「介護保険とまるごと使う本2001」
長野県版
2001年8月15日刊
信濃毎日新聞社
146ページ−148ページ



医者要らずと医者嫌い


南相木村診療所長  色平 哲郎

いろひら・てつろう
南佐久郡南相木村国保直営診療所長。
佐久地域国際連帯市民の会・事務局長。
1960年、神奈川県横浜市生まれ。
東京大学中退後、世界を放浪し、
医師を目指して京都大学医学部へ入学。
長野県厚生連佐久総合病院、
京都大学医学部付属病院などを経て、98年から現職。
地域医療のほか、外国人の労働者・女性、
HIV感染者・発症者への生活支援など、
幅広く活動している。



「村の医者」への期待は

往診の途上、車の窓からチラリと、彼女の小さな家が見える。
そのたびに、彼女のことを思い出す。
「医者知らず」な、元気な人だった。

ほんのたまに、風邪をひいて僕の診療所にやってきた。
ひとり暮しと聞いたが、さびしそうではなかった。
陽気な人で、近所の女衆(おんなしゅう)を集めて、
趣味の手芸を教えていたようだ。

彼女から急な電話があったのは、真冬の夜の11時くらいだったろうか。
胸痛……これは一刻を争う事態だ、すぐに車で駆けつけた。

茶の間で横になったままの彼女は「背中が痛い。痛みが動く」と口にし、
直後に絶句して、脈が触れなくなった。

症状からは、解離性大動脈瘤の破裂が疑わしい。
ほぼ即死となってしまい、「医者要らず」である。

数分後、孫嫁さんが駆けつけてきた。
私は蘇生処置をしていた。
「残念ながら絶望的である」と顔見知りの孫嫁さんに申し上げ、
一瞬手を止めた後、また処置を続けた。

本家の嫁さんも駆けつけてきた。
「残念ながら絶望である」と私は繰り返した。
そして手を止めて、彼女の開いた瞳孔を確認した。

医者として、”無力感”に深く感じいった。

心血管系の病気は「勝負」が早い。
病気が病気なのだから……私が緊急往診して何とかなる……
そんな話ではなかったのだ……。
そう自分に言い聞かせたが、それにしても無力感は重かった。

親族の女衆に「後」を任せて、診療所に戻って診断書を書いた。

翌日、村の私の診療所で、外来患者さんの何人かが彼女のことを話題にした。
私は、「僕は、役に立たなかったよ……」という気持ちで聞いていた。
しかし、何か、受け取り方が違うのだった。

ある人は言った。
「彼女は、ポックリ逝(い)けて幸せだった」―― ?
「住み慣れたところに最期までいたい……といつも言っていたんだよ」

別の患者は言った。
「先生が駆けつけてくれて本当によかった」―― ?
「村で死にたい、ポックリ逝きたい……願いのかなった彼女は幸せだ」

駆けつけた医者は、まったくもって役に立たなかった訳ではないのか?
一人暮しで、朝になって「発見」されると、警察が来て解剖になってしまう……
”ポックリ”逝くのはいいが、解剖にはなりたくないよ、
村人は暗にそう言っていた。

普段から「血のつながりより、心のつながり……」
と口にして、「覚悟の」一人暮らしを続けていた彼女だったという。

なんと、こんな反応まであった。

「先生の腕に抱かれて逝けたなんて、すばらしい……。
私も彼女にあやかりたい……」―― ?
これには、まったく驚いた。

こちらのまったく予想もしない数々の、村ならではの”反響”にとても驚き、
「その人がその人らしく生き、そして死ぬ」ために、
介護保険時代の今、村の医者に期待されることとはいったい何だろう?
と考え始めた。



お年寄りの選択を応援

介護保険制度が施行二年目に入った。

「介護の社会化」という、新たな人権概念の導入である、と騒がれたものだ。
地域福祉のありかたについて、そして「福祉と看護・医療との連携」についても、
今までになく注視され、期待感をもって語られているように感じる。

それは、まさに看護職・医療職にはなしえない、重大な責務「権利としての福祉」を、
地方公共団体としての自治体が担う、そんな地方分権、地域主権の時代が到来した、
との期待感からだろう。

個々の住民からのまなざしにも、”厳しさ”を秘めた、ある種の期待が感じ取れる。

とりわけ地域の民生委員の方々とお話すると、大変勉強になり参考になる。
「住民の立場に立った相談・支援者」である彼らは、
直接に住民の希望や期待を集約し、行政への窓口として働く機能を持つ。
まさに日本における”ボランティア精神”の先駆者であろう。

