩いて、ぶつかってみないとわからないことがたくさんある」
という色平さんは旅先で「本当に様々な人に出会い、お世話になった」という。

ヨーロッパ、アジアと2ヶ月以上に渡って旅をして、
帰国後に中退を決意する。今となっては、単に親不孝だったというだけで、
理由もよく覚えてはいないが、
「とにかく壁にぶつかり、挫折した」ことだけは確かだった。

世界を廻ったとき、タイやフィリピンで垣間見た
「人間として人間の世話をする」医療実践のあり方は、
違和感を抱いていたはずの医師を目指す
きっかけのひとつになったという。


迂回することは恥ずかしいことではない

色平さんは、毎年200人以上の医学生を全国から受け入れ、
地域医療の現場を実際に体験する場を提供している。
合宿に訪れた若者に対して色平さんは語る。
「人生は長い。若い頃ぶつかった経験は、
それがどのようなものでも、必ず自分のためになります。
壁にぶつかり、挫折し、迂回することは恥ずかしいことではない。
ただ、壁にぶつかったその感触を忘れてはいけないのです。
また、どんな職業であっても若いうちはなかなか夢は叶わないものです。
等身大の現場を大切にしながら、迂回しながらもいつかは初志を貫徹する。
そのとき、壁を叩いた拳の感触が活きてくるはずです。
広い視野と低い視点を大事にして、壁にぶつかってください」。

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