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       歩く旅と私のふるさと

 

 

 大学を中退したり、国内外を放浪したりと、母には、心配をかけ続けた。

 母のふるさとは、越後(新潟県)の農村で、千曲川が信濃川となって海に注ぐあたり

だ。蒲原平野の米どころである。

 

 一族のほとんどが百姓であり、今は多少変わったが、私が子どもの頃は、

まともな大学出はいなかった。

やはり越後から東京に出ていた私の父が、苦学の末、(普通とは逆に)家に仕送りをし

ながらやっと夜学を終えた程度だった。

 

 越後は昭和初年の農村恐慌で娘の身売りが多発したところである。

娘たちは信越線で信州を回って東京へ向かった、と聞かされたものだ。

 

 明治になって、百姓は女の子を間引きするかわりに、それを娘に育てて売ることにな

った。近代は、この人身売買を公然のものにしたのである。

「日本残酷物語 近代の暗黒」 宮本常一(つねいち)監修・平凡社

 

 母から聞くと、私は、かけ算の九九や漢字を素直に覚え込むことに抵抗し続けた小学

生だった、という。

中学校では、中高一貫だったこともあって高校受験がなく、「堕落の中三」と呼ばれた

。酒、タバコ、スキー、麻雀と、親の金を使いまくった。

 

 あせりがあった。

強迫観念だった。

大学生になったら、おとなだ。

おとなは(父がそうだったように)自活しなければいけない。

自分の金で生きていくのは大変だせ、今のうち遊びまくるんだ……。

 

 大学に入ってあぜんとした。

日本では親に一定の収入があると、奨学金がもらえない。

親は関係ないだろう! 

俺は自分で働いて、それで勉強して食っていきたいんだ!

 

 怒りにまかせて東京から新潟まで歩いた。

母の実家まで野宿しながら行った。

残雪の谷川岳を蓬(よもぎ)峠で越えたことを覚えている。

 

 

 「ばかばかしい」と、東大を中退した二十一歳の私は、放浪の旅に出た。

 

 長くひもじい徒歩旅行で手持ちの金を使いはたし、飛び込みのキャバレーで、ボーイ

として拾ってもらった。

まだ、フィリピン人女性が日本に来る前のことだった。

寮で一緒になったのは、出稼ぎの若い沖縄の女たちであり、店のオーナーは、たたき上

げのコリアンだった。

 

 夕方になると「おはようございます」と仕事が始まる。

それまでの空き時間、近所の市立図書館に通った。

そして、前出「日本残酷物語」の文章に出会った。

ほとんどホームレスであったその日暮らしの私にとって、この言葉は、監修の宮本常一

という人物の名前とともに、深く人生に刻まれた。

 

 

 その後私は、やっとのことで医大を卒業した。

四十になった今は、相木川の上流の村に家族五人でくらしながら、村の医療に取り組ん

でいる。

 

 国道も鉄道もない南相木(みなみあいき)は山の村である。

標高が1,000メートルを越え、春の訪れも遅い。

今、レンゲツツジが咲き乱れる季節を過ぎ、高原は短い夏を迎えている。

 

 川の流れをここ南相木から下っていくと、千曲川になる。

千曲川をずっと下っていくと、私のふるさとに至る。

そして今、この南相木こそが、私の三人の子どもたちのふるさとになりつつある。

 

 

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