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            対談

    映像をきっかけに、山の村に学ぶ

          −映画「越後奥三面、山に生かされた日々」−

 

色平哲郎(いろひら・てつろう・長野県南佐久郡南相木村診療所長)

姫田忠義

 

 

●きっかけとなった映像

 

色平 

十数年ぶりに、「山に生かされた日々」を見せていただきました。

ありがとうございます。

24、5歳の時でしたので、学生だった当時を思い出しました。

そのころは、先生のことを存じ上げなかったんですが、

大学の友人が京大の寄宿舎の古い寮食堂でこの映像の上映に取り組んだのが、

”出会い”になりました。

それが1984年だったか、85年だったかはっきり覚えていないんですけれども、

そのどちらかだと思います。

 

当時の私には、三面(みおもて)のような「世界」の存在自体が大きな驚きでした。

私どもの世代では、子どものときから電気がありましたので、

電気のない生活、、、そして電気のないところに電気がきて、便利な生活になっていく

、その便利さと引き換えに何か失うものもあるのだ、ということに気づかせていただい

たのが、

この映像を通してだった、ということを改めて思い出しました。 

 

 

姫田 

そうですか。

三面第一部の作業が始まったのは1980年(昭和55年)、

その後、足掛け4年間通って、村がなくなったのが85年(昭和60年)です。

実際に、三面第一部をまとめたのが84年ですね。

まとめてすぐ、京都でご覧になったんですね。

 

 

色平 

私のふるさとは新潟の蒲原平野、弥彦神社の近くです。

越後が稲作地帯である、とのイメージはあったんですが、

同じ新潟県の北の方に、こういう山深い地域があるということを、

衝撃をもって見せていただきました。

三面には一度は訪れたいと思って、未だ訪れることができずにおりますが、

日本だけでなく、アジアの各地にあの映像が示すような生活が普遍的にあるんだろう、

と考えて、若い私があちらこちらを巡って歩くきっかけとなった映像でした。

 

 

●山の村にある自立性

 

姫田 

十数年ぶりにご覧いただいて、何か、お気づきの点はあったでしょうか。

 

 

色平 

たくさんあります。

現在信州の山の村に暮らしておりますので、

以前よりずっと山の話題に近くなった感想を持ちました。

うちの村ではイワタケがよく採れまして、

イワタケを採るおじいさんたちに、熊に出会ったという話をよくお聞きするんです。

アオシシ、熊、猪や鹿の話が日常にあります。

猪については、16年前、85年8月のお盆に日航機が墜落した事故の時、

巨大な飛行機が県境のすぐ群馬県側に落ちて、猪が向こう側からこちら側に逃げてきた

、と猟師の方から伺ったこともありました。

 

海から遠い信州でありますので、自前で肉か魚をとる以外は、

動物性蛋白になかなかありつけなかったんですね。

山中の暮らしで、塩や麹がいかに貴重かということもあります。

麹屋(こうじや)という屋号があるくらいですから。

映像の中で、学校での”ゼンマイ休み”の話は、とても印象深く、頭に焼き付いていま

した。

 

三面の映像で、年中行事として、八朔(はっさく)の話がなかったですね。

南相木(みなみあいき)村あたりでは、

寛保2年(1742年)の旧暦8月1日に千曲川(つまり信濃川)

の最上流である我々の住むあたりに大きな雨台風が来襲し、

堤防が切れて多数の人々が亡くなったことがあり、

お盆の行事を前倒しで8月1日に、大規模に執り行います。

年中行事のなかには、言葉としては必ずしも受け継がれていない災害の「記憶」

というものも立ち現れているような気がします。

 

現代の日本人は、飢饉と飢餓の区別がつかなくなっているようですが、

飢饉の記憶としては、南相木村では、天保7年に餓死者126人、

と寺の過去帳に残っています。

凶作の年、米価が高騰し飢餓が発生しそうになって、平場で「穀止め」になった場合、

米の取れない山の村としてどう立ち回って生き延びていくのか、

ということについて考えてみます。

大変厳しい、綱渡りの「自治」になるのではないでしょうか。

その厳しさは、しくじれば端境期に村内で餓死者を出しかねない、、、

そんな、村ならではの自治が、江戸時代から明治までは続いていたようです。

 

