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   ”ムラ医者・色平哲郎氏”世相にメス

 

             印刷通信 2001年4月5日付け 6面

 

 

――田中康夫県知事が発表した「脱ダム」宣言には、少なからず驚いた――

 

日本の川の上流部の山中には、必ずといっていいほどダムがある。

コンクリートのダムを造らないで治水をする・・・、

そんなことができるのだろうか。

なぜ今まで、そうしてこなかったのか?

そもそもダムとは何なのか?

 

「日本のような急流で、滝のような河川の多い国土では、

災害を未然に封じ込めるためにこそダムは必然である」

と小学校で教わった記憶がある。

そして「近代的なダムができる以前においては、

大水害や鉄砲水が頻繁であった」と習った。

日本のダム技術は世界一である・・・とも。

実に誇らしく感じた記憶がある。

しかし一方で”もし巨大ダムが壊れたら”との素人なりの心配もある。

そして、以前友人に薦められた「沈黙の川」(築地書館)

という本の中にこんな図表があったことを思い出した。

 

死亡者10人以上のダム決壊事故の実例として、

1860年以降の48の事例が一覧表になっている。

その中のほとんどは死者十数人から数百人規模であり、

国では、英国、米国、その他と並ぶ。

説明文には、「20世紀、中国を除いた、

データが入手可能なダムの決壊事故により、

総計で約1万2千人が死亡した」とある。

しかしながら、世界的な統計は、混乱しており矛盾だらけである・・・と続く。

なかなか難しい分野のようだ。

 

国際機関のデータによれば、1950年以前に建築されたダムのうち、

およそ2・2%が崩壊、それ以降に建設されたダムの決壊率は0・5%だ。

やはり、技術は進歩しているようだ。

しかし、それだけ大きな高いダムが、

困難を乗り越えて建設されていることを物語っているように読めた。

 

ある研究者によれば、1900〜1969年の期間で平均決壊率は、

小規模ダムでは2・4%、大規模ダムでは1・7%、

ここでの大規模ダムとは日本でのダムの定義と一致、

高さ15メートル以上のものを指す。

明らかに中国が除かれており、またその他の国々についても、

必ずしも網羅的であるとは思えない。

 

中国では、「1950年以来、およそ3200ものダムが崩壊した」とある。

中国には8万のダムがあるというから、この数字はダム総数の4%に相当する。

ダムの寿命と老朽化の問題もあろう。

 

図表の中で唯一の日本の例は、明治元年の入鹿池の決壊、

江戸時代1633年の建造で1868年に千人以上が死亡した、とある。

やはり近代ダム工法の導入以前の出来事だ。

ダム決壊の2つの主要原因は「越流」と基盤の問題であるという。

前者が全体の40パーセント、後者が30パーセントを占めている。

 

 

 

――原発を除けば、ダムほど、

多数の人々を死亡させる巨大な潜在的危険性を秘めた人工構造物はない――

 

そして、詳細がよく知られていない中国大陸に史上最悪のダム災害があった。

1975年8月、中国河南省で発生した。

1950年代に、淮河上流に建設された板橋(バンチャオ)と石漫灘(シーマンタン)

の2つのダムだ。

 

同年8月5日に河南省を襲った巨大な台風によって、

7日の夕方、上流の板橋ダムの排水ゲートが土砂で詰まって水がダムの堤を越えた(越

流)。

下流の石漫灘ダムが、あふれ出した奔流に襲われ崩壊した。

石漫灘ダムを決壊させた水流は、下流にあるダム群を「ドミノ倒し」に破壊、

その数、実に60ダムにのぼった。

流水は時速50キロで押し寄せ、その総量は

(日本最大の貯水量を誇る奥只見ダムと同じ)6億立方メートルだったという。

数千平方キロもの広さの湖を形成し、一気に8万5千人の命を奪った。

8月13日になっても水は引かず、2百万人が水の中に取り残されていた。

照りつける夏の太陽の下、屋根の上など避難していた14万5千人が、

飢えや赤痢などの伝染病で死亡した。

 

本当だろうか?

当時の中国大陸であれば、旧ソ連の技術援助で造られたダムだったのか?

日本の世界一進んだダム技術とは比べるまでもなかろう。

 

近代の日本ではもちろんこんな事故は知られていない。

「沈黙の川」は続く。

この出来事は発生後20年間にわたり、中国政府に巧妙に伏せられてきた。

しかし95年2月、米国の非政府組織(NGO)の手で世界に公表された。

 

NGOがこの事件を調べる契機になったのは、

「80年代後半の比較的開放的な時期に中国の水利資源専門家が公表した、

いくつかの論文だった」と。

いずれにせよ、ダムの建設あるいは中止は、

私たちの生活に極めて重大な影響をもたらす。

 

今回の「宣言」を含めた是非は、田中知事や県議会に任せず、

いっそ「県民投票」で問うというのはどうだろう。

もちろんそれに先行して、県民各位の認識の深化が必要であり、

県内メディアの役割に大いに期待したい。

 

「世界一」といわれるダム技術の全容とその限界

(がもしあるとすれば)を勉強してみたい気持ちが、

がぜんわいてきた。

 

 

************

 

――闇を消す風と光と熱 静かに進むエネルギー革命――

 

山の村に暮らしていると、

古老から自分の家に初めて電気が引かれたときの話を伺うことがある。

少年のころ、昭和初年のことだそうだ。

闇夜(やみ・よ)が明るくなった話を、昨日のことのように、

鮮明に覚えておいでになり、感銘を受ける。

 

村に最初の電灯が灯(とも)された時代、電力会社の職員は、

仕事に「やりがい」を感じていたことだろう。

村人も大喜びだ。村の家々、すべてに電気を普及させていくことは、

何年もかかったろうけれど「手ごたえ」のある仕事だ。

昭和初期に私の村を電化していった、当時の「信濃電灯」の社員の士気は、

さぞかし高かったことだろう。

 