「医者が大嫌い」という方がいた。

しかし、すでに2つのガンを、佐久病院で手術してうまく乗り越えていた。
井出一太郎代議士と同級生だったという、88歳の男性だ。

村で民生委員を長く務めた、とても知恵の深い方だった。
若いころから肺の病気をわずらっていた彼は、
たまに熱が出ると、必ず、重症化する前に私の診療所を受診して、
入院にならずにうまく(医者との付き合いを)回避していた。

「医者嫌い」なはずなのに「死病」を2つも乗り越えている。
これは只者(ただもの)ではない……
外来診療の際、彼の洞察力をいつも身近に感じていた。

その彼が「最近、外出しづらくなっている」との村のうわさを耳にした。
往診ではなく、立ち寄ってみた。

いつもの肺炎症状ではない。
上腹部、肝臓に一致して腫瘍(しゅよう)が触れる……
体重が1ヶ月で3キロ減少している……
ごく軽いが、黄疸(おうだん)が認められる。

再度の、しかも別のガンが疑わしい……

日帰りで佐久病院で撮った腹部CT写真に、「診断」がはっきり写っていた。

死病になるようなら、もう二度と入院はしたくない……
いつか彼が言った言葉を思い出した。


村の福祉担当者は優秀な方で、すぐにさまざまな”配慮”をしてくれた。
佐久病院の小海(こうみ)診療所からは、訪問看護婦さんが毎日来てくれた。
私も毎日往診した。

介護保険の有無にかかわらず、在宅介護に医療は不可欠である。
熱心な家族の”やる気”をいかに支えていくか、その点にあって医師の役割は大きい。

そして私には、いつもうまく担えないのだが……
福祉・看護・医療のチームにあって、調整役であったり、
援助役であったりと、医師には多様な役割が求められているのだ。

”大往生”だった。
連絡を受け深夜にご自宅に伺うと、小海診療所の訪問看護婦も来てくれていた。
今も家の前を通るたびに、彼のことを思い出す。

研修医だったころ、埼玉県の研修先の病院で、
「主治医能力こそ、一番大切だ」と教わった。

教えてくれた医局長は私の高校の先輩だったが、こうも言った。
「将来、診療所を開設する……、となったら、
一番に手を挙げて、初代の診療所長を引き受けろ。
迷わず引き受けろ、大変勉強になる。」

村内にお住まいの方については、
介護保険の書類は、できるだけ書かせていただくようにしている。
主治医の定まっていない方についても、引き受けて書くようにしている。

”ポックリ”であれ、ご自宅での”大往生”であれ、
その人がその人の望むように生き、そして最期を迎える……、
それを援助させていただくのが、「村の医者」の役割であると感じる。

そして農山村での方が、
医師はそれぞれの患者さんの人生や家族とのかかわりが深いように感じた。
都会と村とでは、医師に期待される役割も違うのかもしれないな……
ふと、そう思った。

以下、諏訪中央病院の高木宏明医師による
「介護保険と医師の役割」という論文から引用して、終わりとしたい。

「……私たちが学んできた医学は、いわば病院医学であって、
”患者を収容して一定の管理下に種々の検査・治療を行う”医学である。

本質的には家や地域で生きている相手のその生活を見ない、見ようとしない、
見る必要があることを知らない医学であると思う。

その中では専門医が一流とみなされ、
地域で在宅ケアをやっている医師は二流とみられてしまう。

こうした背景から、私は一般論として、
医師はあまりケアマネージャー向きとはいえないと思っている。

在宅ケア・地域ケアの理念やケアマネジメントの本質を知らない医師が
ケアマネジャーとなって、古くからの医師の強権と病院医学をふりかざして
地域で大きな顔をされるのは、現場にとってかえって迷惑である場合もあろう。

そこから脱却し、地域に密着した、相手の立場に立った医療を日ごろから実践し、
地域の住民や現場の関係者(コメディカルやホームヘルパー、さらにはボランティアな
ど)
から信頼され、そうした人々をうまくコーディネートしていける資質を備えた医師が
ケアマネジャーとして活躍されることを期待したい。……」

(医学書院 月刊誌「プライマリケア・総合診療」1999年5月号より)



























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