ところが、大正7年の第一次大戦後の戦後恐慌(米騒動)に伴い

初めて国からの補助金なるものが郡役場を通じて村に届きました。

大助かりでした。

以来、昭和農村恐慌、(第二次大戦の)戦後期を通じ、

一貫して交付税と補助金は不断に拡大し、現在に至っています。

それは、江戸時代の村方三役を中心とする「自前の自治」と、

現在の地方自治との大きなコントラストのように思えます。

 

今日は、「自前の自治」という、

本来の山の村の姿を久しぶりに見せていただき、元気をいただきました。

 

 

姫田 

自助努力や自立というものを、

戦後の日本では自給体制という概念で括って伝えてきてしまったという気がしますね。

しかも自給というのは孤絶したものであり、さらにいえば、自給体制というのは古い、

遅れたことだというふうに認識してきたとも思います。

これは実態を反映していない、謂れのない認識だと思うんです。

 

三面の場合、自給体制という言葉を本当は使わない方がいいくらい、外の地域とつなが

っていました。

海岸部ともそうですし、山側ですと山形県側の小国といったところとつながってきた。

しかも、あの一帯は大変な遺跡地帯であるということが明らかになってきましたが、

その中でも、特に、旧石器時代の石器の材料は三面では産出されないもので、

津軽や糸魚川方面由来の石材であるということもわかってきています。

ですから、決して、孤絶した生活をしていたという言い方は正確ではないですね。

 

個と集団が非常に強く結びついているあり方、それを三面では感じさせられましたね。

個と集団の原理というのが絶えず働いていて、それをきちっと身に付けておられた。

例えば、狩りに行くシーンで猛然と僕に、

狩りについてきては駄目だ、といった人がいますでしょう。

村を一緒に出た者は一緒に帰ってこないといけない。

これはもう掟であるわけです。

途中で帰りたい、などということが通用するような安易なものじゃないという。

鉄砲も捨てたくなるような状況になったとき、誰が助けてくれるのかといったら、

それは個なんですよ。

もうへとへとになって峠道を越えていくとか、長い道のりを歩かなければならないとき

には、

何も支えにはならないですね。

しかし、同時にお互いがお互いを支えあわないといけない、という集団の原理といいま

すか、

そういうものもちゃんと身に付けておいでになることを、感じさせられました。

 

 

色平 

現在では、”失われた世代”なのかもしれませんが、

生きておいでになれば120歳くらいになっている世代の村の方々は、

日本における「先住民」の感覚をお持ちになっていたかもしれません。

南相木村にも、そんな先住民族ならではの知恵や技を受けついでいる方が、

今でもポツポツとおいでなります。

この世代の方々の人生観や立ち居振舞いは、

私にとってとても魅力があるものですし、感ずるところがあります。

 

 

●足・船・鉄道・車

 

色平 

私の村では、江戸時代において「江戸商い」という言葉がありました。

峠を越えて、いったん上州にでるか、あるいは、

隣の川上村から十文字峠を抜ければ武蔵の国の一番奥、大滝村ですので。

 

 

姫田 

荒川へ出て…。

 

 

色平 

そうです。

千曲川水系からは、神流(かんな)川あるいは荒川に出ることができます。

お蚕さんの時代になってからは、横浜の生糸市場の相場情報は、

信州では私どもの南相木周辺にまず最初に届いたと伺っています。

 

それから、明治17年の秩父事件では、秩父で敗走した人たちは、

十石峠を西に越えて佐久に抜け、野辺山で解散したそうです。

この時代は峠道が生きていた時代なんですね。

奥山は一つの地続きで、決して今の埼玉や群馬、長野や山梨、

諸県の辺境ではなかったと思うんです。

 

山が”隔て”であっただけではないのと同様、

川も人と人とをつなぐ存在だったようです。

甲武信(こぶし)岳から流れ出す千曲川は、

甲州・武州・信州と私のふるさと越後をつないでいます。

 

 

姫田 

そうですね。

峠が生きているということは、言い換えると人間の足が生きているということになるで

しょうか。

 

電気もそうですけど、昭和40年代のいわゆる高度成長に入る時に、

車があらゆるところに入っていけるようにという願望があって、

その政策の指標としてモータリゼーションという表現があったのを記憶しています。

ところが、車が入っていける道路ができたら、今度は人がいなくなってしまうという現

象がおこってきた。

それは自分の足で生きるということが希薄になっているといえるかなと思いますけれど

も。

 

 

