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       7 医者どろぼう

                  金を介さぬ時代の治療費

 

 私の自宅のすぐ目の前に、江戸中期からの二百八十年の歴史を有する萱葺

(かやぶき)の大きな農家がある。

 すばらしい構えの屋敷である。

旧道から急坂を登って土蔵、味噌倉を過ぎ、深井戸がある。

内部はオクザシキ、オモテザシキ、コザシキ、ナカノマ、チャノマ、

デードコとあって、周囲には廊下を廻(めぐ)らしてある。

 

 囲炉裏端の主人の座からは、二頭の馬の顔が望め、

中二階には蚕室がある。

土間の高い所には、トキを告げるオンドリの住む小部屋もあった。

 

 北向きの奥に、産室がある。

 産室には木の棒が渡してあり、そこに掴まって十世代からの女衆

(おんなしゅう)は赤ん坊を産んできた。

そんな時代のむらでは、産婆さんが取り上げきれずに母子ともに

亡くなったことがずいぶんあったものだときく。

 

 集落のあちこちで、無医村時代の悲哀が語られる。

 

 昭和初年、三二才の母親が六人目のお産の後、苦しみだした。

産婆さんも手に負えないという。

すぐに医者に診てもらわなければいけないのだが、村には電話も車もなかった。

 駅のある街までいけば医者がいるが、急いでも二時間はかかる。

村の若者に走っていってもらうことにした。

しかし、お願いするには、ないかしなければいけない。

そこで、どうしたか。

若者にご飯をたらふく食べさせた。

 

 お金をあげる習慣はなかった。

 

 ごちそうしてもらった若者は十キロほど下った街まで走っていった。

なかなか戻ってこない。母親は苦しんでいる。

やっと戻ってきたのは七時間後、それも医者といっしょに車に乗って。

このとき村びとは初めて自動車というものを見た。

 

 戻ってきた若者が言うには、最初に行った馴染

(なじ)みの医者が不在だったため、川向こうの、

ふだん付き合いのない医者を呼んできたとこことだった。

馴染みの医者であればすぐに診療費を払う必要はなく、節季払いでよい。

その医者は診察後「はい、四十円になります」と言った。

みんな、「往診代二五円」と「車代十五円」との金額に圧倒された。

 

 手遅れだった。

元気に生まれた男の子も、ヤギの乳を飲ませて育てたが、四ヶ月余りで死んだ。

馬一頭が三十円、郵便配達員の月給が十六円の頃だ。

昭和農村恐慌の渦中にあったむらはまゆ価が暴落し、収入源の養蚕も壊滅状態。

母子を亡くした一家に借金だけが残った。

 

 現金で支払うべきものと、現金を必要としないものとが、当時の村の生活にはあった

。村内では、人と人の間にも、共同作業など「お金を介さない」関係が成立する時代だ

った。医者を呼びにいってくれた若者に対するように。

 

 しかし、医者には、それは通用しなかった。

 

 現金化できるものは蚕と子馬だけの時代。

むらびとにとって医者を呼ぶことは、ぎりぎりのくらしの中で大きな負担だった。

 

 「医者どろぼう」ということばの生きていた、そんな時代だった。

 

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