世界人口の3分の1、20億人は、21世紀になっても、

家庭用の電気供給が未(いま)だにないそうだ。

今どき、電気のない生活だなんて……。

日本の若い世代には考えにくいことだが、

数十年前のこの国の各地にも、暗い夜があったのだ。

 

「電気と生活」と言えば米国では、風力発電のコスト低減が著しい。

一キロワット時あたりの発電コストは、

1991年から98年の間に18セントから5セントに下がったという。

 

コストが3分の1以下になったのには、

一基1000万円からした大型の風力発電装置が、

技術革新で300万円程度に値下がりしたことが大きい。

広大な土地に共同所有で高さ60メートルの大風車を建て、

発電して電力会社に売電する――土地のある農家や牧場主にとって、

「風」は、お金儲(もう)けのチャンスになった。

 

風力発電による発電量が世界一のドイツでは、

まさに「風が吹くと、だれかが儲かる」時代になっているそうだ。

 

風など、自然を利用したエネルギーといえば、

日本はソーラー発電用パネルの世界最大の生産国である。

ソーラーパネルは、空から降り注ぐ太陽光を電力に変換する装置で、

国内では建物の屋根などに設置されて家庭用にも普及している。

大規模な送電設備を建設する必要のない分、その場ですぐに使える発電システムだ。

政府の途上国援助(ODA)など、海外への援助活動に最適ではないだろうか。

 

信州の若者たちが、ソーラーパネルを背負って世界中の途上国の村々を回り、

電気の明かりを灯して歩く……。そんな光景を私は夢見てしまう。

 

ボランティアとは、何も戦地や被災地を回ることだけを意味してはいない。

「電化ボランティア」がいてもいいのだ。

 

「世界一」ついでに言うと、日本列島には1万2千の温泉があるといわれ、

地熱発電について世界的な好適地なのだそうだ。

地熱発電を途上国に背負っていくことはできないが、ご当地で利用するなら、

大規模な送電設備がいらない分安く、しかも送電に伴うエネルギーのロスもなく効率的

だ。

何とかうまく活用できないものか。

 

世界では今、遠隔地で化石燃料(石油・石炭など)を燃やし

二酸化炭素を排出する発電・送電システムから、

近場で自然エネルギー(太陽光や地熱、風力)を使う発電への転換が、

「もうひとつのエネルギー革命」として、静かに進行中である。

 

電化された便利な生活を享受している私たちにとって、

地球上の限りある資源を「効率よく利用する」ことも大切な責務なのだ。

 

 

*****************

 

−著者の紹介−

 

長野県南佐久郡南相木(みなみあいき)村診療所長、内科医、

NPO「佐久地域国際連帯市民の会(アイザック)」事務局長。

1960年神奈川県横浜市生まれ、40歳。

 

東京大学中退後、世界を放浪し、医師を目指し京都大学医学部へ入学。

90年同大学卒業後、長野県厚生連佐久総合病院、

京都大学付属病院などを経て長野県南佐久郡南牧(みなみまき)村野辺山へき地診療所

長。

98年6月より、南相木村の初代診療所長となる。

 

外国人HIV感染者・発症者への「医食住」の生活支援、

帰国支援を行うNPO「アイザック」の事務局長としても活動を続ける。

こうした活動により95年、タイ政府より表彰される。

 

http://home.catv.ne.jp/hh/yoshio-i/Iro/01IroCover.htm

 

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〃ムラ医者〃として生きる色平哲郎・南相木村診療所長

 

20年以上も無医村だった長野県南相木村(みなみあいきむら)に常駐医師が赴任した

。色平哲郎(いろひら てつろう)さんである。

 

先端技術を駆使した専門医よりも、

〃ムラ医者〃であることを選んだ色平さんは筋金入りの医師である。

 

静かな尾根に抱かれた長野県南佐久郡南相木村は標高約1000メートルに位置し、

千曲川支流の南相木川流域の山村である。

村のほとんどが斜面で、耕地面積は村のわずか3%に過ぎず、

過疎指定地域の一つである。

村の中心に役場や農協、保育園などが集まり、

色平さんの南相木村国保直営診療所もここにある。

 

診療所の待合室は、朝早くから開所を待ち切れずやって来た村の老人達で賑やかである

。「今日は顔色が良いね。夜はぐっすり眠れたかな」、

色平哲郎医師(41歳)が聴診器を片手に診療を開始する。

 

「無医村の医師になりたい」と思い、

色平さんが一家5人で南相木村診療所に赴任したのは3年前だ。

週に3回、午後の2時間だけ佐久総合病院の出張診療が行われていたが、

人口1353人に対して65歳以上が占める割合が約34%と高齢化が進む南相木村で

は、

医師の常駐が望まれていた。

色平さんは有名進学校の開成学園から東京大学に進んだが、

〃エリート〃としての自分の将来に疑問を感じ始める。

 

大学4年の夏、自分を見つめ直す旅に出た。

世界各国で、貧しいながら、お互いを思いやる厚い人情に出会う。

帰国した色平さんは東大を中退、家を飛び出して日本各地を放浪する。

キャバレーの住み込みや、パン職人、「土工」などの仕事を経験する中で、

教科書では習うことができなかった生身の人間が織りなすドラマに感動を覚えた。

 

1983年、京都大学医学部に入学する。

医学生として訪れたフィリピンで、

生涯の親友となるバングラデシュ出身のスマナ・バルア医師と出会った。

一緒にレイテ島の農漁村を回り、卒業後の進路を決めた。

 

印刷通信社

代表:谷本健吉

 

 

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