色平 

学生時代、最初東京にいたころですが、

峠を越えて新潟の母のふるさとまで歩いて行こうと思いたち、実際に歩いたことがあり

ます。

鉄道から見ていたところを実際に歩いてみると、大いに勉強になりました。

 

足で歩いた時代の記憶をとどめる80代90代の村の方にお話を伺うとき、

彼らの持っている世界観、コスモロジーは、

車を中心としたものからはかけ離れたものだ、ということを感じます。

秋葉信仰や三峰信仰についての語りが村内に伝わっています。

昔、私も峠道を歩いていたときは、

そんな世界を感じながら歩いたものだったな、と思い起こすことがあります。

 

 

姫田 

秋田のマタギの衆の話を聞いてびっくりしたことがあります。

猟で秋田から日光まで行ったというんですね。

えっ日光までですかと聞いたら、いや、伊豆まで行ったよと。

ずっと山を歩き続けたんですかと聞いたら、ところどころ、

鉄道がついているところは鉄道に乗って行ったもんだという話を聞かされたことがあり

ます。

 

 

色平 

宮本先生もそういう旅をなさいましたね。

鉄道にのっては峠を越えてという。

 

 

姫田 

これは山岳部であればそうですし、島嶼部であればそれが船になるということですね。

鉄道に乗っては、歩いて峠を越え、または船に乗って沿岸伝いに行くとかですね。

車を想定しない、船と足、鉄道とのバリエーションですね。

それから、自動車が物質的な交通手段として展開するなかで、人間自体が変化していく

と。

そのときに、足が弱くなるということだけではなくて、コスモロジーというか、

人間の中の何かが変化していくのかということですね。

 

 

●必要と充分、の感覚

 

色平 

山の村に暮らしていると、世界とは目の前に見えている山肌、稜線まで、の様です。

そして、そこで暮らしている人にとって、自分の必要を満たすには、

この見えている世界の中で充分だ、と感じられるようです。

 

しかし、その充分だ、というのは「必要を満たす」という意味であって、

「欲望を満たす」ということではない。

だから、山の恵みについても、ある程度以上にまで刈り取ってしまうことはいけないこ

とだ、

と考えていたようですね。

 

例えばそれは、医療についてもこんななんですよ。

私は夜中でも村内の患者さんに呼ばれますけれど、そんなに頻繁ではないんです。

あるテレビ局のディレクターが私の診療風景を撮りたいと言ってきたとき、映像の中で

、「村人は、皆でもっているものを自分だけですり減らすのはいけない、

そんなふうにお考えになっているようだ。」

とコメントしたことがありました。

 

入会権や水利権もそうですが、個人の所有権といっても、ある程度は”皆んなのもの”

でした。

誰かの必要に応じて取るけれども、それを自分だけで溜め込んだり、使い尽くしてはい

けない、

という感覚があったようなのです。

古来の権利である、入会権や漁業権、水利権といったようなものこそ、

つい近年まで、この日本での巨大開発に対する有効な歯止めになっていたように感じま

す。

そして、そこが”宝の山”であるからこそ、

いろいろな場面で「狙われる」んじゃないかなと思いました。

 

 

姫田 

映像の中で、三面の人がゼンマイを採っていましたが、

絶対に根こそぎには採らないんですよ。

2本くらい後ろに残っているんです。

三面はゼンマイの豊かなところですが、

根こそぎ採ってしまうと次の年に生えてくるかわからない。

受けついでいくための知恵ですよね。

それは一つの大事な道、じゃないかと思うんですけど。

 

 

色平 

なるほど。

現代の私たちのような世代は、必要を満たすことには充分だが、

欲望を満たすには充分ではない、、、という、この両者の差異、

重大な差異が感じ取れなくなってきています。

 

満腹感についても、そうではないでしょうか。

昔と違って脂肪分の多い食材に変化しましたね。

脂肪は摂取したほどには満腹感が感じられないのが、一番の特徴です。

 

村の方々に伺いますと、山に生えている立ち木にはだれだれという所有権があるが、

それ以外のものについては誰がとってもいいという一種のルールがあるといいます。

しかし、何についてもそうかというとそうそう一律ではなくて、

マツタケは例外であったり、他にもさまざまな何らかの時期設定をしているようなので

す。

生態系の中の諸循環がうまくいくために、ちょっとした禁欲的な、というか、

こうするもんだ、こういう使い方をするもんだというような、

「…するモンダ」という言葉に表れる所作があるようなのです。

 

