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           4 消えゆくムラ

 

日々圧倒される 知恵と技

 

長野県東南部、人口約一三〇〇人の南相木(みなみあいき)村。

私は、鉄道も国道もないこの村に、初代診療所長として家族五人で暮らしている。

 

自家用車が普及するまで、人は最寄りの鉄道駅小海(こうみ)まで三里の山道を歩いた

という。

養蚕や炭焼きなどの山仕事しか、現金収入のなかった時代だ。

今は村営バスが走り、農作業も機械化されたが、

患者さんのほとんどは、そんな村の歴史を知るお年寄りたちだ。

 

診療の合間に、その口から語られるのは、遠い記憶である。

今はない分校に子どもたちの歓声が絶えなかったこと。

足ることを知り、隣近所が支えあったくらしぶり。

山に生かされた日々であった。

しかし、1836年(天保七年)の飢饉(ききん)では村の餓死者百二十余人。

1897年(明治三十年)七月の赤痢、寺への収容者二五〇名中、死者四〇余名。

今も村に残る篤い人情に感激する一方で、ひもじさと感染症流行の生々しい記憶があっ

た。

 

分け隔てのなさ、生活の楽しみ、笑い、目の輝きの一方に、

みてくれ、ぬけがけ、あきらめといったムラ社会の狭さがある。

このような二面性は、かつて放浪し、

へき地医療にとりくむきっかけになった東南アジアの村々を

彷彿(ほうふつ)とさせた。

地域というものは、外からの援助では決してよくならない。

そこに実際に住んで日々のくらしを送っている者が

自らつくっていかなければ、決してよくならないんじゃ。

 

民俗学者・宮本常一(つねいち)氏(1907−81)のことばである。

 

「風のひと」として、この村に移り住んだ外来者である私たち家族は、

隣人である「土のひと」たちに、日々大変お世話になっている。

七百年の歴史をもつ自然村相木郷(あいきごう)の包容力に感動しつつ、

進行する高齢化と過疎化の波に「ムラの自治」の将来を案ずる内科医

としての日常がある。

私の診療所には毎年百数十人の日本の医学生、看護学生、社会人が訪ねてくる。

彼ら彼女らをムラに受け入れて、消えゆくムラの確かな何かをお伝えすべく、

地域の友人たちととりくんでいる。

 

村人の持つ生き抜くための知恵と技、「ずるさ」と「たくましさ」には、

日々圧倒される。

どしっと座ったクマ撃ち名人の老人に、「あなた方は今何を見るか」と問う。

彼ら百姓は、文字通り、百の技能を持つ。

山仕事から自分の家まで建ててしまう。

しかし、今様に国民総生産(GNP)に換算すれば、

マイナスになってしまう生き方である。

彼らのかっこよさ、すさまじさ、パワーは、私が若者にお伝えする以外にない。

 

だから私は、十年後もへき地で働く医者でありたい。

 

 

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