ドクターインタビュー
色平哲郎(いろひら てつろう)さん


    (ききて 高橋直紹弁護士)

    
1.アジアを旅して学ぶ

− 先生は工学部進学コースから医学部へ変わられたということですが。

色平  最初は化学をやろうと考えていました。
しかしこのまま企業の技術者か大学の研究者になるというのでは、もうひとつ、
自分で選び取った人生とはいえないなと感じてしまったのです。
親不孝にも、家出をし、自活しながら各地を放浪しました。

その後、医師になろうと考え直し医学部へ入り直したのですが、
思い描いていたのとずいぶんと違う医者たちの世間の狭さに寂しさを感じました。

− 寂しさというのは。

色平  生物学の基盤の上で、「部分の整合性」の話をしているんですよ。
トータルな意味での人間学や人間観はないんです。
大学や病院の外の世間、あるいは日本の外の世界がどうあるのか、、、
ご存知であったにしても、関心をお持ちではない。
「白い巨塔」の精神的奴隷となって、専門的な細かい探究をしています。
最先端の科学研究の魅力に、むしろ大きく魅せられる人間であるからこそ、
あえて申し上げるのですが、日本や世界の市民が求めている医療実践は、
そういった趣味的なものではありません。

− 学生時代フィリピンや韓国、中国などアジア各地を旅されたことで、
考え方や見方が変わったということはありますか。

色平  いかに自分が物事を知らないかということがよくわかりました。
価値観の変動に、毎日のようにさらされましたね。
学ぶことを通じて、人は自分自身として変わらざるを得ません。
学ぶことは「絶えず自己解体を繰り返すことに恥じない」という態度であると思います

2.地域医療の醍醐味

− こういう鉄道もない村に来られたきっかけは?

色平  初代の診療所長であるとの話がきた時に、僕は真っ先に手を上げました。
何もないところで始めてみることこそ、苦労はあろうが勉強になるのではと思ったので
す。

− ここへ来てみてどうですか?

色平  あまりに面白すぎる。
つまり文化人類学的には、フィリピンの島に入ったような、
農村社会学的な意味では、中国の農村とでは、あるいは西日本の農村とではどう違うか
とか、
僕は自分の旅の経験から、さまざまな関心をかき立てられながら日常生活を送っていま
す。

この体験は私一人ではもったいない、と考え、
年間200人ぐらいの医学生や看護学生を村に受け入れて、
合宿して現場の魅力をお伝えするようにしました。

深い、自らに刻み込まれた記憶や体験を語るご老人に接した時、
若者は、自分が50年後60年後にこういう人物になれるかどうか自問するようです。
学歴や地位と関係のないところに、民衆の知恵が生きています。
村人がお伝えになることについて、後でディスカッションを深めることで、
今まで見えていなかった部分に新たな私の学びと発見があることもあります。

だから一言でいえば、すばらしく面白い、エキサイティングな現場と思うのだけれど、
そう思えるのには、僕が放浪したり親不孝したりした若さゆえの「ぶつかりの経験」
が役に立っているのかもしれません。

− 今、先生が取り組まれている仕事を街中でやることは難しいですか。

色平  いや、できると思いますよ。
ただ我々は、佐久総合病院を創立した若月俊一先生の教えとして、
地域医療は「医療の一分野ではなく、地域の一役割」であると考えています。
だから、どこにいても、医師でない人であっても、
「人間として人間の世話をする」ケア実践の核になることは十分に可能であり、
またそれが必要とされているのだ、と考えます。

もっと言うと、地域医療というのは「地域の有象無象との心理的な格闘技」なんですよ
。それは広い意味での政治、つまり「アタマ」の理解ではなく「ハラ」の部分の話なの
でしょう。
広い意味での政治に、嫌悪感を抱きつつもいかに他者と折り合っていくのかという、
難しい瀬戸際のバランスのとり方が、地域医療の醍醐味でもあり辛いところでもありま
す。
このような地域社会の深みや悩みを、全ての医者が理解できようとはとても思えません
が。

− 佐久病院での経験も大きなものだったのでしょうか。

色平  佐久病院は、ここから23キロ千曲川を下ったところにあるのですが、
「農民とともに」というモットーを掲げ、とても頼りになる病院です。
村人にとっては、いまや当たり前のことになってしまっているのですが、
そこにかかれば何でもやってくれる、そんな安心感があります。
大変恵まれた医療福祉環境であるばかりでなく、佐久病院は「メディコ・ポリス構想」
を通じ、
村おこし、町おこし、そして若い人の雇用についても関心を払い実践してきました。

住民のニーズに応えるべく、住民の中に入って共に何かに取り組むという姿勢をもって
、大きな達成を作り上げてきましたが、
これはどんな保守的な人も認めておいでになる事業であって、世界的にも特異なことの
ようです。

安あがりでしかも高い満足を与える医療サービスとしての「佐久モデル」というものが
もしこの地に実在するとすれば、それは安あがりの医療を目指したからでは全くなく、
村人に寄り添う医療実践に取組んで、村人の家に気楽に足しげく通っていたら、
結果として、予想外にコスト・パフォーマンスが良くなった、そんな一種の逆説になっ
ています。
こんな実践を日本全体の医療で普遍化することが可能であれば、
現状は大いに変わっていくものと期待します。

3.国民の求める医療とは

− 医療過誤が起こる背景について、何か感じておられることはありますか。

色平  僕は、医療事故情報センター設立の、準備会の頃から趣旨に賛同していました
。医者になった頃は、皆さんと一緒に働くことを目指していたこともあったんです。
でもそれには医師としての臨床経験を十分に積んで、
皆さんのお役に立つような医師にならなければならないことも明らかでした。