ご老人方の介護するのは、女衆(おんなしゅう)の仕事である。。。

女はそうするモンダ、、、

若者は、消防団の中に入るモンダ、、、

年寄り隠居は、こうするモンダ、、、

そんな「モンダ主義」の縛りが多すぎることは、前近代的で嫌な束縛である、

と学生時代に教わったような気がします。

しかし、それらが全部断ち切られることで、

一人ひとりの人間を支える関係性も切られて、寂しくなってしまうようですね。

若者がふるさとを求めたり、ボランティア活動に取り組みたいと考えるようになるのは

、あまりにもそういう関係性が希薄になってしまっている現状があるのではないかと感

じました。

 

17年ほど前、この映像を見せていただいたとき、

私は大学で文化人類学のサークルに所属していました。

そこでは海外の、例えば仮面が出てくるようなお祭りとか、

海外に向かってアピールしそうな文化人類学的知見があったり、

あるいは農村社会学的な新知見もありました。

しかし、外国人が見て”絵になる”ということではなく、

外目には見えづらいけれども、人々の関係性や自然との付き合い方について、

知恵ある技や立ち居振舞いを形作り、永続的に何万年かけて築き上げられたものが現に

ある。

むしろ後進的とされる「モンダ主義」の中にこそある、という気づきを得ました。

 

この映像を通しての”出会い”に感謝しております。

この日本列島の中にもアジア的文化の基層があって、しかもそれは明瞭に言語化されて

いない分、

非常に伝わりにくいものであり、ある意味で世代間で見捨てられつつある、

けれども、生活の中には現にあるんだ、との発見でした。

 

今、私は医者をしています。

医者は病気を診るのが仕事ですけれど、

病気を診るには、その背後にあるその人の人間や人生観が大事だ、

ということについての気づきの機会にもなったと思います。

 

それから、三面の映像を見ていると、ダム問題に気づいてはいるが、撮るにあたって、

ダム問題には直接触れずにおいて、三面の方々の心の中に入っていきますね。

そのような立ち居振舞いについても、現在私は、村で学ばせていただいているところが

あるんです。

 

NPO「アイザック(佐久地域国際連帯市民の会)」の取り組みで、タイの女性たちと

接するとき、

HIV感染とか結核とかということは、私こそ役立つ性質のものではありますが、

それは本人たちには触れられたくない部分であるかもしれません。

そうではない部分で、隣人として役に立ったり、おつきあいがあったりという、

「お互い様」の関係が非常に大事なんだ、ということについて、映像から学ばせていた

だいたんです。

 

 

姫田 

今まさに、隣人という表現でおっしゃっていますが、役に立とうが立つまいが、

人間はそのかたわらにお互いに人間がおらねばいかんねん、

おるもんやで、ということを僕は30歳で対馬の島で学びましてね、お爺さんに。

何にも出来ない浮浪者同然の人間が行って、

山の村のおじいさんが自分の40年以上の苦労の結晶である借金の証文を取り戻したの

を見せてくれて、

わしはこれをこれまで誰にも見せなかったけど、

あんたに見せるために生きとったようなものやな、と言われたときにね、

何かができるにこしたことはないけど、そこにおるということが大事なんだということ

を学びましてね。

山の村のおじいさんが普通の生活者として生きて、それで一生が終わっていくわけです

けど、

その有限な時間のなかで、あるとき、僕はおらしてもらって、

こういう方がおられたんですが、ということの証しを残していきたい。

奥三面のフィルムの中にも次々に故人になっている方が随分います。

映像を見て無言でお弔いをしているようなものですけどね。

 

 

●個人の志と組織の論理のズレ

 

姫田 

色平さんは現在、お医者様として、日々、人の健康や命に関わっておられるわけですが

、そういうお立場から越後奥三面のような生活というのはどんなふうに見えるものでし

ょうね。

 

 

色平 

村に電気が来たときの驚きと感動を、今に伝えるようなおじいさんたちが村にはおいで

になります。

電気が来ることを望み、医者がくることを望み、お金や機械が来ることを長く望んでき

た人たち。

しかし医者が来ることによって、何かを失うというか、

自前での努力というものにおいてスポイルされる部分もあるような気がします。

「人間として人間の世話をする」というケアの大事な原点が、

専門家といわれる人に「お任せ」することによって、なおざりにされてしまう危険性が

あるように感じます。

 

