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        「支え合い」の介護

 

                 現実知らぬ「家族で」の論調

 

 日本では、これまで「介護」といえば、家庭で家族の手で看(み)ていくか、

ケア付きのマンションなども含めて「施設」に入れてしまうか、

医療保険をつかって入院させておくか、選択は三通りしかなかった。

 

 病気やケガが治るか、あるいは症状が落ち着いても、

家族が「家に引き取るのが大変だから」と病院に置いておくことを願う。

この選択肢はいわゆる「社会的入院」とよばれる方便だ。

その結果、「入院費」として莫大な金額が費やされ、

「福祉の医療化」とよばれる事態をひきおこしてきた。

 

 四月から介護保険制度を導入した背景には、この膨らむ医療費問題の「解決」

への模索もあるのだろう。

現在でも七十兆円を超えている(年金、医療、福祉を合わせた)この国の社会保障費は

、十年後に百四十兆円、高齢化がピークに達する二O二五年には二百三十兆円と試算さ

れている。

 

 

 従来の仕組みでは、「大金持ち」と「低所得者」は、それなりの介護が受けられたの

である。

 大金持ちは資産にものをいわせて、低所得者層は公共の福祉行政によって、

それぞれに支援を受けることが出来た。

つまりそれぞれ「自助」「公助」ということばにあたるだろう。

結局「支えあい」(「互助」と「共助」)の感覚が薄い社会で割りを食うことになるの

は、

国民のほとんどを占める小金持ち、中産階級である。

 

 そして、今回、「被介護権」ともいえる新たな人権が、公的介護保険制度

によって導入された。

介護保険とは、「共助」としての保険制度で、

従来医療保険に転嫁されてきた負担に備えるというものだ。

保険制度とはみなでお金を出し合って、不意の事態に備えようとする企てである。

 

 一部政治家は言う。

「家族でご老人方の介護を担わなくなってしまったのは、まことに嘆かわしい風潮だ」

「介護を家族で担うことこそ、この国の美風である……」

 

 このような論調は、俗耳には入りやすい。

しかし、私たち現場を知る者にとっては、まったくナンセンスな言い分である。

それは、つらい現実が眼前にあるからである。

 

 昔なら、寝ついて数週間で皆に囲まれて亡くなっていったご老人が、

現在では医療技術の進歩もあってか、数年間か保つ場合がある。

これは、もちろんすばらしいことである。

しかし、一般的に「平均三年」とは言われているものの、渦中にいる介護の当事者

(ほとんどが女性)にとってはエンドレスと思える時間であろう。

私のむらでは、十八年間家で寝ついていた方がおいでになった。

 

 お年寄りが寝つく期間は、これからも同じであろうか。

そうした果てのない時間の中で

「介護は自助で」「家庭内介護こそ親孝行」

といった一部政治家の議論は、到底無理な相談なのである。

 

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