医者になってしばらくしてわかったのは、
多くの医者たちは、皆さんの論理構成に対して、反感以前に無関心だということです。
そこで、これはある種「医者語」と「法律語」の翻訳作業が必要なのだなと思いました
。「医者語」のプロである彼らは、医者語がうまく喋れれば喋れるほど尊敬もされ、
研究成果も上がったことになるのだと(医局講座制と呼ばれる)仲間内で信じているわ
けです。

ここの山の村の村人が「村語」という日本語を喋ってるのと同様に、
医者も医者村の中で医者語を喋っている。
世間から医者村がどうみられているのか、
人々のまなざしがどう注がれているのか、最後の最後までわからない「先生方」です。
わからないままに終わるような、そういうかわいそうな世間の狭い人々なのです。

そうなると、彼らがどうやったら変われるのかということが課題になるでしょう。
しかし残念ながら、すでに出来上がった医者というのは、どんなに言われても変われな
い。
青年時代、恥大きさまざまなぶつかりの体験から学び、私でさえも多少気付いたように
、そうだ、もし若者であるなら、医学生や看護学生なら、変わり得るかもしれないと思
いました。

弁護士の先生方が、事件事故が起こってアピールを受け、
医療被害を受けた可能性のある人々とともに闘うというのは、一種の「治療」行為では
ないでしょうか。
しかしもし「予防」することが可能であったなら、、、
つまり医学生や若手医師の段階で、
期待される医療像を皆さんと共有することができたら成功だと思いませんか。
予防は治療に勝る、これは佐久病院の基本テーゼでもあるわけで、
お金もかからないし、患者さんの辛さも軽減されると思うのです。

この10数年間に、ずいぶん風通しがよくなったと感じます。
でも医者というのはこんなモンダ、病院とはこんなモンダ、
大学なんて所詮こんなモンダ、というモンダ意識はなかなか変わっていないんですね。

私たちのところへやって来る学生たちの何人かは卒業して厚生労働省に入ります。
しかし彼らが、この村でご老人たちにお世話になる形で学んだ体験は、
臨床医にならないからといって、決して無駄にはならないと思います。

その体験は、外国人労働者女性の世話に取組む際、無保険者の世話をやく際、
障害者と心の通い合いをもてる制度をつくる際、などさまざまな機会を通じて、
簡単に言葉にしてアピールしにくい立場にいる人々の気持ちをも忖度し得る能力につな
がります。
実は、こんな能力こそ、医師が開業する時、成功する鍵になるものなのです。

医者語がうまくて、英語でうまくプレゼンテーションができる能力は、
それ自体貴重ではありますが、医者村の中でこそ大いに通用するかもしれないけれど、
顧客の感覚をいかにつなぎとめるのか、といった部分の能力は、
ある程度世間で揉まれないだめなのでしょう。

世の中にはいろいろな患者さんがいるわけですから、多様性をとかく医学医療という型
の中にはめ込んで、
診断パターンに頼って認識しかねないような医学教育が行われている、、、
そんな現状に飽き足りないと感じる学生たちはこういう村で合宿し、
人々が求める医療像とは何か、と考え、生きた現実と接点を持ちたいと願うようです。

4.「ちがい」と「まちがい」を大切に

− 医療過誤に携わる弁護士にアドバイスをお願いします。

色平  先日県の教員に対し講演した際、「ちがい」と「まちがい」が許されるような
学校を、
つまり寛容な雰囲気を学校空間に作ってほしいとアピールしました。
弁護士さんについても同じ要望をもっています。

笑い話ですが、とかく自分の言うことがそのまま通用すると思っている人たちは
左脳ばかりを使っているので呆(ぼ)けやすいのだそうです。
それは、弁護士よりは裁判官の方が、、、ということでしょうか。

左脳というのは「考える脳」であり、論理や理屈、整合性、計算などを司っています。
一方、意欲、ひらめき、直感など、感動する、友達を作る、トキメく、
相手の感情の波を捉えるなどを司るのが「感じる脳」右脳なのだそうです。

右脳の能力を重視することは、豊かになった日本社会において今最も必要なことです。
そうでなければ、治療(矯正)はできても予防(教育)はできません。
今こそ、「感じること」は「知ること」より大事、なのではないでしょうか。

人はみんな人と「ちがい」ます、それでおかしくないし、多様で多民族・多宗教で当た
り前だし、
それを押し出しても決していじめられたりしない、ちがっていることこそ21世紀には
価値なのです。
「まちがい」もそうです。決してまちがえたいと思って取組むわけではありませんが、
まちがいかもしれないことでも言ってみて、やってみて、試行錯「誤」して、
その上でディスカッションすることこそ豊かなのです、決しておかしなことではありま
せん。

教育、勉強、学習といっても、
「教えられたことを覚えているだけで、正解を早急に求めすぎる」、
そんな今日的な風潮に傷つく若い人々が多いのではないか、と危惧します。
「ちがい」と「まちがい」を大事にできるような人生観、そして
「広い視野と低い視点」の両者を(欲張りにも)めざして取組むことで、
私たちの人生そのものが暖かく、豊かになっていくと確信しております。


プロフィール
1960年、神奈川県生まれ。東京大学中退後、世界を放浪。その後、京都大学医学部へ
入学。1990年同大学卒業後、長野県厚生連佐久総合病院、京都大学付属病院等を経て、
長野県南佐久郡南牧村野辺山へき地診療所長。1998年より南相木(みなみあいき)
村国保直営診療所の所長となり、村民1400人の健康と生命を守る。
NPO「佐久地域国際連帯市民の会(アイザック)」事務局長として、
外国人HIV感染者・発症者の生活支援、帰国支援にも取り組む。

http://home.catv.ne.jp/hh/yoshio-i/Iro/01IroCover.htm


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