相互扶助、私の村ではエイッコというんですが、「結い」のことですね。

お金が来ることによって、「結い」が形骸化するということもありました。

三面の映像にあった山に生かされた日々が、私の村にもついこの間まであったものです

から、

それが何によって空洞化していったのか、ということを日々考えています。

 

この地球上にはまだ20億人、電気の通っていないところに暮らす方がおいでになりま

す。

彼らに電気を届けるという志は素晴らしいもので、電力会社の方にとってもやりがいの

ある仕事でしょう。

 

しかし、大きく成長した電力会社はいずれ山の中の村をダムによって沈めることに

エネルギーを費やすことになるかもしれないわけで、最初の等身大の電力会社の方の志

と、

後に、その村を沈めることになる電力会社の論理とでは、ずれてしまう。

個人の志と組織の論理のずれという永遠の課題、として残るんじゃないかと思います。

同じことは、無医村時代に、保健婦さんが頑張って自前の努力で盛り立てていた村に、

専門家としての医者が入ったり、

大きな病院が近所にできたりすることによって起きていることもあると思います。

 

電気のない生活をしている方が世界に20億人おいでになるとすれば、

決してまだまだ人類の少数ではない。

その分やらなければいけない仕事もまだまだあり。

また、根を張った生き方もまだまだあるんでしょうね。

 

 

姫田 

そうですね。

 

 

色平 

彼ら20億人こそは、現在の”国際開発”の危機にさらされているんです。

日本という国の巨大なお金が、その人たちに対して、

もしかしたら構造的には悪く働いているのではないかというふうに、

私はとても危惧しているんですよ。

 

例えばモンゴルでは、一昨年の暮れに初めて土地の登記法というのが始まったんですね

。誰のものでもなかったモンゴルの大草原に”所有権”なるものが持ち込まれることに

よって、

大きな金儲けのチャンスにもなりましたが、逆に、明治の日本が地券を発行したことに

よって、

村社会のなかに大きな格差と分断が持ち込まれるようになった、

それと同じようなことが起きているのではないかと。

 

モンゴルに市場経済が導入されたのは、冷戦が終わり、それまでソ連に近かったモンゴ

ルに、

アメリカと日本がお金というものを持ち込むことで、中国との間に楔を打ち込もう、

という明らかに戦略的な発想の中で行われたことです。

その結果、モンゴルの人々の生活が徐々にですが本質的に変化してきています。

誰のものでもなかった草原や川や山が、誰かのものになる、というような。

 

 

姫田 

高知県の椿山(つばやま)という焼畑の村に通って教えられたことの一つに、

焼畑をやらなくなった条件というのがありました。

それは、昭和31年、国家政策として造林が進められ、造林資金が投入されたことがき

っかけだったと。

椿山は全山、共有地だったんですが、造林資金を受けるには、主体(個人)が必要だっ

たんです。

 

共有地だったときは、毎年、区画をお互いに相談したり、くじびきしたりして、

誰かが、今年はわしのところは日当たりが悪かった、などということがあれば、

お互いに譲り合ったりしながら、可能な限り平等な条件が得られる工夫をしていたんで

す。

それが造林政策をきっかけに、共有地はいったい誰のものかということになって、

椿山では共有地を分割し、個人の所有権を確定していった。

 

地券を発行して土地制度を私有化した明治の初めの頃は、

まだ膨大な山林があり、自然に対してその全てを私有化するというのはやりきれなかっ

た、と思うんです。

しかし、第二次大戦後は強引にそれを推進して、国有林も枠をつくって統合し、

いわゆる入会権なども私有化ということで分割していったんですね。

そういう流れの中で、椿山の焼畑の基盤が変わっていったということがありました。

 

三面の場合には、ダムの補償費を出すときに、この土地は誰のものかということが問題

になったわけです。

その場合、補償費を得る権利をもつのは、登記をしている名義人だけなんですね。

そのとき随分相談を受けたんですけれど、持たざる層があるわけです。

分家層は土地を実際に使用はしているんですけれども、土地の名義は持っていないわけ

です。

家の宅地も田畑も、実際は本家筋の名義であるということさえありました。

持たざる層から、何とかならないかという話を聞かされて、

私も入会権の問題を尋ねてレポートしたりしたことがあったんですが、

それが村の役員の人に聞こえて、そんなことをするなら出ていけ、と言われたりしたん

ですよ。

 

 

色平 

そうでしたか。

 

 

姫田 若いスタッフから、ダム反対運動をしようと言われたこともありました。

なぜダム反対、と言わないのかと問われて、

俺はなんとしてでも三面にいないといかん。。。

三面の人のことが僕ら自身にもわからないし、世の中に明らかにならないよ、と。

ここにおらないかん、という大前提があるよということで、村がなくなるまでおらして

もらったんですけどね。

 

とにかく所有権という問題が首を締めるかたちできています。

日本の事例としては、戦後の50年代の後半ぐらいからのステップがあるし、

それに先立つ明治のステップがあります。

日本も昭和40年代から、例えば熊本県の川辺川の問題にしても、話がおこっているわ

けですよね。

三面も全く同じ時期、昭和42年にダム問題が起こっているんですよ。

電力がひとつの大きな焦点になっていて、それを実現していくにはどうするかという中

でおきています。

 

所有制度というのは、たとえ誰かのものであっても、

土地収用法で強制収容していくという、強権発動までも行いながらいったわけですね。

モンゴルの場合も大きな時代の変化にきているわけですね。

 

 

●土地の所有権

 

姫田 

三面では三つの財産権があると、最初に村を訪ねたときに教えてもらいました。

三つというのは、動物をとるオソ場、魚をとるドォ場、それと採草権の場です。

採草権というのはスゲのことなんですが、最初、僕はスゲと聞かされて、

スゲがそんな大事な財産上の権利になるのかなと思ったほどでしたが、

スゲはスゲ笠の材料になるもので現金収入の一つでした。

 

それで、この場合の財産権というのは、

いわゆる私有権ではなくて使用権としかいいようがないと思いますが、

三つの財産権を譲ってもらえば分家ができるというふうに聞かされました。

田んぼは財産権にはならないんですが、分けるほどにはない、ということでした。

それから、明治になるまでは29軒以上に増やしてはいけない、ということもあったよ

うです。

三面で一家族として自立して成り立っていくための条件、

生活基盤、生存基盤を保っていくための不文律というか言い伝えがあったようですね。

 

 

色平 

土地の所有は、食糧の生産に大きく関わる問題ですね。

人類の歴史は、飢饉や飢餓の繰り返しだったわけですから。

コモンズと呼ばれる”皆んなのもの”を誰かのものにしてしまうというということは、

食糧生産の面からいえば、わざわざ脆弱性や不安定性を持ち込むようなことになってし

まうのではないか、

と懸念します。

 

三面のように、あれだけの多様な資源の上に生活を築いていたということは、

資源の危機を分散する上で、非常に知恵が豊かだったからだと思います。

それがゆえに、”長持ちする”生き方でもあったのでしょう。

 

29戸以上にしないというのも、江戸時代ならではの感覚なのではないかと思います。

「間引き」という江戸時代の、悲惨な「知恵」を思い起こさせます。

 

 

●公共という言葉のイメージ

 

姫田 

昭和27年に三面川の下流にダムができ、ダム湖ができて、

そこを船で通うようになったんです。

そのときに奥のほうに林道をつけていく工事がありまして、三面の人たちも何人か出て

行ったらしいんですね。

主に若い青年たちだったようです。それで、呼ばれていって、道づくりをしたんですが

、賃金をもらったことにびっくりしたという話を聞きました。

道を造るのになぜ賃金をもらえるのかと。道は自分でつくるもんだと。

 

 

色平 

道普請(みちぶしん)の感覚がありますからね。

私の村でも春秋の二回、みんなで取り組みますよ。

 

 

姫田 

さきほど、コモンズというおっしゃり方をしていましたけど、

日本語でいうと「公共」とか「公」とかという言い方をしますが、「公」というのは実

は非常に曲者ですね。

 

曲者だと思うのは、「公」、例えばオヤケとか、

オオヤケというのは大家さんということで、大きい家ということです。

だから、日本語の語感からすれば、大きい家というイメージのものが勢力を広げようと

した歴史があったと。

それが共有地的な感覚の世界にも忍び込んでいくという足取りがあると思います。

戦後にオオヤケという言葉を公共事業という言葉で、誰かの力を発揮するということの

盾になったと思いますね。

 

 

色平 

おっしゃるとおりです。

大変な曲者ですよね。

「公」と「共」とはもともと違うんだと思います。

それを「公共」と一くくりに表現することで、何かごまかされているのではないか。

 

「公」がパブリックだとすれば、「共」はコモンズですね。

英語でコモンズというのは共有地という、もともとは土地の意味でしたが、

もっと広い意味のものとしてとらえられるんじゃないかと思います。

日本においてオオヤケ、「公」の成立したのは、公議隠密という言葉のように江戸時代

にもあったんですけど、

明治国家の成立によって列島内に普遍化されるんじゃないかと。

明治国家ができたときには日本中、コモンズだらけだったけれど、

それを「公」に召し上げるか、あるいは私有財産化するか、

あるいはいったん召し上げた「公」を払い下げでまた「私」のものにするかという形で

行ってきた。

 

 

姫田 

公共の「共」というイメージというのはどういう意味だといったら、

日本の場合には共同体の「共」ということですが、結局は共同体というのも漢語ででの

イメージです。

妙な概念化しないで実相、実態というか、素直に表現できるような言葉をもう一度見つ

け直す必要がありますね。

 

 

●生活の細部にこそある志

 

姫田 

実に平易な話みたいになりますが、体が健康であれと。

健康であることによって、健康な精神状態になる、みたいないい方がありますね。

健全な肉体に健全な精神が宿るということがありましたね。

そういう言い方がかつてありましたけれども、どう思われますか。

 

 

色平 

尊敬するタイのお坊さん方に日本に来ていただきましたが、

彼らは徒歩で信州を行脚して、現場のタイ人たちの悩みを聞いておいでになりましたよ

それを見て、生きた宗教がアジアにはまだまだあるというふうに感じました。

善光寺まで一週間をかけて歩いていく途上、人々が出てきてお坊さん方一行を拝んでい

る姿というのは、

一遍上人が踊念仏を、ちょうど私の住む東信のあのあたりで始めた鎌倉仏教を髣髴とさ

せる光景でしたね。

スピリチュアル・ケアという、「魂のケア」という側面からすると、

実は現代の日本人こそが世界でもっとも貧困で、無自覚にも貧しいのかな、

と感じてしまったんですけどね。

 

 

姫田 

そうですね。

 

 

色平 

私どものNPOでは外国人HIV感染者・発症者への生活支援、帰国支援を行っている

んですが、

あるタイの女性がHIVから肺結核を発症して、帰国するにタイミングが遅れて帰れな

くなってしまった。

そして亡くなる時に、タイのお坊さんにお目にかかれないことが残念です、とおっしゃ

ったことがあるんです。

動けるうちにご両親に会っておきたい、という世俗的な感覚は日本人にも伝わるんです

けど、

亡くなる前にお坊様にお会いしたい、とおっしゃる。

仏教の原点のような出来事に、日本人の感性こそが大分ずれているのだと感じて、随分

勉強になりました。

 

 

姫田 

そういえばアジア21世紀奨学財団という財団がありまして、

そこにタイの女性の留学生も来ていましたが、その人と話をしたときに、ピー(精霊)

の話をしたんですが、

日本の若者にピーの話をしても全然関心を示さないといっていましたね。

 

 

色平 

わからないでしょうね。

 

姫田 

それが悲しいと。

それから三面の人で、山、山、山って言っていた高橋源右ヱ門さんに、

山の神様はいるのと聞いたことがあるんですよ。

そうすると、いるともいないとも言わない。それでいて、しばらくしてから

「危険な山を、特に冬の山を渡っていかないと行けない時、山を渡り終わってからふっ

と振り返って、

よくこんなところを自分は渡れたなと思うことがある」と。

言外に、自分の力ではない、何かを感じているわけですね。

 

ちょっと話は変わりますが、去年、

民映研のフィルムを見て下さる各地の上映会の方たち中心となって開くセミナー、

山村会議というセミナーを伊勢湾口の答志島でやったんですが、ここの島の漁師衆が、

自分たちの漁場に注ぎ込む川の上流に植林に行っているんですよ。

そういうことが、ごく自然な大事なこととして持続できるといいですけどね。

 

 

色平 

本当にそうですね。

地域というものは外からの援助では決して良くならない、

そこに実際に住んで日々の暮らしを送っている者、自らがつくっていかなければ決して

良くならない、

というのは宮本先生の言葉ですね。

 

私は、都会に暮らしている人たちが別荘をもったりして、山の生活の良さを部分的につ

まみ食いするのは、

そこで暮らしてきた先住民族の知恵を癒しとして使うという安易な発想ではないかと思

うんです。

 

村の人とお酒を飲んでいると本音が出ます。

そのとき、村での付き合いは、じいさん、父さん、自分、子ども、孫までの五世代かけ

た、

お互いさまの付き合いが村の付き合いだ、と言われました。

私の場合、じいさん父さんは無理だが、ぜひ、孫の代までいろ、という。

つまり、自分としては私の孫まで付き合いたいという、

そういう村人なりの歓迎の言葉を、長丁場のことについて、頭ではなく腹で考えて、言

ってくれる。

 

ところが実際にそこで住み、生活してみると、この場ではうまく喋れないようなことも

あるんです。

例えば、村内ではお互い姻戚関係があったりして簡単にいえないことを、だからこそ、

それとは”無縁”の存在である私には喋ってもいいということで話をされるんです。

そこが面白いところですね。

 

 

姫田 僕が30歳のときに出会ったおじいさんはまさにそうですよ。

村内の人にも、家族にもいえない、話ができない。

それを旅で来た、しかも若い小僧に教え、あんたに見せるために生きとったようなもん

やなという。

そういうふうに心の奥にしまってあることはありますね。

 

 

色平 

戦争にお出でになった世代にはありますね。

それを、これが最期の病気になったな、というときに私に言い残していくんですよ。

これは孫にも言っていないことだな、というふうにうすうす感じます。

本当は、孫さんにこそ伝えていただきたいですけど、でも気恥ずかしくて伝えなかった

りする。

 

南相木村を訪ねてくる学生は年間200人からおいでになりますが、彼らには、

2、3日しかいない君たちだから喋ってもらえることもあるんだよ、と言っています。

でも、そのためには君たちが何も知らないのでもなく、本で読んで、知ったようなふり

をしているのでもなく、

ある作法みたいことがないと聞かせてはもらえないだろう。

君たちが、何を求めている人間なのかが問われるのだ、と。

 

本の中にも人の話にも”ヒント”はあるけれども、その中に”答え”があるわけではな

い。

人生の答えは、自分でみつけるしかない。

人間の生き方が一番、勉強になるんだよ、と。

君自身の人生の物語とおじいさんの物語とが響きあわなければ、一歩を進む出会いには

ならないと。

だから、日本の村だけではなくて、アジアの村も訪ねてきてごらんなさいというふうに

、私は申し上げるんですけれども。

 

私自身は、アジアを大回りして日本に辿りつき、南相木村に暮らすようになったんです

けれども、

まだ、こういう地域がこの日本にあるということが、大変に嬉しいと同時に不思議なく

らいです。

それに三面のような村の生活が、今の時代、よくぞ映像や文章に残ったと思います。

なんせ多過ぎる情報として、映像や文章が垂れ流されているご時世ですから。

 

高度成長の時代、当時の東京の姿を宮本常一先生がスナップ写真に撮っていなければ、

以前の東京の姿はなんだかわからない程ですよね。

細部にこそ真実は宿っている。

一般の方がお気づきにならない部分に、大事な志が存しているんじゃないかなと。

 

 

姫田 

今、まさに、おっしゃった志というのは、心がさすということ、光がさすということ、

方向性をもつということだと思うんです。

先ほど言った三面の人がゼンマイを一つちぎるにしても、誰も志とは言わないんですよ

。ゼンマイをとったというだけ。

しかし、その行為もやはりその人の志の現れだというふうに理解をできなければと思い

ますね。

 

 

 

 

■色平哲郎(いろひら・てつろう)さんプロフィール

 

佐久総合病院内科医/長野県南佐久郡南相木村診療所長/

民間NPO「佐久地域国際連帯市民の会:アイザック」事務局長

 

1960年、神奈川県生まれ。東京大学中退後、世界を放浪。

その後、医師を目指し京都大学医学部へ入学。

長野県の無医村に入り、初代診療所長を務めるかたわら、

外国人HIV感染者・発症者への生活支援、帰国支援などに取り組み、

95年タイ政府より表彰される。

http://home.catv.ne.jp/hh/yoshio-i/Iro/01IroCover.htm

 

 

 

 

 

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